第十四話
新城正樹は父親の大きな手に引きずられるような形で、生まれた港町を出た。保育園の頃からの友達や小学校で一緒にサッカーをして遊んだ友達が一生懸命手を振る。正樹の記憶の中ではこれは、「小学校を転校します、さようなら」という最後の日だった。
転校の意味をはじめ知らなかった。ただ転校が決まって時が経つたびに、自分がこの学校からいなくならなければならいということが分かった。嫌だと、父親に言うことはなかった。寂しいと、父親に言うことはなかった。父が毎晩、毎朝、「すまない」と謝ってきていたからだ。父子家庭、父―新城清志と正樹二人だけの家族。だから毎朝毎晩の謝罪に終いには怒った。いい加減にしろと。そんなに謝るなら今の仕事やめちまえ!と―そんなこと、父に向かって怒鳴りつける度胸など幼い正樹にはなかった。ただ、怒って父と言葉を交わさなかった。そもそも正樹が何で怒っているか清志は勘違いしているのだ。転校することを嫌だ、寂しいと思っていても父と離れるのはもっと嫌だし、悲しいと思う。大好きなのだ。清志も自慢の息子だと頭を撫でてくれた。ぼさぼさになった髪を直しながらも、父の大きな手で撫でられることが嬉しくて、心が安心した。自分も父のような存在になりたい。そう思った。
誰かを安心させる存在でいたい。そして、あの時、あの場所で二人の兄妹と出合った。
自分は誰かを守るには、まだまだ小さい存在だった。それでも二人の笑顔を守りたいと思った。だから、正樹は二人を守れるだけの力がほしかった。二人に誇れるだけの力がほしかった。立派な、兄として見てほしかった。二人を守れる、兄として―。
正樹は医師の話を聞きながら、思い浮かべたのは父の手の平。ただただ、突きつけられた事柄に呆然としていた。助けてほしいと救いを求めた手の平。こんなとき、父が、幼馴染の二人がいれば―自分の足元は固い。二人がいれば、決して救いなど求めない。しっかりしなければと奮い立たせることが出来るのに、今、正樹は一人だった。
突然、喫茶・アルトで倒れた正樹に付き添ってくれていたのが、大学入学時になぜか無駄に意気投合してしまった相沢翔と、アルトのウェイトレスの葛木桃果だ。子供じゃないから付き添いなんて要らない、と苦痛に呻きながら二人に告げたが桃果の「君は未成年でしょ!?」の一喝に有無言わさずだった。正樹はまだ十九歳。未成年。まだ、守られる側の人間なのだ。
二人が診察室から出てきた正樹に駆け寄った。痛みに気を失ってからの時間付き添ってくれていたらしい。昨今隣人は冷たいというが、二人は無駄に温かいなぁと苦笑いを浮かべた。突然笑った正樹に翔が、大丈夫か?と恐る恐ると問う。問うが、正樹はどう大丈夫なのか分からなかった。
体のことを知った正樹は今、大丈夫ではない。体は一時的にホルモン剤で女性ホルモンを押さえている。時たま起こる身体の痛みは月経痛だったらしい。薬で痛みは無くなった、けれどまた痛みが起こる。大丈夫なのか分からない。なにもかも、わからない。
ただ、――わからない。
誰にも何もいえない。心配して深夜まで付き添ってくれた二人にも何もいえなかった。大丈夫だ、と笑って嘘もつけなかった。逆に大丈夫じゃない、とさらに心配をかけることも出来なかった。わからない、と言って誤魔化すことも出来ない。二人にお礼を告げてタクシー代を渡す。要らないと桃果は断ったが正樹は譲らなかった。譲らず、じゃあアルトの軽食メニュー上から下まで。と頼みその場を茶化しお札を桃果に押し付けて、頼んでいたタクシーに乗り込んだ。桃果と翔の喚き声を聞きながら、後部座席のシートに身を預けた。
(……最悪だ…)
それしか頭の中に浮かばなかった。
次の日が、今日が休日でよかった。帰宅した正樹はそう思いながら、ソファーベットの上に倒れこんだ。翌朝、決心して父親に電話をかけた。長いコール音の末、通話口に出た父親の声を聞き安堵した。泣きそうだった。珍しく駒形兄妹以外のことで電話をかけてきた正樹に驚いた父は茶化しながらも正樹の話を聞く。正樹は体のことをすべて話した。話した、と言うほど詳しくはわからない。医師に告げられたことをそのまま父親に告げた。
《そうか。バレたか》
ため息と共に出された言葉に、頭の中が真っ白になった。バレた?なんだそれは。正樹の手にしていた固定器の受話器が軋んだ。
《まあ、そういうことでお前は男ではなく、女なんだな。これが》
さっくりと明るく告げれられた言葉に、目をむいた。「はぁ!?」と叫び声を上げ、問い詰める。問い詰めると、
《お前、だって、碧ちゃんと結婚するとか何とか言ってただろ?子供の夢を壊したら駄目だと思ってな。それにお前は嘘がつけないだろう?すぐ碧ちゃんや蒼君にバレる。だから黙ってたし、戸籍上は正樹お前は男として登録してあるからなぁ。別段その時はそのままでもいいかなって思って、な。それに先生も言ってただろ?大体の人間がその性別のまま生活するって。お前が男を選んでいる以上俺がとやかく言う必要もないかな、と》
ふさげんな馬鹿ヤロウ!と、初めて父親を罵った。
《お前が県外の大学に進学したいと言ったときに告げようかとも迷ったが、おまえ自身が考えて選んでいたからな。蒼君や碧ちゃん『離れ』開始しようとしてるときに告げるのもなんだと思って》
その言葉に、正樹は受話器を落とした。慌てて拾った。受話器越しの耳に届く父親の声。
《正樹…バレないとでも思っていたのか?》
呆れた声に正樹は言葉を失った。顔色を失った正樹は、何か言葉を必死に出そうと口を動かすが「あうあう」と奇妙な声しか出てこない。そんな正樹に笑い声を上げる父。
《よく考えろ。あと、お前はどちらかと言うと母さん似だ。美人になるぞ。一度振袖でも着てみるか。あははは。実は言うと女だってばれた時、成人式や見合いがあれば着てもらうと思って振袖(百万)をもう準備してあるんだな!無駄にならなくて良かったっ!さすが百万はやりすぎたかと思ってたんだがっ!正樹の振袖姿楽しみ――》
ブチっと固定電話のコードを引き抜いた。引き抜いた手の甲に青筋が浮かんでいるのは多分怒りからだろう。正樹は、近所迷惑だと知っていても叫んだ。ただ、ただ、叫んだ。
「クソおやじぃぃいい!!」
夏が終わって、秋。春から一転してカッコイイと言われていた正樹は、地味男と影で笑われていた。正樹とて好き好んでこのようなダサい格好を選んでいるわけではない。これでも蒼や碧にカッコイイと言われたいがために見てくれをせっせと磨いてきた過去がある。だから、正樹にとって今の格好はありえないのだ。
LLサイズのパーカーにダボダボのジーンズ。瓶底眼鏡。伸ばしっぱなしの髪。
自分の姿にくらくら気ながらも、この姿を通す。これは既に意地だった。
体は完全に女性体だった。
初夏に女性とわかり、正樹は女性と言う性を選んだ。男のままでいる選択もあったが、正樹は馬鹿正直な人間だった。嘘がつけないのだ。女だと知ったときに、自分の男としての矜持とか何もかもが嘘になってしまった上に、体が女なのに男と嘘をついて付き合える度胸も無かった。嘘を突き通せない故に、心の中で真に助けを求めた実の父親の現実の笑い声に、殺意を抱いたのだ。父、清志に対する反動は凄まじく、失望した。あれだけ父として好いていた父が憎くてたまらなかった。そんな正樹自身にも、正樹は嫌気が指していた。
失意の正樹はただただ、後悔した。幼馴染の手本になれる存在になるために、嘘つきは嫌いだ!と豪語していた。その自分が『存在』から嘘っぱちで、嘘つきは嫌いだと言っていたのだ。落ち込んでいた正樹に、相沢翔は軽く言った。
『正樹が正樹らしくいられるなら、協力する』と。その言葉に自分らしいさ?というものを考え始めた。結果、男でも女でも『正樹』と言う人間は変わりない。ただ、肉体のコンプレックス―背が低いなど―を考えれば、女性になったほうが心身面で楽なのかもしれないと楽観的な考えにいたった。そして吹っ切れた。
自分は自分なのだと。
それに、悲しいかな…、人一倍気になっていた男性の象徴たるものの大きさなど。つまり小さかったのだ。馬鹿にされたことは無いが、ただただ…可哀相な顔はされていた。
父、清志の件はまず置いておくとして、正樹は女性になるために色々なカウンセリングやレクチャーを受けた。手術の日程も無理に詰めた。一年目から留年するわけには行かなかった。兄で無くなったとしても二人にはカッコイイ『幼馴染』でいたかったのだ。
元から鳩胸のように胸が同年代の男子より膨らんでいたが、まさか普通に女子の胸だと思ってなかった正樹は手術後のホルモン剤を受けたおかげで胸がそこそこ女子のような丸みを持ってきた。ここでやや筋肉質ではあるが完全な女性体となった。
女性となったからには、女性として生きる。
女性と生きると決めた切欠はどうあれ、この時から後悔はない。罪悪感だけだった。嘘をつけずに音信普通となっていた駒形兄妹のことだけだ。本当のことも話せない、嘘もつけない。罪悪感で一杯だった。
そのこと以外はどうでもいいと、本気で思っていた。なので、息子よりも娘が出来たことに小躍りする父親を殴りつけ、その拳に対して嬉々として「反抗期か!?反抗期だな!お父さん臭いから嫌い!とか言っちゃうか!」と騒ぎ立てる父親に絶対零度の眼差しを向けたが、それでもはしゃぐ父親の好きにさせるものかと女性らしい格好や仕草、女性としてのカウンセリングを日々受けつつも、父親の望む娘像からかけ離れるために――ダサさを追求した。それがあの格好になるということだ。
一度身に着けただけで、気分が滅入った。滅入ったが、父親から毎月送られてくるようになったダンボール箱の中には女性誌のモデルが着る様な服ばかりで、これを着てくれと言外に言っている。
ここまでくれば、嫌がらせの以外の何ものでもない。服をゴミに詰めて捨てるという行為が出来ず、ダンボールに溜めるわけにも行かず、中身を一通りチェックして使えそうなものを抜き、後は古着屋へ値札の付いたまま売却した。その代金は使わず貯金している。
正樹は父親の嫌がらせにうんざりしながら、毎月かならずダンボールの服を受け取ると嫌がらせ返しに眼鏡とパーカー・ジーンズ姿の自分を撮影してメールで送り、二度と送ってくるなと付け加える。すると、必ず責め立てるになったようなメールが送られてきた。
『そんな格好で蒼君や碧ちゃんの前に立てるのか!』
立てるわけない。同じメールの返信を毎月受け取り、打ち砕かれながらも地味さを突き通した。父親のあの、浮かれた顔がカンに触り腹立たしかったのだ。
しばらくしてからもう気づくべきではないことに、気づいた。自分は、自分が思っている以上に『碧』のことが好きだったのだと。中学、高校時代、告白されても断ってきたのは『碧』という存在との約束があったからだ。碧は蒼と同じく、自分を認めてくれて「すごい」と褒めてくれる。その笑顔がすごく好きだった。それが恋情かといわれれば、正樹はNOといっただろう。愛情ではあったが、それは恋になることなく正樹自ら終わらせたのだ。町を出たときに。碧には、自分以上の男が必ず見つかるはずだと正樹は思っていた。そう思って、町を出た。そう、思っていたのに自分が決めたことにやっぱり後悔している。後悔していないなんて嘘っぱちだ。それを父親に擦り付けていたことが情けなく汚らしく感じた。今の自分は汚い。嘘で逃げずに、ただ連絡もせずただ、何もしないで逃げ続けているだけの汚い存在だ。
こんな存在に、二度と笑いかけてくれるわけない。
碧や、蒼は幻滅するだろう。
二人に連絡できない、連絡しない本当の切欠を知ったら――。
もう、きっと『幼馴染』でさえいられない。




