第十二話
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碧が飛び出してから、時計の針が夜の11時を指した。
居間でそわそわとしながら、碧が行くであろう本井家からの電話を待っていた。碧が逃げ込む先なんて蒼は分かっていた。明るい性格の碧だが、腹のうちは一握りの人間にしか見せない。親友と呼べる本井雪。彼女からの連絡を、進む時計の針を見ながら待っていた。乱暴に玄関の扉の開閉の音が響く。碧がいつ帰ってきても良いように玄関のカギは無用心だが開けていた。バタバタと足音を立てて今に飛び込んできた碧は走ってきたのであろう、髪を乱し、顔を泣きはらし、目を吊り上げてソファーに座って時計から視線を移した蒼の襟を乱暴に掴む。
掴んで、蒼に、告げた。
「正樹のファーストキスをとった責任とって」
「……みどり?」
いぶかしげに、妹を見る。妹は―碧は追いつめられたように顔を歪める。
「正樹が、…そばからいなくなる」
その言葉を蒼は困惑しながら受け止めた。困惑し、動揺した。いなくなると言った碧の切羽詰まった有様が、事実だと物語っている。
「蒼は責任を取らなきゃいけないのっ!責任とって結婚して!」
「…は?」
「正樹の唇を!ファーストキスを奪った蒼は、正樹と結婚すればいいのよ!」
「……、碧。お風呂沸いているから入ってきたほうがいい」
そして冷水シャワーで頭と腫れた顔を冷やして来いと遠まわしに伝えるが、碧はかぶりを振り、
「…正樹、絶対、――わたしたちじゃない誰かを選ぶ…」
その言葉に、目を見開く。
「なにいって…兄さんは、碧を」
「選ばないよ。正樹は女の人だもの。正樹はそういうところはきちんとするもの。『わたし』はもう、正樹の恋愛対象外だもんっ!それに、男の人から女の人になった正樹は絶対私たちの傍にいようとしないっ。変わった自分は絶対わたしたちの邪魔になるって思うもんっ!正樹はぜったいそう考えるもんっ!わたしたちのこと大好きっていっても、それはわたしたちが正樹を好きって気持ちよりぜったい小さい!簡単にわたしたちのこと諦めるもんっ」
蒼の手を握る。
「蒼は自分の気持ち、気づいた。まだ、全然わたしなんかより蟻んこみたいに小さい気持ちだけど」
「おい」
「けどね!他の誰かに正樹が盗られるなら、蒼がいいっ!蒼じゃないと嫌!」
「碧っ。勝手にきめる――」
な、と怒鳴ろうとする。が、ぽたりと涙が、蒼の手の甲に落ちる。握り締めた碧の手が離される。
「わたしじゃ、まさきの、そばに…いられない…」
だれかにまさきがとられちゃう。そう言って、涙を零して泣く。
「蒼は、正樹が―正樹にい…きらい?」
「っ」
お嫁さんになると言いだし始めてから、「にい」と付けずに呼び捨てで正樹を呼んでいた碧が数年ぶりにその呼び方で呼んだ。
「わたしの、私のために空けていた正樹にいの隣をわたしでない誰かに盗られるのっ。蒼じゃない男の人に盗られるの。蒼はそれでいいの?正樹のいちばん――なりたくない?」
涙で濡らした瞳で蒼を見つめる。
いちばん。その言葉に蒼が動揺した。心が揺れた。蒼のかすかな震えに碧は口角が上がるのを堪えた。再び、蒼の手を握りしめ、
「蒼なら、正樹のいちばんになれるよ。いまなら」
きっと正樹の心を隙をつける。だって、正樹はわたしたちが『大好き』だもの。不適に笑う碧に戦慄しながら、蒼は逃げ場のない網にかかった。心の揺れを絡めとって、蒼の心のわずかな隙間をこじ開ける。碧は微笑み告げる。「蒼は正樹が好きだからいまなら、絶対一番になれるよ」、と。赤くはれた瞼で痛々しい微笑だったが、蒼はその笑みに恐怖した。
心の、認めたくない『汚い』心に碧がその細い指を無遠慮に突っ込んだのだ。
憧れの、宝物の、一番になりたい―。汚い、嫉妬心に。
「あお」
片膝をソファーに乗せてギシリとスプリングが鳴る。触れ合うくらいの距離で、
「まさきがてばなしたものは、『わたし』じゃないよ。わたしたち、だよ」
目を細めて、腕を蒼の首に回した。
蒼はその言葉に目を見開く。碧でなく、自分も含まれていることに。
「ゆるせないよね?」
毒のような囁きの意味を考える。
手放したのは、『私たち』。
「……きっと正樹は私たちの前からいなくなるよ。そして、わたしの、わたしたちのための場所に誰かが入る。あのアイザワって男の人が入るかもしれないよ。いいの?」
「…っ」
息を呑む。相沢翔が碧のために空けられていた場所に入る。
碧なら、蒼も隣に立てる。――そばにずっといれる理由がある。けれど、相沢が隣に立ってしまえば――、その事実に蒼は青ざめた。うそだ、そんなことはない。そんな風に考えてしまった。
「それは、ないよ。兄さんはちゃんと―」
「正樹はアイザワって人の『意思を尊重する』なんて、甘い言葉にきっと転がっちゃうよ。正樹はそういう人間だもの。褒め倒せば、天狗になるもの。がんばっちゃうものっ。いつかあのアイザワって男の毒牙にかかるものっ!」
辛らつな口調で正樹の長所でもあり短所でもあることを言った。そして相沢翔の嫌味ったらしい笑みを思い浮かべ碧は叫ぶ。正樹が食べられちゃうと!
「あのヒトに褒め打押されたら絶対正樹折れるもの。甘えるもの。そこを悪い男は付け込むの!正樹はチョロイもの!いけない、それはいけないよっ!それはダメだよっ!蒼!阻止できる段階は今しかないの!いまきっと正樹は蒼のことで頭が一杯だもの!いまがチャンスなのっ!じゃないと蒼なんて正樹に相手されないもんっ。飛びぬけてどこがいいって言えば顔がちょっといいくらいだし、成績は上位だけど1位になったことないし、部活の剣道だってインターハイいけるかいけないかで微妙な感じだったじゃない?正樹と比べたら、蒼なんてダメダメだよ!」
むしろ比べるなと、蒼は怒鳴りたかった。怒りを通り越して顔は白くなる。
正樹兄さんと比べるなんて、人間と神様を比べるくらい無謀なことだ!と喚き散らしたかった。極端な話だが比べるならば尊敬する正樹は神様に等しい。目指すべき人で憧れで、宝物のような―大切な人なのだ。
「そんな蒼にチャンスが来たんだよ!今までわたしの影で指を咥えていた蒼に、とうとうチャンスが来たんだよ!」
喧嘩売ってるんだな、碧は。そうだな、碧は喧嘩を売っているんだ。
青白かった顔が怒りで赤く染まる。
うらやましいかった。汚い心をいままで指摘されるまで気がつかなかったなんてない。けど、それは人間誰しも、誰かのものがほしい、誰かにみてもらいたい、構ってもらい。そんな気持ちを持っているだろう?無遠慮に引きずり出された蒼の心を碧はかき乱す。碧の一方的な言い分に蒼は反撃する。
「兄さんは好きだけど、『女性』としてみてるわけじゃない!」
「じゃあ、何でキスしたの?正樹にいままでキスしたことあった?」
蒼の怒鳴り声を碧は鼻で笑わらった。
「いま、蒼が怒ったのはずっと『うらやましかった』ことを指摘されたから。そうでしょ?」
図星を指された。ので、喉からぐっと音が鳴る。碧は笑みを深めた。泣きはらした顔で笑う顔は――、勝ち誇った狂喜を孕んでいる笑顔だった。
「蒼、手が届くの。正樹が蒼だけのモノになるの。正樹のこと、好きよね?」
耳に唇が触れるか触れないかの距離で、そう囁く。毒を孕むその囁きに逃れるように身を動かすが、
「蒼は正樹、嫌い?」
「嫌いなわけないっ」
碧の悲しげな声に蒼は情景反射で答えてしまった。碧がくすりと笑った。蒼は正樹を思い浮かべる。現在の正樹、過去の正樹。
大好きだ。尊敬する兄だ。けれど、
「……兄さんは、その」
「女の人よ。体だって(見てないけど)遜色なく女性。感情はまだ男の人だけど、わたしたちを大好きな正樹のまま。『幼馴染』が大好きなままの正樹。『恋人』として正樹に大好きなってもうために蒼はもう、正樹って言う大きな湖に石を投げ込んだんだよ。正樹の心に『蒼』が響いてる―。まだ『蒼』っていう波紋があるうちに―」
消えないうちに。
「他の誰かに取られちゃまえに、とらないと」
わたしでない、だれかに。
あおでない、だれかに。
まさきが、とられちゃうよ。
また、離れ離れになっちゃうよ。
碧の言葉は、蒼の胸に鋭く響く。そうだ、――嫌われていなかった。けれど結局は他人。血の繋がらない、他人。他人だ。大好きな人と、ずっと一緒に入れない。そうだ、と蒼は喉に詰まった言葉をうめき声に変えた。本当の兄弟になれない代わりに、碧がつないでくれると蒼はずっと思っていた。そうだ、った。
繋ぐ線がなくなった。繋がりがなくなった。望んだものが、なくなった。
笑いかけてくれる笑顔はそこにあるのに、触れてくれる手はそこにあるのに、確固たるものがない。それがないと、不安だ。不安で、――心が震える。
正樹が誰か別の人の手を取って、その人が一番で、それなのに蒼も碧も正樹が一番で。
一番に、なれるだろうか…。
なれるはず無い…。
正樹の一番になることなんて、考えたことが無い―。
けれど、――なりたい。
「蒼?」
微動だしない蒼を見て碧が驚く。どうしたのかと問う。けれど、蒼は首を横に振るだけだ。碧の両方の二の腕を掴み、
「こわい…」
兄さんが、碧や蒼の誰とでもない人と一緒にいることを決めることが。
碧がいるからと、安心していた自分がいたことが。
そして、新城正樹という人の一番になりたいと思った自分が。
気づいたら駄目だった。
憧れていた、大切な人、大好きな、大切な人。――ほしいと思ってしまった、『宝物』。
「怖くないよ、蒼。蒼が正樹と結婚すればいいんだもの。そうすれば怖いものなんて無いよ」
喪失感と望んでしまったことに対し恐怖する蒼に、同じ喪失感に恐怖していた碧が告げる。夢がなくなった、恐怖。側にいるという約束がなくなった、恐怖。碧は微笑んだ。
「正樹が蒼のお嫁さんになれば、ぜーーーんぶ解決じゃない?」
ふふふ、と満面の笑みを浮かべる碧の言葉の毒と、気づかされた喪失の恐怖で思考が鈍っていた蒼は頷いた。
(……かいけつ…)
なのか?
自分自身に問いかけた答えを持っているのは、たぶん、正解でただ一人。
一番大切な『宝物』。




