第十一話
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彼女は突然現れた。
10月下旬の寒空の中、コートやジャケットなど着ずに扉を開けた玄関の前に立っていた。
「みーちゃん?!」
駒形碧、略してみーちゃん。彼女は、目を赤くはれさせて本井雪の前にいた。ぼろぼろと涙をこぼし、「せっちゃぁあああんっ」と抱きつき泣き出した。何事かと、雪の両親が顔を出し、弟が驚いて二階の階段の手すりから顔を出した。
雪はよしよしと碧を慰めた。温かい自室に案内し、母親の入れてくれた温かい紅茶を勧める。鼻をぐすつかせながらも、マグカップにたっぷり入った紅茶に口を付けて、「おいしい」と微笑んでくれた碧に雪も笑顔を返した。けれど、碧の笑顔がだんだんと曇る。曇っていく。
「……みーちゃん、…嫌なことあった?」
お兄さんと、ケンカした?そう問うと、びくりと振るえ顔を横に振る。
「ケンカじゃない…。ケンカにもならなかったもんっ。一方的にわたしが、怒っただけ…」
再び涙をこぼす。
「蒼に嫌われちゃった…よぉ…ひどいこといっぱいいったぁああ」
「みーちゃん…」
「まさきとられちゃうの、や、で、…たくさん、ひどいこといったぁ…」
聞きなれた名前―まさき。碧の好きな人。中学から一緒の雪は碧に当事正樹の通っていた高校の練習試合を観戦に連れまわされていたこともあり、『正樹』という想い人を知っていた。
同じ年代の男子よりもやや小柄で、それでもサッカーの試合ではスピードとパスワークを屈指しボールをゴールへ導いていた。そんな彼を応援する碧は、本当に恋する女の子だった。
彼が大学に入った夏―、帰郷しないことから碧は憂い顔をよくする様になった。理由を聞けば連絡が取れない、とだけ聞かされそれでも元気そうだからと自分を誤魔化すように茶化していた。クラスの同級生の女の子からすれば幼馴染の年上のかっこいい男子が連絡をよこさなくなったのは、恋人が出来たからと『正樹のお嫁さんが夢』と豪語している碧を揶揄してからかっていた。そんな碧はそれでも明るく、正樹はそんなことしないもの―と信じていた。
雪はひとつ年上の碧の兄―駒形蒼を思い浮かべる。彼もまた、正樹と言う幼馴染を信頼していた。直接会話を交わしたことのない雪でも、遠目から見た彼は誰からも信頼されて頼りにされていた。
泣きやんだ碧に、母自慢のクッキーを差し出す。碧もこのクッキーは大好きだったはずだと勧めた。碧はクッキーをもそもそと食べ始め、「おいしい」と紅茶のときと同じように笑顔になった。碧の笑顔を見て雪はほっと息をつく。
「みーちゃん。詳しく話せる?」
蒼を傷つけたと泣いた碧は、雪にぽそりと告げる。碧にとって、信頼できる友達で、親友だから――本当のことを言える。
「蒼が、…正樹にキスしたの」
「………。いまなんて?」
問い返す。いまなんて、と。
「だから、蒼がね、正樹にね、キスしたの。ひどいんだよっ。わたしは二十歳までって言っておでことかほっぺだったのに…っ。先に蒼が、正樹、うぇ…」
再び泣き出した緑。雪は息を呑んで、そして吐く。
「蒼先輩って、男の人よね?」
「だよ?あおは、おとこのひと、だよ」
「キスって…」
「…そこはね、深海よりもふかいりゆうがあってね…ぐす…」
鼻を啜り、碧がにわかに信じがたいことを告げた。
「えっと…」
「理解しなくてもいいよ。でも正樹は女の人になったのっていうか、身体は女の人だったの」
「……とりあえず、正樹さんが女の人だったのね。それで蒼先輩がキスしたと…」
「うん。でね、蒼ってば自分がどれだけ正樹のこと好きかわかってないの。だから、なんでキスしちゃったのか分かってないの。なのに、正樹のファーストキスを奪っておいてじぶんはそんなきもち一切無いっていう風な態度なのっ!うそつきよ!」
蒼を詰る碧を雪はうなずくだけに留める。下手に慰めることはしない。駒形家の家庭の事情を聞き及んでいるからこそ、兄妹間でのケンカには口出しはしない。そう、これはケンカなのだ。碧の、一方的な。
(みーちゃんは、正樹さんのお嫁さんになれなくなっちゃったから『可能性』のある蒼先輩にあたってるだけ…)
理不尽な八つ当たりだと碧は分かっているからこそ、ひどいことを言ったと泣く。それでも、心が蒼の無神経な卑怯さを詰る。
(でも…)
ふと、思い立ったことがある。
「みーちゃん。へんなこと言うんだけどね…」
「ぐず、…なに?」
のどが渇く。カラカラに。これをいうと、たぶん碧は蒼を詰ることはやめるだろう。
「蒼先輩のこと、その。正樹先輩は好きなの?」
「大好きだよ」
即答。
「私の次に」
即答の、つけたし。雪は苦笑いを浮かべ、
「いままで、正樹さんはみーちゃんが二十歳になるまで待ってくれてて、隣を空けてくれてたんでしょ?」
こくりと縦に碧は頷く。頷いて、次第に顔が険しくなる。空白の、隣。それは、碧のためのものではなくなった。
では、誰のもの?
「……みーちゃん……」
険しくなった顔つきに、実は『頭の回転のいい』碧が気づいたことにため息をついた。目を赤くはれさせた碧が、震える唇で雪に問う。
「――、だれかちがうひとが、はいる…」
碧ではない、女性ではない、男性が、入る。男に抱かれる趣味は無い、といいつつも、あの親友と豪語した男を碧は思い浮かべた。馴れ馴れしい、あのおとこ。軽薄は顔つきが苛立ちを呼び起こす。碧は無言で立ち上がった。そして、ありがとうと短く御礼を伝えて足早に階段を下り、雪の両親に突然来訪した謝罪とお礼をし本井家から出て行った。
雪はため息をつきながら、兄である蒼にこれから碧がいうであろう事柄に手を合わせて謝罪した。
けれど、いつかは彼も気づくことだ。
そして、恐ろしくなるのではないかと雪は思う。




