第十話
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昨晩からじーと睨みつける碧に蒼はうんざりしていた。
朝も無言で睨みつけ、当番制の夕食―今回は蒼の当番―を作る際も睨みつけてくる。いい加減にしろと怒ると、むっすりとした顔つきで碧は腹に溜まった憤りや苛立ちを吐きだした。
「正樹が昨日変だった」
「正樹兄さんが?そうか?」
碧はさらに目を吊り上げた。吊り上げて、
「ごはん食べるときすごくびくびくしてた!蒼、絶対何かした!何したの?!正樹一緒に寝てくれなかったしっ」
「年を考えろ、年を。いくつだ?碧は」
「年なんて関係ないよっ!正樹はいつだって一緒に寝てくれたもんっ!」
地団駄を踏む碧を呆れながら見た。碧の憤りや苛立った姿を見て、「顔が近くにあったからキスした」、なんて伝えたら包丁を振り回す勢いだ。
「正樹のファーストキスは私のものなのにぃいい!」とか、「許さないっ許さないよ蒼!私はおでことかほっぺとか限定で、唇は二十歳なってからなっ!って言われてたのにっ!」とか、「私の正樹を傷物にした報いを受けなさいぃ!」とか。
ガチャガチャと音を立ててお皿を流し台へ置く。不機嫌な碧に戦々恐々しながら、咳払いで
ごまかす。
「そうやって誤魔化すの禁止!禁止だよっ。ほら、早く白状しちゃってよ!」
ぐいぐいと脇腹を指先で挿すように押す。
「ひぃ!や、やめろっみどりっ!」
「くすぐり攻撃~~~」
「ばか、水が飛ぶぞっ」
食器の洗い物を始めていた蒼はじゃれ付いてきた碧に注意した。しがた、碧は構わずさらにくすぐり始める。
「蒼、脇腹弱いよね~。あと脇も…」
不適に微笑んだ碧の姿に、蒼は妹に押し倒される兄の図を思い浮かべた。あと脇の攻撃だけは駄目だ。だから、
「わ、わかった!わかったから!言う、言うからっ!」
濡れた手の平を見せ、ストップと繰り返し叫ぶ。ふふん、と鼻を鳴らし勝者の笑みを浮かべた碧を苦々しく見つめ、「キスした」そう告げた。
笑みを浮かべたまま首をかしげ、
「なに?あんまり聞こえなかったよ」
今何て言ったの?そう問う碧に、やけになったように叫んだ。
「だから、正樹兄さんにキスしたっ」
「なんで!?」
叫び声に叫び声を返され、
「なんで、って」
そこに顔があったから。とか、頬をつままれて近づけられたからとか、色々言い訳を脳裏にめぐらせたが、碧の純粋に驚いた顔が、一瞬思案顔となった。
「蒼は、あの人と別れてから欲求不満?」
「ちがう」
とんでもない勘違いはやめてくれと怒る。怒ると、碧は険しい顔つきになった。
「正樹は、身体は女でも心って言うか精神は『男の人』だよ?蒼がどんなに好きになっても正樹は『男は無理』って言ってたよ」
「好きにって…」
「だってキスは好きな人しかしないでしょ?蒼はそうだったでしょ?」
あの人のこと、好きだったでしょ?どのくらい好きだったかなんてわたしは知らないけど。と、吐き捨てて碧は蒼を見つめた。
「正樹のこと女の人として好きになっちゃった?キスしたいくらいに?」
「っちがう」
「じゃあ、キスしたとき何思ったの?なに、考えてキスしたの?」
問い詰める碧の表情が固い。まるで、敵の考えを探るように――蒼を見つめる。蒼はその時、何を思ってキスしたのかと問われ、思わずだと答えようとして言葉を呑んだ。
正樹が着替えを行い、隠されていた身体のラインを見てその服の下の、白い、肌を―思い浮かべた。『女性』にしては大きな手が、指先が、蒼の顔をつまんだ。つまんで、不満そうに口を尖らせた。かわいい、と思ってしまった。
考えの終着点にたどり着いた蒼は、爆発する勢いで顔を赤く染め上げた。ちがう、と叫ぶことは出来ず、
「……、…、…っ!」
口をぱくぱくと金魚のように開け閉めした。たどり着いた先に、言い訳すら出てこない。
「……敵はやっぱり身近にいたのね…」
憎憎しげに碧が睨みつけた。その言葉に、やっぱりってどういうことだ!と叫ぶと、
「気づかなかったんだ。だろうね。蒼は気づくつもりもなかったんだろうけど」
意味深な言葉に、何を言われるか身構えた。
「いつもわたしが正樹に構ってもらってるとき、すっごくうらやましそうな顔つきで見てるの。で、そんな時、正樹が蒼を呼ぶとすっごく嬉しそうな顔をするの。蒼はね、ずっとわたしに嫉妬していたの」
絶句した蒼を見て、碧はねめつける様に睨んだ。
「蒼は気づいてないけど嬉しんじゃないのかな?手の届かなかった――正樹の手が届くんだもの。知ってる?わたしがどんな想いで正樹に振り向いてもらおうとしていたか。幼馴染の懐いてくれる可愛い女の子。戯言みたいな約束を守るために、告白してくる女の子たちを断るの。知ってる?その時正樹がなんて言うかっ!『約束だから』よ!わたしのこと本気で好きじゃないのっ。大切の意味が違うのっ!それなのにっ」
目に涙を溜めて碧は叫んだ。意味が違うと。碧は正樹を愛しているのに、正樹は碧のことが好きなだけだと。
「っそんなの知って、そんなこと知らされてっ!嫌いになりたいのに、なれないのっ。もっともっと好きになるのっ。わたしはだけ物にしたいのに、正樹は―わたしを自分のものにしてくれないのっ。もっと回りを見ろっていうの!蒼はいいわよっ!ただ、慕ってるだけでいいものっ。それだけで自分が満たされてるんだから!わたしは足りないっ!足りないのにっ」
床に崩れ落ちて泣き叫ぶ碧に、蒼は顔色を失う。正樹がいない、正樹がほしい、正樹が大切―。碧の想いが泣き声が、キッチンに水道の水音とともに響く。
「ずるい、蒼はずるいよ。いつだってそう。正樹と一緒にどこかにいっちゃう。正樹と一緒に並んで走れる――蒼はずるいっ!」
蒼なんて嫌い、大嫌いっ!!
立ち上がって叫んぶ。踵を返し、足音を乱暴に立てて玄関から出て行った。扉が乱暴に閉まる音が響いて蒼は押し寄せてきた後悔と動揺で泣きそうになった。




