ココにいたい
「だけど、これに前例がないかといえばそうでもないんだよ。アメリカのハーバード大学の数学専攻の学生で、大脳新皮質どころか脳みそそのものがなかった例や、日本舞踊のお師匠さんで運動機能をつかさどる小脳がなかった例もある。
意味合いは違うけど、サヴァン症の人たちも普通の人とは違った脳を持ってるといえるし、オレも似てるんだと考えてるよ」
「え……と。なんだかわかんないけど、なんだかスゴいのは、なんでもすぐ覚えられるってこと?」
「そうだね。よけいなこと考えなくていいから覚えられるのかもしれないね」
とにかく犬澤君はすぐに覚えて忘れない。いいな……難しいお料理とかもすぐ作れるようになるんだろうな。
「あ、でも初めて天凪君と会った時、顔覚えてないっていってなかった?」
「いったよ、そのほうがおもしろいし、効果的だと思ったんだ」
なにが効果的なんだろう。
「誰も考えもしなかった物事が意外な事と結びついてたり、そこからまた、まったく新しい事を思いついたりすると楽しくてしょうがない。
異端の学説に興味が惹かれるのはそのせいだよ。想像力が刺激されるからね。ライネル博士ともよくネットで話すから、本多さんのこと教えておいたよ。とても興味持ってくれたから、そのうち出版される本に1つの事例として紹介されるかもしれない。今度直接話してみる?」
え? ライネル博士と……子どもみたいに嬉しそうに話す姿から、この話が嘘じゃないと思うけど。
「じゃあ、ほら。途中まで送るよ」
いつもの犬澤君の雰囲気に戻って立ち上がる。ほんとかどうかはべつにして、とにかく今日はいう通りにしておこう。
「あ、そうだ。昨日お父さんがうちの名物の福イナリ寿司作ってくれたんだけど、1個あげる」
「ん? ありがとう。へえ、本多さんのお父さんの手作りなんだ」
「めったに作らなくなったんだけど、昨日帰ったら作ってあったのくれたの」
「うん。じゃあ」
あ、お昼にでもって思ったのに、ラップ開いて食べた……。
「ふふ……さすがにおいしいね」
なんか思いついた笑いじゃなくて、ほんとに嬉しそうに笑った。
「めったにっていったけど、これを作らなくなったのは4年前からじゃないかな?」
「え……そういえばそうだった、と思う」
なんでわかったんだろう?
「今度、なにかのかたちでお礼するよ。楽しみにしておいて」
「お礼って、別に犬澤君には……」
「なくてもいいんだよ。おすそ分けとはいえ、これだけおいしいものもらったんだからね。うん、懐かしいな。この自家製のおあげ」
「懐かしいの? 犬澤君、お父さん知ってるの?」
「まあね。それにしても『懐かしい』なんて感情が湧くなんて、おもしろいな」
「……いってること、やっぱりなんかヘン」
「ん。オレがおかしいのは、やっぱり脳に関係してる。オレは感情がほとんどないんだよ」
「そんなことないよ。いつも楽しそうにしてる」
「だからオレは『楽しいという感情しか』持ってないんだ。
悲しい、怒り、不安、寂しい、ムカつく……それだけじゃない。暑さ寒さや痛い、かゆい、空腹、疲れすら感じないんだよ。
これは生きていく上で、少し間違えても命の危険さえあることなんだよ」
「ふーん。怒ったり悲しくないのはいいと思う。それに、おなか空かないのは楽だし、疲れないのもいいと思うけど」
「ダメだよ。ただでさえ空気読めないのに、感情がなければもっと読めない。
おなかが空かなければ、いつ必要な栄養をとればいいか解らないし、痛みを感じなければ致命傷にも気づかず手遅れになる場合もあるんだ。
だから、オレはいつも、この場合どうすればいいかの理屈を考えながら演技をしてたんだよ」
「じゃあ、これまでいつもずっとお芝居してたの?」
「これまではね。だけど、本多さんや田中さん、祝鎮さん。それに天凪くんたちと出会ってからは、これまで考えられなかったくらい自然にすごせるようになったよ」
「どうして?」
「それほど気が置けない友人なんだろうね。これからも長いつきあいになるから」
「ふーん」
気が置けないって、遠慮しないといけないって意味だったかな? 気をつかわなくていいって意味だったかな?
話からするとつかわなくていいほうだと思うけど……。
「思ってたより長く引き止めたね。そういうわけでオレは今日自主休学だから」
「あ、う、うん……じゃあ、あたし学校いってくる」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「ありがと。犬澤君も……」
なにがそういうわけなのか、なにに気を気をつけたらいいかよくわかんなかったけど、あたしは1人で学校に向かうことにした。
体育の授業受けてるコ以外は、誰もいない高校の門1人でくぐった。スゴくコワかった気持ちは、犬澤君のおかげでかなりマシになってたけど、まだ不安がなくなったわけじゃない。
あたしは……あたしの存在の概念……。
ダメ、抽象的すぎる。
あたしが存在してる概念なんて、あたし必要としてくれる人と、あたしが必要としてる人……。
途中から遅刻した授業もうわの空になってた。きてもこなくても一緒だったかもしれない。
「かなぼ〜! あんたきてた……どしたの、その顔? タマシイ抜けてるみたいじゃない」
休み時間にちいがやってきてくれる……ああ、心配してくれてるんだ。
「ありがと、ちい……」
「へ? なにいってんの。大丈夫?」
「だいぶ良くなったよ」
「調子悪いんだったら、うちに帰ったら。温ったかくして寝てるのが1番よ」
「ううん。今はココにいたい。うちだと1人になるから……」
「……ちょっとあんた、ほんとに大丈夫? うちでなにかあったの」
「違うよ、心配してくれてありがと……」
チャイムが鳴ってからも、何度も振り返りながら教室に戻るちい。あんまり心配かけるの悪いな。
次の休み時間もきてくれたちいに、詳しいことはお昼休みに説明するって約束して、安心してもらうことにした。




