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凡人枠シリーズ

八百歳のエルフ長老が認知症で森を荒らしていたので、前世がケアマネだったから普通の介護プランで立て直すことにした

掲載日:2026/04/21

※ この話は現実にあり得る疾病を扱っていますが、医学的な情報提供を目的としていません。念のため、ご留意ください。

 森で一人、老人が木に名札をかけていた。

 八百歳の、エルフだった。

 妻の木に、三枚目の札をかけようとして、手が止まった。


「これは……誰の木だったかな」


 しばらく立ち尽くして、また紐を結んだ。


 ——その光景を、俺が目にするのは、もう少し先の話だ。


◇ ◇ ◇


 倒れたのは、特養の廊下だった。

 四十八歳。心筋梗塞。

 ケアマネジャーだが、人手が足りない夜は現場にも入る。夜勤明け、徘徊の利用者さんを居室に戻す途中だった。


「佐藤さん! 佐藤さん!」


 誰かが呼んでいた。介護職員の声。名前までは、もう思い出せなかった。


 次に目を開けた時、床は白かった。


◇ ◇ ◇


 真っ白な空間だった。

 見渡す限りの壁も、天井も、床も、全部白い。継ぎ目がない。気がつくと俺は、これも真っ白なパイプ椅子に腰かけていた。


(——死んだのか、俺は)


 胸の痛みは覚えている。職員の声も。夜勤明けの廊下。


(——ここは、天国か地獄か)


 地獄にしては、白すぎる。

 天国にしては、事務的すぎる。


 正面にカウンターがあった。カウンターの向こうに、誰かが座っている。

 とんがり帽子。星柄のマント。「MAGIC」と金色のペンキで書かれた、安っぽい杖。


(——コスプレ会場か)


 神様には見えなかった。死神にも見えなかった。強いて言うなら、文化祭の魔法使い担当。


「転生窓口の担当、ツクヨです。——この衣装は上層部の指定なので、突っ込まないでください」


「はあ」


「あ、ちなみに、ここは天国でも地獄でもありません。どちらでもない中間の事務窓口です」


(——心を読むな)


「読んでいません。みなさん同じ顔をなさるので」


 目の下にクマがあった。神様も過労らしい。


(——親近感がすごい)


「……あの。状況が、ちょっと」


「あ、ご存じない系ですか。最近増えてます、そのパターン」


 ツクヨがペン先でこめかみを掻いた。


「順にご説明します。佐藤さんは先ほど亡くなりまして」


「それは、まあ、覚えています」


「で、別の世界に魂を移して、もう一度人生をやっていただく。これが『転生』です。最近の流行りでして」


「流行り、ですか」


「ええ。あちらの業界用語で言うと『なろう系』と呼ばれるジャンルがありまして——剣と魔法のファンタジー世界に、現代日本人の魂を送り込んで、一旗揚げてもらうやつです」


「はあ」


「行き先の世界は、雰囲気としては中世に近いです。王様がいて、貴族がいて、平民がいて。魔法が使える人は人口の三パーセントくらい。残りは魔具という道具を使って、そこそこ便利に暮らしています」


「魔具」


「魔道具の略です。水が出る蛇口、夜も明るい照明、洗濯物を回す樽。電気ではなく魔石で動きます。——中世くらいの街に、便利な道具だけが先に届いた感じです」


「なるほど」


「で、転生時には『パッケージ』をお選びいただきます」


「パッケージ」


「今期のラインナップは、チート無双、ハーレム、スローライフ、ざまぁ、悪役令嬢転生、ドラゴン育成、勇者パーティー解散後のセカンドキャリア支援——」


「……最後のは何ですか」


「新作です。魔王を倒した勇者がニート化する現象が頻発しまして。需要があると」


「はあ」


「今期の一番人気は、相変わらず『チート無双』です。反則級の能力を付与して、現地で無双していただく。剣聖、魔王殺し、無敵の盾、転職し放題、ステータスがゲーム画面で見える——などなど」


(——まるで、若い頃やったゲームの世界みたいだな)


「私にも、その能力が、付くんですか」


 ツクヨが、とても申し訳なさそうな顔をした。


「付きません」


「は?」


「予算の都合です」


「予算」


「チートは、大きくA級・B級・凡人枠の三段階に分かれてまして。A級は国ごと壊せるレベル、B級は一流の補助枠、凡人枠は——チートなしです」


「私は」


「凡人枠です」


(——選ばれたというより、残された)


「理由を少し申し上げますと、上層部が『再興派』と『安定派』の二派に分かれていまして、最近は再興派が勢力を伸ばしているんです」


「派閥」


「ええ。再興派が、A級チートを次々と投入してまして。百年で五十名の発注枠のところ、もう八割方使い切ってます」


「一世紀に、五十人」


「枠です。無限じゃないんですよ、予算が」


 ツクヨが書類の別の頁をめくった。


「で、結果どうなったかと言いますと——『魔荒れ』です」


「魔荒れ」


(——変な用語だ)


「A級チートが強すぎて、世界の魔素循環が偏ってしまうんです。魔物がおかしな動きをする。そのしわ寄せが辺境に行って、村や領地が潰れる。——派手に壊した後、誰も片付けない」


「……」


「それを、凡人枠を各地に散らばせて補修する、というのが安定派の戦略です。A級一人で派手に壊すより、凡人枠を十人送って地味に直すほうが、費用対効果が高い——という建て付けになっています」


「A級の、後片付け要員ですか」


「そうとも、言います」


(——さらっと、重いことを言う)


「誤解のないように申し上げますが、これは冷遇ではありません。上層部的には『前世の経験だけで、現地の困りごとを解いてくれたら儲けもの』というスタンスでして」


「儲けもの」


「ええ」


「次に、転生後のサポートですが」


「あるんですか」


「限定的です。基本、佐藤さんの人生は佐藤さんのものなので、私が横から口を出すのは反則なんです。上層部のルール」


「なるほど」


「数ヶ月に一度、夢の中で軽くお会いして助言、というのが上限です。——まあ、頻度は適当ですが。ちなみに、夢の中でもこの衣装です」


「そこは変えていいのでは」


「上層部の指定なので、本当に」


 ツクヨが真顔で繰り返した。


「もう一つ。前世の話は、現地ではほぼ信じてもらえません。『前世は日本の介護施設で働いてた』と言っても、『日本』がどこかも分かってもらえない。無理に説明しようとしないでください」


「分かりました」


「家族にも、友人にも、同僚にも、黙っておくのが無難です。——どうしても誰かに言いたくなったら、夢で私に話してください」


「夢限定の、相談相手ですね」


「ええ。ただし、こちらにも件数ノルマがあって、頻繁だと困ります」


「ノルマあるんですか、神様に」


「ありますよ。神様も、予算で動いてますから」


(——社畜だ)


「あと、ステータス画面——ゲームで言うと、自分のレベルとか能力値が見える画面ですね——あれは、この世界にはありません」


「見えないんですか」


(——まあ、見えるほうが、なんか気持ち悪い気もするが)


「技術的にはこちらで管理してるんですが、本人に見せると、それ自体が広義のチートになるので、非表示です。予算の問題もありまして」


「また予算ですか」


「全部、予算です」


 ツクヨがため息をついた。


「——ちなみに、転生者の死亡率で言うと、A級は無敵なのでほぼゼロ。B級もまあ生存。凡人枠は——」


「——」


「言わないでおきます」


(——言ってから止めるな)


「話が早い転生者は、だいたい凡人枠で長生きします。さっき私が『話が早いですね』と言いかけたのは、そういう意味です」


「まだ言われてないですよ」


「これから言おうとしたんです」


 ツクヨが咳払いをした。


「さっそくですが、佐藤さんの案件。——エルフの森から、打診が来ておりまして」


「エルフの森」


(——エルフ? トラックの、か?)


「違います」


「まだ、何も言っていませんが」


「日本人の男性は、だいたい最初に四トンのトラックを思い浮かべます。そちらではありません」


「……バレてましたか」


「みなさん同じ顔をされますので。——心を読んでいるわけではありません」


 ツクヨがペンでこめかみを掻いた。


「ちなみに、今回は、トラックにも轢かれていません。心筋梗塞からの、正規の転生ルートです」


「トラック転生って、そんなに多いんですか」


「業界最大手です。——ただ、最近は心筋梗塞・くも膜下・過労が猛追しておりまして」


「派閥がそこにも」


「派閥です、全部」


「エルフは、こちらの種族です」


 ツクヨが書類の余白に、耳の長い棒人間を描いた。


「皆さんがイメージされる通りです。耳が長い。背が高い。長命で、森に住む。弓が得意。——顔立ちが整っているので、人間の男性は、大体最初は挙動不審になります」


「今回の対象は、八百歳のご高齢男性です。そこはご安心を」


「はい」


「あと、言語の件ですが」


「言葉、通じるんですか」


「通じます。標準セットで『言語理解』スキルをお付けします」


 ツクヨが書類の余白に指を走らせた。


「先方の言葉は、自動的に『日本語に相当する意味』で耳に届きます。あなたが話す日本語も、向こうには現地の言葉として伝わります。生活に必要な最低限の読み書きも、セットでお付けします」


「便利ですね」


「標準装備です。チートと言うほどのものではありません。——むしろ、これをつけないと、誰とも話せませんので、予算にかかわらず必須でして」


「神様にも、必須経費はあるんですね」


「人件費と同じです」


(——神様の労働環境、思ったより世俗的だ)


「異世界です。剣と魔法の。で、そこの森の長老が、ちょっと問題を抱えてまして」


 ツクヨが書類をめくった。


「長老は、八百歳。エルフ族では最高齢クラスです」


「八百歳」


「はい。で、ここ数年、徘徊と物忘れがひどくて。森の木に『妻の木』『息子の木』と札をかけて回ってるんです。同じ木に、何度も」


 俺は、しばらく黙った。


「……それは、森の呪いとか精霊の加護とかじゃないですね」


「話が早いですね」


「二十年、施設で見てきましたから」


「——ですよね。エルフの家族は、呪い扱いにしてるんです。神殿に祓いの儀式を依頼する段階まで来てる。でも、効くわけがない」


 ツクヨが宙に光る文字を浮かべた。


 『佐藤和夫 前世:介護支援専門員(二十年) 付与チート:なし 補助スキル:言語理解(標準装備のみ)』


「……本当に何もないんですね」


「予算がないんです。A級チートに使い過ぎた、とだけ申し上げておきます」


「A級チートは、エルフの森にも行ってるんですか」


「いいえ。エルフの森は、そもそも凡人枠専用ルートです。長命種の案件は、派手な介入に耐えないので」


「なるほど」


「あと、書類を見ていて気になったのですが」


「はい」


「有給消化率、三パーセント」


「はい」


「もう少し、お元気に暮らしていただけなかったでしょうか」


「……お勧めの職場があったら、紹介してください」


「次の職場は、エルフの森です」


「エルフは、有給を取りますか」


「五十日です」


「——やった」


「五十年単位ですが」


「おいおい」


(——どういう単位系だ、それは)


 ツクヨが少しだけ真面目な顔をした。


「佐藤さん。あそこの家族は、おじいさまが病気だって、本当は気づいてます。気づいていて、認めたくない。だから『呪い』という言い方に逃げてる」


「——ええ」


「必要なのは、祓いじゃなくて」


「聞く人、ですね」


「話が早いです。二回目」


 ツクヨが苦笑した。


「あと、これは個人的な判断なんですが」


「はい」


「通常は転生時の身体調整で若返らせるんですが、佐藤さんの場合は——」


「そのままで」


「被せないでください。私の台詞です」


「……すみません」


「そのままで、四十八歳の身体でお送りします。老眼も、腰痛も、残したまま。——長老の話し相手には、若すぎないほうがいい」


「ありがたい話です」


「ちなみに、身体調整にはオプションがございまして」


「例えば?」


「禁煙済み、禁酒済み、痛風予備軍解消、五十肩治癒、早口言葉ネイティブ、方向音痴リセット——」


「全部、つけてください」


「ポイントが足りません」


「……予算ですか」


「予算です」


(——ぶれない)


「チートみたいなもんでしょ?」


「……年齢据え置きが、ですか」


「若返らせないことが、です。八百歳の前では、四十八歳も三十六歳も、誤差ですから」


(——その言い方には、少しだけ配慮があった)


 俺は何も言わなかった。


「この衣装は、私の趣味じゃありませんからね」


「……関係あるんですか、それ」


「ないです。口癖です」


 光が溢れた。


◇ ◇ ◇


 辺境の村でパン屋の下働きを始めて、十日ほど経った頃。

 店先に、エルフが立っていた。

 長い金髪の若い娘。背に弓、手に杖。

 見た目は人間でいう十七、八だが、エルフ族だから、実年齢は見当もつかない。


「——人間の、佐藤和夫さんですね」


 と、娘が言った。


「……はい。なぜ、ご存じで」


「神託で聞きました」


(——ツクヨ、ちゃんと仕事しているじゃないか)


「シアラです。エルフ族の若い世代の、取りまとめ役のようなものです。——お迎えに来ました」


「お迎え」


「うちの長老のことで、ご相談したいことがあります」


 俺はパン屋の親父に、頭を下げた。

 親父は、理由を聞かずに「行ってこい」とだけ言った。


(——察しがよすぎる気もするが、ありがたい)


◇ ◇ ◇


 森の入口で、シアラが立ち止まった。


「相談というのは」


「曽祖父のことです。——ルシアンという名で、今年で八百歳になります」


「八百歳」


「エルフ族でも、最高齢クラスです。ところが、二年前から、様子がおかしくなりました」


 シアラが、短く息を吸った。


「物忘れが増えて、家族の名前を忘れ、妻の顔も忘れ——毎日、森の中で、木に名札をかけて回っています。『妻の木』『息子の木』と言いながら。最近は、春先に植えた若木にまで札が増えて、苗を折ったり、獣道を塞いだりも」


「つまり、森の管理が、少しずつ乱れていると」


「はい」


(——これは、施設で何度も見た)


「族の者は、『森の精霊の加護が強すぎて、意識が森に吸われたのだ』と言っています」


「あなたは、そう思っていますか」


「分かりません。ただ——」


 シアラが、俺を見た。


「神託で、『人間のあなたが来る』と告げられました。『呪いではない。呪いを祓っても、治らない』と」


(——ツクヨ、今回はやけに具体的に伝えたな。エルフ側にも、きちんと神託が届くのか)


「意味が、お分かりになりますか」


「……たぶん、分かります」


「会っていただけますか」


「はい」


 シアラが、深く頭を下げた。


◇ ◇ ◇


 森の奥。古い樫の木のあたり。

 そこに、老人が立っていた。

 八百歳の、エルフだった。

 白髪を後ろで束ね、細い指で木札の紐を結んでいる。震えていた。紐を結び終えると、一歩下がって札を眺め、また次の幹へ移る。


「これは、息子の木だ」


 と、老人は誰にともなくつぶやいた。

 隣の幹に移る。


「これは、妻の木」


 また次へ。


「これは……誰の木だったかな」


 しばらく立ち尽くして、また紐を結んだ。


(——同じだ。完全に、同じだ)


 目の前で名札をかけている老人は、本来なら森の精霊に守られた長命種。八百年を生きる、優雅な種族。

 のはずが。

 前世、特養で二十年。ここまで来るのに、道案内はいらなかった。


◇ ◇ ◇


「……おじいさま」


 シアラが、小さく声をかけた。

 老人は振り向いて、少し首をかしげた。


「おや、シアラ。——シアラ、だったな?」


「はい、シアラです」


「そうだった」


 老人が微笑む。また別の幹へ歩き出す。


「これは、妻の木だ」


「おじいさま。その木には、さっき札をかけたばかりです」


「……かけた?」


 老人は札を持ったまま、動けなくなった。


◇ ◇ ◇


 俺は、ノートを開いた。

 パン屋の親父にもらった包装紙の余りを、束ねたもの。インクは木炭を削って作った。


「シアラさん。日常の様子を、伺ってもいいですか」


「はい」


「物忘れは、どのくらい前から」


「二年ほど前から。最初は軽い程度でした。去年から、徘徊が」


「夜も?」


「夜のほうが、多いです」


「食事は」


「食べたことを忘れて、もう一度欲しがります」


(——典型的だ)


「ご家族の対応は」


「森の神殿に祈りを。あとは、見守るだけです」


 俺は、老人が掛けた札を一枚、手に取った。表に「妻の木」と書かれていた。裏には、昨日の日付。


「シアラさん。私に、一週間ください」


「何を、するのですか」


「ルシアンさんの行動を、記録します。——それだけでいいんです」


 シアラは、しばらく答えなかった。

 森の奥で、鳥が一声鳴いた。


「……条件があります」


「はい」


「おじいさまに、無理に触れないでください。それと——」


「それと?」


「呪いではない、と族の者に言い切るのは、まだ待ってください」


「……分かりました」


 シアラが、頷いた。


◇ ◇ ◇


 一週間、俺はルシアンの家に通った。シアラと、ルシアンの同居する家だ。

 パン屋の親父は「森の手伝いに行ってこい」とだけ言って、朝のパン焼きが終わると送り出してくれた。森の入口でシアラが待っていて、家まで案内してくれる。

 ノートの項目は、前世のまま。

 食事の時刻と量。睡眠時刻。徘徊の時刻と方向。発語の内容。表情。


「なぜ、そんなものを」


 シアラが湯のみを運んできて、聞いた。


「エルフにも、お茶はあるんですね」


「ハーブを煮出したものです。——質問の答えになっていません」


(——するどい)


「記録を取れば、規則性が見えます。規則性が見えれば、何が引き金かがわかります」


「引き金」


「徘徊を始める時刻、方向、その日の食事、前日の睡眠。——全部つながっています」


 湯のみを置きながら、シアラが少し首をかしげた。


「佐藤さんは、前世で、同じ仕事を?」


「はい。特別養護老人ホーム、と呼ばれる施設で」


「トクベツヨウゴ……」


「長く生きてきて、一人で暮らせなくなった方を、皆で見守る場所です」


「日本には、そういう場所があるのですか」


「あります。——おそらく、世界中に、似た施設があります」


 シアラは、少し黙ってから、湯のみを置いた。


「神託では、『凡人枠』『神の祝福なし』と、それだけ聞いていました。どんな方が来るのかと思っていましたが」


「現場上がりの、ケアマネジャーです」


「そこが、いいと」


「誰が、ですか」


「神託を、下した方が」


(——ツクヨ、営業トークを神託に混ぜるな)


「おじいさまも、そういう人間が好きです」


「……それは、つまり」


「地味で、冴えない人、ということです」


(——やさしい言い方で、刺さってくるな)


「褒めているつもりです」


「……ありがとうございます」


◇ ◇ ◇


 七日目の夜、俺はノートを閉じた。

 規則性が、三つ見えた。

 一つ。ルシアンは午後三時前後に、必ず出歩く。

 二つ。行き先は、家から北へ二百歩の、古い樫の木。

 三つ。出歩く前に、必ず「妻」の話をする。


 規則性を、ケアプランに書き換えた。


 ——長期目標:ルシアンが、家と森を、安全に行き来できる日常を保つ。

 ——短期目標:徘徊を、毎日の散歩に転換する。夜間徘徊は、週に二度以下まで減らす。

 ——家族の役割:シアラが、午後三時の散歩に同行する。

 ——夜間対応:枕元に、行き先を書いた紙を置く。読めば、思い出すはずだ。

 ——環境調整:家具と日用品を、定位置に固定する。札は回収せず、ルシアンの好きにさせる。


 ペンを置いた。

 前世、何千枚と書いた書式と、まったく同じだった。


「シアラさん。この樫の木は」


 ノートを開いて、印をつけた場所を指した。

 シアラは少し考えてから、口を開いた。


「……曽祖母が、おじいさまと最初に出会った場所です」


「弓を、教わった場所でも、ありますか」


「——はい。よく、ご存じで」


「散歩の途中で、何度か。同じ話を」


 俺はノートに、もう一行書き足した。


「徘徊を、止めなくていいと思います」


「は?」


「一緒に、歩けばいい」


 シアラの湯のみが、皿の縁で一度だけ跳ねた。


◇ ◇ ◇


 翌日、俺とシアラは、ルシアンと一緒に森を歩いた。

 午後三時。

 ルシアンは杖をつき、ゆっくりと北へ向かう。樫の木の前で立ち止まった。


「ここで、私は妻と出会った」


「どんな方でしたか」


 俺は聞いた。

 ルシアンは、幹に手を当てた。震えていた指が、止まった。


「弓が上手だった。私より、ずっと」


 森の奥で、鳥が一声鳴いた。


「私の弓は、妻に教わった。妻の弓は、妻の母に教わった。妻の母の弓は——」


 話は、止まらなかった。

 俺はノートを出して、書き留めた。

 シアラが横から覗き込んで、息を呑んだ。


「これは」


「ルシアンさんの、家族の弓の系譜です」


「……こんなこと、おじいさまは、家族にも話したことがありません」


 鳥がもう一度鳴いた。


◇ ◇ ◇


 三日続けた。

 四日目、シアラの家に戻ると、先客がいた。

 中年のエルフの男。肩幅が広く、腰に短剣を下げている。


「——族長のガルウィンです」


 シアラが小声で言った。ルシアンの息子、シアラの祖父にあたる。


「人間。長老に、何を吹き込んでいる」


 低い声だった。


「吹き込んでいません。聞いているだけです」


「同じことだ」


 ガルウィンの目が、机の上のノートに落ちた。


「——神殿の神官を呼んだ。明日、祓いの儀式を行う」


「ルシアンさんは、呪われていません。病気です」


 ガルウィンの眉が動いた。


「エルフに、そんな病気はない」


(——そうか。そう来たか)


 俺は、ノートを閉じた。

 それを机に置いた。


「ガルウィンさん。なぜ、これを『呪い』と呼ぶんですか」


「——」


「精霊の加護が強すぎる、という説明でしたね。本当に、そう信じていますか」


 ガルウィンは答えなかった。

 シアラも、答えなかった。


「病気だと認めたら、誰かが責任を取らなければならない。家族が、部族が、森が。——違いますか」


 沈黙。


(——昔の日本でも、似た話はあった。物忘れや心の病を『狐憑き』と呼んで、家の奥に閉じ込めた時代が。病気と認めるまでに、何十年もかかった)


 ガルウィンが、壁にかかった弓を見た。古い弓だった。握りの革が、擦り切れて黒くなっている。


「……私も、いずれああなる、ということだ」


「そう、決まったわけじゃありません」


「だが、可能性はある」


「……あります」


 嘘は、つけなかった。


 ガルウィンは、長い息を吐いた。


「祓いの儀式は、中止する」


「ガルウィンさま」


「——試させろ、という意味だ。人間の言うやり方を、三ヶ月」


 俺は頭を下げた。


(——これでいい。三ヶ月あれば、変化は数字になる)


◇ ◇ ◇


 三ヶ月後。

 ルシアンの徘徊は、日中の散歩に変わった。

 毎日午後三時、俺とシアラが一緒に樫の木まで歩く。同じ道を、同じ速さで。ルシアンは毎日同じ話をして、俺とシアラは毎日、初めて聞いたような顔で頷く。


 夜間の徘徊は、週に二度に減った。

 夜中に起きても、枕元に「夜は、樫の木には行けません。朝になったら、シアラさんと一緒に行きます」と書いた紙を置いてある。たいていは、ルシアンはそれを読んで、また横になる。

 最初の三日は、俺の字だった。四日目にシアラが書き直した。曰く「人間の字は、角が立ちすぎて夜に読むと目が疲れる」とのことだった。


(——書道のジャンルから違ったか)


 食事は、献立表を作った。同じ時刻、同じ量、同じ順番。終わった皿はすぐ下げる。「まだ食べていない」と言えば「では、お茶を」と湯のみを出す。

 ノートは、三冊目に入っていた。


「お前、毎日この話を聞いているのか」


 四ヶ月目、ルシアンがふいに聞いた。

 俺は、ペンを置いた。


「はい」


「飽きないのか」


「……飽きないですね」


(——こういう時だけ、鋭い)


 ルシアンは樫の木の幹に、手を当てた。


「そうか」


 それだけ言って、ゆっくりと歩き出した。


◇ ◇ ◇


 また別の日、昼食の席で。

 ルシアンがハーブティーを飲み、湯のみを置いた。


「お前」


「はい」


「女房はいるのか」


「独身です」


「女房は、大事にしろ」


「独身、と申し上げました」


「そうか」


 またハーブティーを口に運んで、すぐ忘れた顔になった。


(——覚えている時だけ、やたらに的確だ)


 シアラが、口に手を当てて、こっそり笑っていた。


◇ ◇ ◇


 半年後。

 ルシアンは、俺に一枚の木札を渡した。


「これを、やる」


 表に、俺の名前が書いてあった。小さな字で、丁寧に。


「私の木は、決まっている。妻の木も、息子の木も、シアラの木も。——お前の木が、決まっていなかった」


 俺は木札を受け取った。

 指の腹で、紐の結び目をなぞった。


「どの木に、かけますか」


「お前が、決めろ」


 森の奥で、鳥が鳴いた。


 俺はシアラに案内を頼んで、樫の木から南へ少し歩いた場所の、まだ若い楓の幹に札をかけた。

 ルシアンは頷いた。


 ガルウィンは、その日家に来ていた。壁の弓を外して、手入れをしていた。


「——人間」


「はい」


「父が、書き取ってほしい話があると言っている。弓の系譜以外も、だ」


「承ります」


 ガルウィンは手を止めた。古い革の握りを、親指でなぞった。


「……もし、私がああなったら」


 最後まで、言わなかった。


 俺は、ノートを新しい一冊に換えた。


◇ ◇ ◇


 パン屋の親父が、腕を組んで言った。


「お前、最近、森の手伝いが長いな」


「すみません」


「謝るな。——もう、仕事にしたらどうだ」


「仕事、ですか」


「朝の二時間、店に出ろ。残りは丸ごと、エルフの爺さんの相手でいい。——人助けだろ」


「……ありがたいです」


「うちの焼きたてを、森に持っていっていいぞ。あの爺さん、人間のパンは知らんだろう」


(——知っていたら、妻の木の話は、もう少し後回しになった気がする)


 それで俺は、正式に、ルシアンの家へ通う仕事になった。

 仕事の名前は、今のエルフ語にはなかった。

 シアラが、悩んだ末に、古語から言葉を当てた。


「——ラント・ア・ミラ。もとは『母を守るお務め』の意で、そこから、弱った家族を支えるお務め全般へ広がった古語だそうです」


(——介護ですね、とは、言わなかった)


 俺は、新しいノートの表紙を、ルシアンに差し出した。

 ルシアンは、震える指でペンを受け取って、こう書いた。


 ——わたしの木の、札。ラント・ア・ミラの、記録。

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 この作品は、「凡人枠シリーズ」の一編です。チートなしで異世界に転生した現代日本の専門職が、前世の実務経験だけで目の前の問題を解決していく、短編のシリーズです。今回は、ケアマネジャーを題材にしました。


 認知症のケアは、派手な治療で治すものではありません。記録を取り、同じ道を一緒に歩き、家族の役割を整え、夜間対応を紙一枚で支える——そういう、地味で、ひたすら続ける仕事です。八百年を生きる種族の家族が、「病気」という二文字を受け入れるまで、というこの物語は、そこから生まれました。


 連載版『チートで荒らされた領地に赴任したら、前世が地方公務員だったので普通の行政で立て直すことにした』で、主人公・中村修一は、領地を「台帳」で立て直しました。今回の佐藤和夫は、森の長老を「記録」で支えました。道具は変わっても、凡人枠の仕事の芯は同じです。


 ——チートで壊した世界は、チートでは直せない。

 ——自分がいなくなっても回る仕組みを作る。

 ——「当たり前」の反対は、「有り難い」。


 介護の現場では、家族が「病気」と認めるまでに時間がかかることが、現実でも少なくありません。呪いや祟りではなく、脳の、ただの病気。それを受け入れてもらうまでが、実はケアの半分です。そういう現場の手触りを、異世界の寓話として残せていたらと思います。


 もう一つ、エルフの長老ルシアンの「女房は、大事にしろ」のくだりは、前世の特養で、認知症が進んでも、ふとした瞬間に配偶者の話になる利用者さんを、何度も見てきた経験からきています。記憶の奥に、最後まで残るものがある——その描写を、エルフの八百年に投影しました。


 凡人枠シリーズは、他にも多数の職業で短編を進めています。外交官、図書館司書、小児科医、消防士、税務署職員、保険外交員、スクールカウンセラー、保育士、産婦人科医、キャリアコンサルタント、弁護士——。それぞれの「普通の仕事」が、異世界のどこで効くのか。気になる職業があれば、プロフィールから辿ってみてください。


 最後まで読んでくださったこと、★評価や感想、ブックマークをいただけることが、次の一話を書く大きな励みになっています。

 次の凡人枠が何の仕事かは、もう少しだけお待ちください。

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凡人枠シリーズ、大好きです。毎回、泣いてしまいますが…。 今回の介護は自分の置かれている現状と重なってさらに胸に刺さりました。
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