最終話: 「夜」
それから、季節がひとつ巡った。
世界は変わっていない。
王都は相変わらず喧騒に満ち、
街道には商人が行き交い、
魔物は山奥に潜み、
子どもは笑い、
大人は愚痴をこぼす。
空は青く、夜は暗い。
勇者が魔王と剣を交えたあの日のことを、
誰も知らない。
いや。
正確には――
知る必要がない。
循環は終わった。
だが世界は壊れなかった。
勇者は勇者のまま在る。
ただ、演じなくなっただけだ。
⸻
小さな町の外れ。
簡素な家の庭で、勇者は薪を割っていた。
斧を振り下ろす。
乾いた音。
額に汗が滲む。
鎧は着ていない。
剣も腰にはない。
ただの男の姿。
庭の端では、子どもが木剣を振っている。
「兄ちゃん! 見てろよ!」
勇者は振り向く。
「足、開きすぎだ。腰を落とせ」
「こうか?」
「そうだ。焦るな」
子どもは何も知らない。
“勇者様”と呼ばれた男が目の前にいることも。
勇者はそれでいいと思っている。
斧を置き、空を見上げる。
静かだ。
胸の奥も、静かだ。
あの日、城門をくぐったときの熱は、
今は穏やかな灯りになっている。
俺は俺だ。
その感覚は、失われていない。
遠くから声がする。
「今夜は飲み明かすぞー!」
豪快な笑い声。
勇者は肩をすくめる。
「ほどほどにしろよ」
誰にともなく、呟く。
そして、少しだけ笑う。
⸻
孤児院。
聖女は子どもたちに囲まれている。
白い衣は簡素なものに変わった。
祈りは形を変えた。
だが眼差しは変わらない。
「シスター、これ読んで!」
「順番でございますよ」
柔らかい声。
誰も彼女を“聖女様”とは呼ばない。
それでいい。
彼女は一人の子の頭を撫でる。
ふと、空を見る。
あの日と同じ青。
「あなたは、あなたのままで」
静かに呟く。
その言葉は、もう誰かを縛らない。
ただ、寄り添うだけだ。
⸻
魔術院。
賢者は書架に囲まれている。
分厚い書物をめくりながら、独り言を言う。
「循環理論の崩壊後、世界構造は安定……」
ペンを走らせる。
止まらない。
だが、ふと手が止まる。
窓の外を見る。
「……自由意志か」
小さく笑う。
理屈では説明しきれない何かがある。
それを認めることに、もう抵抗はない。
「観測は続ける」
本を閉じる。
それでいい。
⸻
魔王城。
玉座の間は静かだ。
玉座には誰も座らない。
魔王は中庭で剣を振っている。
無駄のない動き。
研ぎ澄まされた軌跡。
一振りごとに、空気が鳴る。
止める。
息を整える。
ふと、笑う。
「旅にでも出るか」
誰もいない空に問う。
返事はない。
だが焦りもない。
魔王は魔王のまま在る。
ただ、選んでいるだけだ。
⸻
そして。
どこにでもある町。
石畳の道。
夜。
酒場から灯りが漏れている。
ざわめき。
木製の扉が軋む音。
酒瓶の触れ合う乾いた音。
怒鳴り声。
笑い声。
どこにでもある、ただの夜。
暗殺者は、その前を歩いている。
黒衣は変わらない。
だが足取りは軽い。
中から声が響く。
「お前も飲め!」
豪快な笑い。
続いて。
「……あぁ、今日は飲み明かすぞ!」
その声。
どこかで聞いた響き。
暗殺者は、ほんのわずかに歩みを緩める。
振り向かない。
確かめない。
ただ。
口元が、はにかむ。
……まったく。
小さく息を吐く。
再び歩き出す。
酒場の灯りが背中をかすめる。
笑い声が、夜に溶ける。
勇者は勇者のまま、ただの男となり。
聖女は聖女のまま、子らの手を引き。
賢者は賢者のまま、真理を追い。
魔王は魔王のまま、己を研ぐ。
俺は俺のまま――
さて。
俺は、何になるかな。
歩みは止まらない。
夜風が頬を撫でる。
酒場の扉が開く音。
笑い声が溢れる。
その中に。
聞き覚えのある声が、混じる。
暗殺者は目を細める。
振り向かない。
だが足取りは、ほんの少しだけ遅い。
灯りが遠ざかる。
星が瞬く。
――悪くない夜だ。
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