第八話 八つの勾玉と鏡の門
「お前、昨日……安堂が追ってた犬」
義翔が、思わず声を漏らす。
白い犬はその言葉に反応することなく、弥信を見据えたまま、静かに歩み寄ってくる。
その瞬間だった。
犬の輪郭が、陽炎のようにふっと揺らいだ。
体の内側から滲み出すように、黒い煙が湧き上がり、犬の体を覆っていく。白い毛並みが次第に失われ、小さな体つきが人のそれへと変わっていく。
「えっ、なに?!」
「何!? 何が起きてるの!?」
忠穂と礼夏の悲鳴が職員室に響く中、ゆっくりと黒い煙が晴れていった。
そこに立っていたのは、もはや犬ではなかった。
岩のように筋骨逞しい体躯を持つ、古の武士を思わせる大柄な男だ。
男は弥信に近づく。
(やめて……こっちに、来ないで……)
そう思った時、弥信の身体がふっと宙に浮いた。
朦朧とする意識の中、弥信が見上げると、その男の視線が、まっすぐ弥信を捉える。その鋭い眼差しに弥信は恐怖ではなく優しさを感じた。
「弥信!」
「この、離せっ!」
忠穂の叫びと同時に、義翔の拳が男へと打ち出される。
だが男は、弥信を抱えたまま、その拳を柳のようにかわした。
「!」
その時、男の腕の中で、弥信の指先が微かに動いた。
(ダメ!手を…出さないで!)
そう口にしたつもりだった。しかし、まるで声が喉に張り付いたように 出ない。
「ぁ……あ……っ……」
辛うじて出た声で弥信は訴えかけ焦点の定まらない目で、必死に男の胸元を掴もうとする。言葉にならない声。彼女の意識は、まだ深い泥の底に沈んだままだ。ただ、仲間を傷つけさせたくないという本能だけが、彼女をかろうじて繋ぎ止めていた。
男は、そんな彼女の苦痛を察したように、困ったように眉を下げ、必死に掴む手に自分を優しく掴んだ。
「落ち着け。嬢ちゃんにも」
そこで言葉を切ると弥信から全員に視線を向けた。
「嬢ちゃんの仲間にも何もしない。……だが、この術が届かない場所へ逃げないと、嬢ちゃん、あんたの命が危ないぞ」
男は、弥信に一瞬、視線を戻し、再び呆然とする七人に、射抜くような鋭い視線を向けた。
「届かない所って……外にはあの女がいるのよ!」
礼夏が男を見上げた、次の瞬間。
ドン、と鈍い衝撃。
扉が歪み、木材が軋む。
モップの柄が、もう保たないと告げるように鳴った。
次の瞬間、廊下の奥から湿った女の笑い声が、響いてきた。
「おい、少年!」
男は短く声をかけ、意識の薄い弥信を義翔の腕へと預けた。
「この嬢ちゃんを頼んだぞ。……いいか、みんなよく聞け」
男は八人を見る。
「俺が囮になって奴を引きつける。その隙に、この勾玉を持って、二階と三階の踊り場にある姿見まで走れ」
男は首から下げていた、八つの玉が連なる首飾りを外した。
弥信の首へとかけようと手を伸ばすと、玉は淡いクリーム色の光を宿し、まるで自ら意思を持つかのように、ひとつひとつ宙へと浮かび上がっていった。
そして意志を持つかのように弾け、それぞれが仲間に呼びかける結仁には『仁』が、拳を握る義翔には『義』が。
礼夏、智陽、忠穂、考希、悌……それぞれの手に吸い込まれるように勾玉が収まっていく。
そして最後の一つ――『信』の文字が刻まれた玉は、意識を失いかけた弥信の前でふわりと浮いた。
(綺麗…)
弥信は玉に手を伸ばすと、玉はまるで互いに呼応するように微かに震え、その輪郭をゆっくりと歪ませ、次の瞬間、弥信の手の中に、勾玉が吸い込まれるように収まった。
手に宿った勾玉は、微かに熱を帯びている。
「これって……」
礼夏が呟く間にも、扉の隙間からは死人のように青白い指が入り込み、狂ったようにバリケードを掻き毟っている。
「とにかく!その姿見の前で『とおりゃんせ、とおりゃんせ。ここはどこの細道だ』って唱えろ。鏡の中に神社が見えたら、迷わず飛び込め!」
「あんたは……あんたはどうなるんだよ!」
義翔の問いに、男は答えなかった。ただ、不敵な笑みを残すと、再び一筋の光となり、一匹の白い犬へと姿を戻した。そして、小さな換気窓から、嵐の中へ飛び込むように外へと踊り出していった。
「……行くぞ、みんな!」
考希が、手の中の勾玉を強く握りしめ、全員の顔を見渡した。
「ちょっと待ってください。まず僕が見てきます」
結仁は職員室のドアへ駆け寄った。音を立てぬよう慎重に、指先でわずかな隙間を開け、外を覗き込む。
廊下には不穏な気配が漂い、視界の端を不気味な影がかすめる。
結仁は振り返り、「今です」と短く告げ、皆に鋭く手招きした。
「行くぞ」
義翔は短く言うと、弥信に背中を向ける。弥信は無言でその背中に身を預けた。
結仁の合図で、八人は静まり返った職員室を音を立てずに抜け出した。
八人は音を殺して、二階へと続く中央階段へ一斉に走り出した。
背後からは、あの女の金切り声と、それを阻むような犬の鋭い咆哮が聞こえてくる。
八人は廊下を駆け抜け、息を切らしながら三階と二階の間に広がる踊り場へたどり着いた。
壁に掛かった巨大な姿見があった。
「本当に……これに飛び込んで助かると思うか?」
義翔は鏡から目を離せず、眉を顰めた。
鏡に映る自分たちの姿は、赤黒い空に照らされ、幽霊のように青ざめている。
その時、背後からペタン、ペタン、と濡れた床を踏む足音が響いた。
「っ!」
全員の背中に冷たい物が走った、その時。
「ケタケタケタ」と廊下に女性の笑い声が響く。
「そんなこと言ってる場合?!」
礼夏が声をあげた。
「行くぞ!」
覚悟を決めた考希は、片腕を前に突き出して鏡へ突進した。
次の瞬間。
ガツンッ!!
鈍い衝撃とともに、身体は冷たい鏡面に叩きつけられた。
「なにやってるの! あの言葉を言わなきゃいけないんでしょ!」
「あの言葉?」
礼夏の鋭い声に、考希は鼻の頭を押さえ、痛そうに顔を歪めた。
「“とおりゃんせ、とおりゃんせ“ってやつですか?」
結仁が男の言葉を思い出して尋ねると、礼夏は頷いた。その間にも、背後では女の笑い声が響き、低く犬が唸り、続いて女の悲鳴が廊下に轟いた。
「とにかく行きます!」
智陽は迷いを振り切るように鏡の前に立つ。
「とおりゃんせ、とおりゃんせ。ここはどこの細道じゃ」
智陽が震える声で『とおりゃんせ』を唱え終えると、鏡の表面が水面のように揺れ始めた。
血塗られた校舎が溶け、夕暮れの静かな神社が姿を現す。
「なっ?!」
「どうなってる……」
義翔に抱きかかえられたまま、弥信は力なく鏡を見つめた。
瞳には何も映っていない。けれど、鏡の中に広がる神社の風景が、彼女の記憶の奥底にある「何か」に触れた。
「……ぁ……これ……見て……た……」
うわ言のような呟き。弥信は手を伸ばそうとしたが、指先に力が入らず、そのままカクンと首を落とした。
「安堂!? おい、安堂!!」
考希が焦って名を呼ぶが、彼女の意識は再び暗闇へと落ちていく。
背後の廊下からは、あの女の金切り声がすぐそこまで迫っていた。
「時間はなさそうですよ!」
「行くぞ!」
智陽の号令で、七人は意識を失った弥信を抱えたまま、一斉に鏡の中へと飛び込んだ。
気づくと、そこは神社の前だった。
鳥居をくぐった瞬間、世界は一変する。学校の重苦しい腐臭が消え、ひんやりと澄んだ杉の香りが肺を満たした。
「……ここ、神社?」
誰かが、息を呑むように呟いた。
視線の先には、古びた社殿があり、苔むした石段が続いている。
風に揺れる注連縄――それは、鏡の向こうで見た景色と同じだった。
「…どうなってる……夢じゃないんだよね?」
「誰だ!」
忠穂の問いに被せるように、野太い男の声が割り込んできた。




