第七話 紅蓮の空と換気窓の白い影
闇は静かなのに、身体だけが異常に重かった。
どこまでも果ての見えない漆黒の中に、弥信は独り放り出されていた。音もなく、光もない。どこまでが自分で、どこからが闇なのかさえ判然としない。
息をしているはずなのに、胸の奥まで空気が届かない。肺が冷たい泥で満たされていくような感覚に、弥信は焦燥感ではなく言いようもない心地良さを感じていた。
(また……ここ、どこなんだろ……)
考えようとする。でも、頭が働かない。思考が、冷たい泥の中を漂うように、重く、鈍い。
「許さない……」
どこからともなく、湿った声が闇を這い寄ってくる。それは耳元で囁かれたようでもあり、闇の奥底から這い寄ってきたようでもあった。
「よくも……私の……獲物を……」
じわじわと周囲の温度が奪われていく。肌を刺すような冷気が、産毛を逆立たせた。
「返せ……。返して……」
その時、闇を割って「白いもの」が見えた。
手だ。
血の気のない、異様に細長い指。爪の間にはどす黒い汚れがこびりつき、関節が不自然な角度に折れ曲がっている。その手が、音もなく弥信の喉元へと、這いずるように伸びてくる。
「逃がさない」
「っ!」
首筋に氷のような指先が触れた瞬間。
弥信跳ね起きた。
肺から無理やり空気が押し出され、弥信は激しく咳き込んだ。
ドクン、ドクン、ドクン。
早鐘を打つ心臓が、内側から肋骨を叩き壊さんばかりに暴れている。喉の奥が焼けるように熱い。
(……ハァ、ハァ……っ)
シーツを握りしめる指先が、自分でも驚くほど小刻みに震えている。冷や汗が背中を伝うたび、夢で触れられたあの指の感触が、呪いのように蘇る。
ようやく動悸が収まると、弥信は逃げるようにベッドから起き上がった。制服に着替え、顔を洗い、いつものリビングへ降りる。
「あら、珍しいわね。自分で起きてくるなんて」
母の呑気な声。トースターの焼ける音。いつもの朝の風景がそこにあることに、弥信は心の底から安堵した。
「うん。ちょっと昨日、演劇部の練習したらあんま寝れなくてさ」
強張る頬を無理やり動かし、弥信は「いつもの笑顔」を貼り付けた。
「頑張るのはいいけど、気をつけなさいよ? 最近、本当に物騒なんだから」
「うん。わかった」
母の何気ない言葉に胸を衝かれながら、弥信は出された朝食を、味も分からぬまま無理やり胃に流し込んだ。
学校のホールに足を踏み入れた瞬間、弥信の足が止まった。
そこには、どろりとした淀んだ空気が溜まっていた。舞台の上に集まった七人の部員たちは、円を作って座り込んでいる。
「おはよう安堂」
そう挨拶をする考希の顔にすら、隠しきれない困惑が滲んでいた。
弥信は吸い寄せられるように、その輪の一角に腰を下ろす。見ると、誰も台本を開いていない。
「どうしたんですか?みんな、台本も開かないで」
弥信が努めて明るく問いかけると、部員たちは重苦しい顔で見合わせた。
「ちょっと昨日の話をしててな」
考希が苦笑いを浮かべ、困ったように頭をかく。その瞳の奥は笑っていなかった。
「本当、あれ何だったんだろうね」
悌が膝を抱えたままぽつりと呟いた。
「誰かの……イタズラ……とか?」
結仁が、希望を見出すように明るい声を出し、無理な笑みを浮かべる。
「あんな大掛かりなことをするか?」
低く冷静な声で返すと、結仁は言葉を失い、深く俯いた。
笑いながら追いかけてくる女。
床を溶かすような液を吐く巨大な蜘蛛。
校舎を掴む巨大な骸骨。
それらは否定するにはあまりに鮮明すぎた。
再び、おりた沈黙を切り裂くように考希がパンと手を一つ打った。
「さっ! 練習を始めよう。いつまでも暗い顔をしてたって、舞台は完成しないぞ。……いいか、本番まで時間がないんだ!」
その声は、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
考希の強引な号令に、部員たちは重い腰を上げる。
高い天井に反響する発声練習の声、衣装の布が擦れる音、演出のために点灯されたスポットライトの熱。少しずつ、日常の「演劇部」の輪郭が戻ってくる。
弥信も台本を強く握りしめ、自分の立ち位置へと足を踏み出した。
言葉を発し、体を動かしている間だけは、昨夜の恐怖を忘れることができた。……はずだった。
(……キィィィィィィン……)
突如、鼓膜を突き破るような鋭い耳鳴りが全員を襲った。
「っ!」
悲鳴ともつかない声が上がり、全員がその場に膝をついて耳を塞いだ。脳を直接針でかき回されるような激痛。
数十秒後、ようやく耳鳴りがおさまり、全員が顔を上げる。
「何……今の……」
忠穂が青ざめた顔を上げた時だった。
ドォォォォォンッ!!
地響きと共にホールの扉が粉砕され、木片が弾け飛んだ。
巻き上がる土煙の向こうから現れたのは、到底この世の生物とは思えない「異形」だった。
それは、人の形を歪に引き延ばしたような、どす黒い肉の塊だった。皮膚はなく、剥き出しの筋肉が呼吸に合わせて不気味に波打っている。頭部には目も鼻もなく、顔の半分以上を占める巨大な「口」だけが、粘り気のある涎を垂らしながら開閉していた。
「ア……、ギギッ、ギ……」
そいつが動くたび、骨が軋むような、神経を逆なでする音がホールに反響する。
その背後から再びあの女がゆらりゆらりと体を揺らしながら近づいてくる。
「おいで……」
女が妖艶な、けれど背筋の凍るような声で囁いた。
その瞬間、弥信の身体がビクンと痙攣し、意識の光が瞳から消えた。弥信は人形のようにダラリと頭を垂らす。
「弥信?」
忠穂の声も届かない。弥信はうつろな瞳のまま、吸い寄せられるように女の方へと歩き出す。
「安堂! おい、しっかりしろ!」
手を伸ばす義翔をギロリと睨み付けると弥信は再びフラフラと歩きだす。
「安堂!すまん!」
忠穂は迷わず弥信を後ろから抱き上げた。
「裏から逃げるぞ!」
その声で全員が走り出す。
「逃げるってどこに?!」
礼夏が廊下を走りながら金切り声を上げる。
「職員室だ!あそこなら大人がいる!」
「でも、またあの蜘蛛がいるかもしれないよ」
悌は昨日の惨劇を思い出し、顔を歪める。
「その時は……その時考える!」
考希の言葉に全員がズコッとすっこけ苦笑いを浮かべ階段を駆け下りた。
階段を駆け下り、先頭を走っていた礼夏が職員室の扉を激しく開け放った。
「失礼します! 先生!助けてください!変な人が……」
雪崩れ込むように中へ入るが、返事はない。
普段なら机を整理する音や椅子の軋む音、先生たちが生徒をコンコンと叱る声が渦巻いているはずの室内は、不気味なほど静まり返っていた。机の上には、採点の途中で放り出されたテスト用紙や、作りかけのプリントがそのまま残されている。紙の端が風もないのにわずかに揺れ、まるで、数秒前までそこにいた先生たちが「消えて」しまったかのようだった。
その異様な光景に思わず背筋がぞくりとした。
「……なんで誰もいないんだ」
智陽は眼鏡の奥の瞳を険しくさせたまま、室内を一巡させ、ぽつりと呟いた。
後ろから駆け込んできた結仁は、悌の背中を押して職員室へと押し込んだ。体がぶつかり合う衝撃に、床板がわずかにきしむ。息を整えながら、自分も素早く中へ滑り込む。
「とにかく、ドアを閉めよう!」
考希の声に反応し、ピシャリと扉を閉める。ドアの重みと衝撃が静まり返った室内に鈍い音を響かせる。
「結仁、これを使え!」
考希は結仁に向かってモップを放り投げる。
結仁は部活で鍛えた反射神経でそれを受け止め、扉の取っ手と壁の隙間へ斜めに突き立てた。
即席の「かんぬき」となった木製の柄が、みしりと嫌な音を立てる。
「ほら、悌! もうひと踏ん張りだ!」
へたり込んでいた悌の尻を考希がペシりと叩き、やがて、二人がかりで教師用の机を引きずって扉の前に置く。
「これでしばらくは、物理的な侵入は防げるはずだ」
パンパンと手を叩き、考希は胸を張った。
「で、これからどうします?」
「立てこもるにも限界がありますよ」
結仁の問いに、智陽の現実的な言葉が重なり、全員が口を結んだ。
その沈黙を切り裂いたのは、忠穂 の腕の中で意識を繋ぎ止めていた弥信だった。
「だから……私を置いていけば……」
弥信が消え入りそうな声で繰り返す。
「「「「「「「却下」」」」」」」
示し合わせたわけでもない七人の拒絶に、弥信は「うっ」と気圧され、肩をすくめた。
「安堂、顔色が真っ白だ。早くプロの助けを」
チラリと考希が弥信に視線を向ける。
「警察と救急車を……っ、何これ」
忠穂が絶望的な画面を皆に見せる。
そこには無機質な『圏外』の文字が浮かんでいた。
「学校の電話も死んでます」
智陽が受話器を耳に当てたが、聞こえるのは深海のような静寂だけだった
絶望が空気の中に静かに滲み広がる。
その時、壁際にある小さな換気用の窓から、ガタガタと異音が響いた。
「きゃっ!」
「……っ、何だ!?」
悲鳴と驚きの声が飛び交う中、壁の下の方にある小さな換気用の窓からにゅっと白い顔が覗いた。




