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四、紅に染まる放課後

「ふふ……ふふふ」

 

闇の奥から、またあの女の笑い声が、ひたりと響いた。


(また……だ。誰……なんだろ……)


意識が夢とうつつの境目に沈む中、

白く華奢な腕がゆっくりと弥信に伸びてくる。

指先が、まるで時間をかけるかのように、ゆっくりと弥信の目を覆おうと触れた。

その指は冷たく、細長く、関節の動きがどこか不自然にカクついている。


「ふふふ……」

 

弥信はその音の奥に、奇妙な心地よさをほんの一瞬感じてしまった。

冷たさと柔らかさが混ざった感触に、体が知らずのうちに少し前に傾く。

 

「――安堂!」

「――弥信!」


ぱっと目を開けると、教室の光と声に引き戻される。

黒板の前では、いつものように生徒たちが黙々と授業に集中している。

先生がチョークでコツコツと文字を刻む音が、夢の残響にかぶさるように耳に届いた。


(……夢?)


弥信は小首をかしげ、軽く肩をすくめる。

その瞬間、先生が振り返り、弥信を指して言った。


「そしたら安堂。この問題、答えてみろ」


名前を呼ばれ、弥信は慌てて立ち上がり、黒板に視線を向ける。

だが、いつもなら一番後ろの席からでもはっきり見える文字が、今日はまるで度の合わない眼鏡をかけたかのように、輪郭が滲み、チョークの白い線がうねるように感じる。


(……昨日より、ひどくなってる)


弥信は視界を振り払うように目を擦り、必死に目を細める。それでも、黒板の文字は少しも輪郭を取り戻さなかった。

焦りと、夢の余韻のざわつきが胸に重くのしかかる。

 

「……ん? どうした? 見えづらいのか?」


先生は異変に気づいたのか、心配そうに弥信を見る。


「あ……はい。なんか……おかしくて」

「そうか。無理するな、座れ。……おい、川城、代わりに頼むぞ」


先生はそう言って弥信を座らせ、別の生徒を指名した。


先生に促され、弥信は席に座ると机に視線を落とした。胸の奥に残るざらついた感覚を誤魔化すように、深く息を整える。ただの疲れだと自分に言い聞かせても、あの夢の「冷たい指先」の感触が瞼の裏に焼き付いて離れなかった。


(⋯嫌だなぁ⋯)


深いため息をひとつつくと、弥信はゆっくりと視線を黒板へ戻した。

チョークの擦れる音、紙のめくれる音、周囲の息遣い……全てが現実だと自分に言い聞かせながらも、あの夢の冷たく滑らかな指先が瞼の裏に焼き付いている。


そして放課後、弥信は演劇部の仲間が待つホールに向かった。


校舎の廊下は、昼間のざわめきが嘘のように静まり返り、靴底が床を擦る音だけが響く。

窓の外では夕暮れの光がゆっくりと傾き、長く伸びる自分の影が床に映る。

空気は少しひんやりとして、教室の中で感じた温度とは違う冷たさが、肩を軽く刺すようだった。

 

 「義は人の道なり。これを捨てて生きるなら、獣と何が違うというのだ」


弥信がセリフとともに数歩横に踏み出した時、距離感が掴めず、隣にいた結仁に肩をぶつけてしまう。

木製の床がわずかに軋む音が足元から響き、舞台の空気を震わせる。

隣にいた結仁の肩に軽くぶつかってしまい、思わず申し訳なさそうに手を合わせる。


「っと。大丈夫ですか、先輩?」

「ご……ごめん、金城くん」


弥信が申し訳なさそうに手を合わせ、結仁は苦笑を浮かべ、その笑顔に弥信は少しだけ気が緩む。

しかし、舞台の空気は張り詰めており、耳に届くのは自分たちの呼吸や靴音、時折響く壁の反響だけだった。

その時。

その瞬間、バタン――!とホールの重い扉が勢いよく開けられた。

音に振り返ると、暗い階段を、足音も立てずに舞台へと下りてくる人影があった。


「⋯ん?誰だ?今日は我ら演劇部の練習日だが」

 

考希が困ったように声をかけたが、その人影は無言のまま、ゆっくりと階段おりてきていた。

 

「⋯なんかおかしくない?」


舞台にいた悌が小さな声で呟き、一歩後ろに下がる。

隣に立つ仲間たちも、無意識に距離を取りながら、互いの表情を確かめる。


「仲西、空華先輩……早く舞台の上に!早く!」


義翔の切迫した声が、舞台の端から鋭く響き、緊張をさらに高める。

忠穂と礼夏はその声に押されるように、慌てて舞台に駆け寄る。

手を引かれ、少し躊躇しながらも二人は舞台によじ登った。

スポットライトの端に、階段から降りてきた人物の姿が鮮明に浮かび上がる。

 

スポットライトの端に、おりてきた人の姿が鮮明に浮かび上がった。

舞台の前で立ち止まったのは……あの日、弥信が道ですれ違った和服の女性だった。

 

「……せ」


女性は、ぽつりと呟いた。

その声は冷たさを帯びていた。


「そいつをよこせ……」


すう、と青白い指が弥信を指さす。

その瞬間、視界が真っ暗に沈み、体がガクリと痙攣する。

床に崩れ落ちるように力を失い、動くことも声を出すこともできなかった。


「弥信?!」

「安堂!」


仲間たちの叫びは聞こえるのに、口からは音が出ず、喉だけが空回りする。

恐怖よりも先に、全身が熱を帯びたように震え、心臓は爆ぜそうに早鐘を打つ。


(息が……できない……)


喉の奥で、浅く短い呼吸だけが空回りする。

それを尻目に、女はゆっくりと、しかし確実に8人に迫った。まるで時間が歪み、女の周囲だけが異質な法則で流れているかのようだった。


「なんだ?彼女に何か用か?」


義翔は低い声で言うと考希と共に弥信の前に立ちはだかる。

女が無言でギロリと、二人を睨み据える。

誰かが息を呑むのが、はっきりと分かった。

その時。


「カン!」


鎌のような弧を描いて、女の爪が空を切る。

その刃を、女と仲間の間に割り込んだ結仁の「小道具の盾」が弾いた。


「っ!」


結仁が衝撃に顔を歪める。ベニヤ板で作られたはずの盾が、まるで鋼鉄を叩いたような音を立てた。

女の動きが一瞬、止まる。

だが、すぐに腕が振り上げられ、全員が息を飲む。 


「悪い、仲西」


義翔が叫ぶなり、足元に置いてあった水筒の蓋を跳ね飛ばした。中身の液体を、躊躇なく女の顔面へとぶちまける。


「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」


女は、顔を焼かれたかのような凄まじい悲鳴を上げた。袖で顔を覆いながら、よろよろと後ずさる。


「逃げろ!」

「裏から逃げましょう!」


考希と忠穂がほぼ同時に叫ぶ。

次の瞬間、全員が舞台裏へ駆け出し、扉を押し開ける。


「ちょっと、一体なに入れてたの? あなた?!」


走りながら礼夏に詰め寄られ、忠穂は「えー」と間の抜けた声を出し、首を傾げた。


「冷たいミントティーですよ?暑いかなと思って」

「それにしては、驚きすぎじゃない?!」


礼夏の言葉に、忠穂は「んー」と曖昧に唸る。


「いや、急に冷たいの浴びせられたら誰だって驚くだろ」


智陽が呆れたようにツッコミを入れる。


「もう無理……足が上がらない……」

「頑張ってください、有馬先輩! あと少しですから!」


最後尾で、結仁が今にも泣き出しそうな悌の背中を強引に押し、必死に仲間の背中を追う。

 


ホールを抜けると、そこは大きな姿見が並ぶ多目的スペースだった。

いつもなら卓球部の威勢のいい声が響いているはずなのに、今は人っ子一人いない。不自然に出しっぱなしにされた卓球台が、静まり返った空間で異様な存在感を放っていた。

言いようのない違和感を抱えながら8人が廊下へ出た。

廊下はさっきまで聞こえていたはずの吹奏楽の音や、廊下のざわめきが一切消えている。

 

「どうなってるんだ?」


義翔が呟いたその時。


「みんな……見て」


足を止めた忠穂は、震える指で窓の外を指さした。

その先を見た8人は、同時に息を呑み、言葉を失った。

窓の外に広がる世界。

そこにあるはずの穏やかな夕暮れは、影も形もなかった。

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