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第十三話 牡丹の痣 八人の宿命

眩い光に視界を塗りつぶされたのも束の間。

ふっと浮遊感を覚えた直後、弥信の体は唐突な衝撃と共に、冷たい水の中へと叩きつけられた。

 

「……っ!?」

 

肺の中の空気がすべて押し出されるような、激しい水圧。

鼻を突く水の冷たさと、自由を奪う容赦のない水の重み。

弥信はパニックで口を開けそうになるのを、必死で堪える。

さっきまで肌を焼いていた「赤い空」の熱気はどこへやら。弥信は自分が今、どこにいるのかも分からぬまま、光の届かない深い青の底へと沈んでいった。

 

(苦しい……!)

 

見上げれば、はるか遠く、太陽の光を浴びた水面が宝石のようにきらきらと揺れている。

けれど、水を吸った重い制服が、まるで執拗な亡霊の手のように弥信の体を底へと引きずり込もうとする。

肺が焼けるような痛みに襲われ、意識が白濁し始める。


(上がらないと!)


弥信はなりふり構わず、もがくようにして水を蹴った。泡を吐き出しながら、光の差す方へと、折れそうな腕を必死に伸ばした。


「ぷはっ……! げほっ、ごほっ、はぁっ……!」

 

弥信は激しくむせ返りながら、水面を割って顔を突き出した。

肺に流れ込んできたのは、あの赤い世界の熱気ではなく、ひんやりと清涼な空気だ。


 (助か…った?)


そこは、いつか見たあの屋敷の池だった。

冷たさと恐怖でガタガタと震える手で、ぬめりのある池の縁を必死に掴み、顔を上げる。

水滴を拭う余裕もない視界に飛び込んできたのは、驚きに目を見開く伏姫の姿だった。

 

「あなた、一体どこから……」

 

縁側に座っていた伏姫は、まるで空から降ってきたかのような弥信の登場に、目を丸くして言葉を失っている。


「おい!大丈夫か!?」

 

伏姫の隣にいた酒呑童子が、弾かれたように腰を浮かせた。山のような巨体を揺らし、今にも池に飛び込まんばかりの勢いで弥信を覗き込む。

その喧騒とは裏腹に、茨木童子は静かに立ち上がった。


 (おっきいー)


水面から顔を出した弥信を覆うように、酒呑童子の巨大な影が落ちる。さっきまで実の親に追い詰められていた絶望の淵で、この荒々しくも温かい声は、何よりも確かな救いだった。

茨木童子は一言も発することなく、濡れ鼠となって震える弥信を一瞥した。その瞳に冷徹な光を宿したまま、ふい、と羽織を翻して屋敷の奥へと歩き去っていく。

 

(どうしよう……怒らせちゃったかな……)

 

去っていく茨木童子の背中を、弥信は不安に揺れる瞳で見つめていた。

 

「ほれ、掴まれ!」

 

酒呑童子が迷わず腕を差し出した。

弥信がおずおずとその手を掴んだ、その瞬間。


「よっと!」

 

酒呑童子は膝を折ることすらなく、ただ腕の力だけで、弥信を池から一気に引き上げた。

まるで羽毛でも扱うような軽々とした動作。水を吸って鉛のようになっていた体が、一瞬だけ重力から解き放たれ、宙を舞う。

 

「……あ」

 

次の瞬間には、弥信は縁側の乾いた板張りの上にいた。

全身から滴り落ちる水が、静かな廊下に水たまりを作っていく。池の冷気とは対照的な、酒呑童子の荒々しくも温かい吐息がすぐそばで聞こえていた。


「すみません、ありがとうございま……」

 

弥信が消え入るような声で言い終わる前に、背後でバシャン!と大きな水音が響いた。

 

「っ!?」

 

弥信と酒呑童子が慌てて振り返る。

波紋が広がる池の真ん中から、ぶはっと勢いよく考希と義翔が顔を出した。

 

「なんだなんだ、お前ら。朝から水泳の稽古か? 元気がいいなあ」

 

酒呑童子はガハハと笑い飛ばすと、濡れ鼠になった二人へ、さっきと同じように大きな手を差し出した。


「おやおや……」

 

振り返ると、いつの間にか茨木童子がバスタオルを数枚抱えて立っていた。

 

「随分とにぎやかになりましたね。追加が必要なようです、少々お待ちを」

 

彼は手近にいた弥信にふわりとタオルを掛けてやると、一度屋敷の奥へ戻ろうと

踵を返した。

だが、その瞬間。


「「きゃぁぁっ!」」

 

静まりかえっていた池の水面が、爆発したように激しく波立った。

その中心で、今まさに顔を出そうとしていた礼夏と忠穂が、吸い込まれていった。

 

「うわっ、おい!」

「しっかりしろ!」

 

間一髪、近くにいた考希と義翔が二人の腕を掴み、力任せに水面へ引き戻す。


「おいおい、朝から何が起きてんだ。ほら、つかまれ」


呆れたような声を出しつつも、酒呑童子は身を乗り出して大きな手を差し出した。

考希と義翔は、パニックで水を飲んだ礼夏と忠穂を先に酒呑童子へ託す。二人が軽々と縁側へ引き上げられたのを確認してから、自分たちも力強く池から這い上がった。


「何かあったんですか?」

「実は家で、変なことが起きて……」


伏姫に事情を説明しようと義翔が震える口を開いた、その瞬間。

――バッシャン!

これまでの比ではない、ひと際大きな水音が庭に轟いた。

全員が弾かれたように池へ視線を向けると、激しく泡立つ水面から、悌を両脇で抱えた智陽と結仁が、苦悶の表情で顔を出した。

 

「悌! 智陽! 結仁! 大丈夫か!」

 

考希と義翔が慌てて池の端へ駆け寄り、ぐったりとした悌の体を力任せに引き上げた。

酒呑童子もすかさず身を乗り出し、残る智陽と結仁の襟首を掴むようにして、二人を池から一気に引き揚げた。


「皆さんが揃ってここに辿り着いたということは……やはり、あちらで何かが起きたのですね」


騒がしかった庭に、伏姫の凛とした声が響く。


「詳しいお話は、温かいお風呂に入ってからにしましょう。そのままでは、体だけでなく心の芯まで凍えきってしまいます」


アマビエの穏やかで不思議な響きを持つ声に、弥信たちは毒気を抜かれたように顔を見合わせた。

張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、途端に激しい疲労が襲いかかる。

 

「……はい」

 

誰かが小さく応えた。

水を吸った制服の重さに耐えながら、八人はアマビエの後に続いた。


その背中は、どれもひどく小さく、傷ついて見えた。


社の廊下はひんやりと静まり返り、濡れた足音がぺたぺたと虚しく響く。

案内されたのは、ほのかに薬草の香りが漂う広大な湯殿だった。

 

「さあ、遠慮はいりません。今のあなた方には、何よりも休息が必要です」

 

アマビエの優しい言葉に促され、弥信たちは吸い込まれるように脱衣所へ向かった。

震える手で、制服を脱ぎ浴室の重厚な扉を開けると、真っ白な湯気が立ち込め、凍えきった体を優しく包み込んだ。

体や頭を洗うと弥信たちはざばり、と音を立ててお湯に身を沈める。

 

「あったまるー」


湯船に肩まで浸かり、忠穂が声を漏らす。


「そうだね。寒かったもんね」


弥信も息を吐きながら、湯の中で小さく肩をすくめ苦笑いを浮かべる。


「弥信……その腕の傷」


忠穂の言葉に腕を見ると、小さな切り傷ができていた。


(さっき、お父さんに……)


弥信は自然と傷をギュッと掴む。


「ねぇ、弥信も……なんかあったの?」

「“も”ってことは、忠穂も?」


弥信の問いかけに、忠穂はしばらく黙ってから、顔を曇らせて小さく頷いた。


「朝、起きたらお父さんもお母さんもおかしくなってて……玉梓さまがってずっと言ってて……」

(同じだ……)


忠穂が泣き出しそうな顔をするのを見て、弥信は俯き、顔を顰める。


(私のせいで……)


弥信は拳をぎゅっと握った。


その時、ポンと背中にそっと手が添えられた。顔を上げると、少し悲しそうに笑う礼夏が、忠穂の背中にも手を置きながら弥信を見ていた。


「もう話さなくていいわよ、安堂さんも。自分を責めるのは違うわよ」


弥信は驚いた顔で礼夏を見た。


「……なんでわかったんですか?」

「だって弥信、わかりやすいもん」


忠穂が苦笑い混じりに言うと、礼夏は小さく頷く。


「顔に書いてあるわよ」


弥信は思わず顔を抑える。

2人のくすくす笑う声が、湯気の向こうに響く。

ひとしきり笑った礼夏が涙を拭うと、ふと「あら?」と声をあげた。


「どうしたんですか?」


涙を拭きながら忠穂が尋ねると、礼夏は忠穂の肩を指さした。


「あなたたち、その痣……」


「えっ?」


弥信と忠穂が同時に声を上げた。

礼夏に言われて鏡を見ると、弥信の鎖骨あたりにある牡丹の形をした痣が、忠穂の肩にもあった。


「ホントだ……気づかなかった」

「牡丹の痣って……八犬士の証……」


礼夏の呟きに、全員が息を呑む。


「空華先輩にもあるんですか?」

「見た感じないわね……」


礼夏が自分の体を改めて確認すると、「あっ!」と忠穂が小さく声をあげた。


「先輩、首!」

「首?」

「あ、ちょっと待ってください」


弥信は脱衣場へ行き、濡れた制服から雲外鏡を取り出すと礼夏の首元にかざした。

たしかに、そこにも牡丹の形をした痣が浮かんでいる。


「気づかなかったわ……」


礼夏は首元を抑え、つぶやいた。


「やっぱり私たち……」


弥信がぽつりと漏らす。


「これからどうなっちゃうんだろう……」


忠穂は視線を落としたまま、静かに呟く。


礼夏はその言葉を聞き、少し考え込んだ。

そして、無言で立ち上がり、脱衣場へ向かった。


「せ、先輩?!」


驚いた声で弥信が呼ぶと、礼夏はくるりと振り返る。


「ここでウジウジ考えてても仕方ないわ。直接、伏姫さまに聞きに行くのよ」


そう言うと礼夏は迷わず脱衣場へ歩きだす。

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