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第十二話 壊れた日常と血の色の朝

ガバッと、弥信は跳ね起きた。

激しく上下する肩を抑えながら、必死に視線を泳がせる。

視界に飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋の天井だった。

窓から差し込む朝の光や、机の上に積み上げられた本、脱ぎっぱなしの服。

……さっきまでいた仲間たちの亡骸もどこにもなかった。

 

胸が苦しいほど速く脈打ち、息が追いつかない。


「はぁ……はぁ……夢、だったんだ……」

 

震える自分の手を見つめ、弥信は何度か深く呼吸を繰り返した。冷や汗で湿った肌に、朝の空気がひんやりと触れる。ようやく少しだけ落ち着きを取り戻し弥信は重い体を引きずるようにして布団から出た。

制服に袖を通し急ぐように部屋を出て、一段ずつ確かめるように階段を降り、静かなリビングへと向かった。


「おはよう、お母……」

 

言いかけた言葉は、そのまま喉の奥で凍りついた。

開け放たれたカーテンの向こう、窓から飛び込んできた光景に、弥信は息をすることさえ忘れて立ち尽くした。

空が、燃えている。

まるで誰かが大量の血をぶちまけたような、どろりと濁った異様な赤色。

太陽の光さえもその赤に侵食され、世界全体が不吉な色に染まっていた。

 

「……お父さん? お母さん……?」

 

震える声で呼びかけても、返事はない。

窓の前で並んで立つ両親は、まるで糸の切れた人形のように、ただ黙ってその赤い世界を見つめ続けていた。


「綺麗でしょう? この空」

 

母親は窓の外を見つめたまま、うっとりと夢を見るような声で言った。

その横顔には、慈愛に満ちた、けれどどこか空っぽな微笑みが張り付いている。

 

「玉梓様が目覚められた証なんだって」

 

母親は恍惚とした表情で窓の外を見つめると、何かに吸い寄せられるように、すうっと両手を空へ掲げた。

その指先が、赤い光に透けて不気味に白く浮かび上がる。

 

「玉梓様はね、この間違った世界を、あるべき姿へ正してくださるのよ」

「正……す……?」

 

思わず聞き返した弥信の声は、ひどく掠れていた。

問いかける弥信の視線に気づいたのか、母親は、まるでダンスを踊るような滑らかな動きで、ゆっくりと弥信の方を振り返った。


「争いも、苦しみも、全部終わらせてくれるのよ」

 

母親の陶酔した声に合わせるように、それまで石像のように黙っていた父親が、静かに弥信へ視線を向けた。その瞳もまた、母親と同じように焦点が合っていない。

 

「弥信も、玉梓さまに選ばれてるんだ。……おめでとう」

 

そう言って、二人は示し合わせたように、吸い寄せられるような足取りで一歩踏み出してきた。

恐怖を覚え、弥信は反射的に一歩下がった。

 

「だから……ちゃんと、捧げないといけないんだよ」

 

父親は淡々とした、まるでおやつでも勧めるような口調で言い、手にしていたカッターの刃をスライドさせた。チチチ、という乾いた金属音が、静かなリビングに異様に響く。

 

「……っ!」

 

ギラリと光った刃先が、目の前に迫る。

弥信は目を見開き、咄嗟に体を捻った。

スッ、と。冷たい感触が頬のすぐ横を通り過ぎ、遅れて熱い痛みが走る。

けれど、戦慄する暇さえなかった。

 

「逃げちゃだめよ、弥信」

 

すぐさま、今度は母親が構えていた包丁を、迷いなく弥信めがけて振り下ろした。

弥信は床に転がっていた通学カバンをひったくるように掴み、反射的に目の前へかざした。

――ブスリ、と。

鈍い音とともに、カバンに包丁が深く突き刺さる。手元に伝わってきたズシンという重たい衝撃に、弥信の全身から血の気が引いた。


「っ!」


悲鳴にならない声を上げ、その隙にリビングを飛び出した。

後ろを振り返る余裕なんてない。一段飛ばしで階段を駆け上がり、二階の自分の部屋まで全力で走る。

背後に親たちの気配を感じながら、弥信は部屋の中へ体を押し込み、ドアを叩きつけるように閉めた。

そのまま、震える指で鍵をガチャリと回す。

 

「弥信、開けなさい」

 

ドアの向こうから、母親の声がした。

まるで「ご飯よ」とでも呼んでいるような、いつもと変わらない穏やかなトーン。けれど、その優しさが今の弥信には、どんな叫び声よりも不気味に響いた。


「玉梓さまは、あなたをとても気に入っていらっしゃるの」

 (嫌だ、嫌だ嫌だ……!)


耳に手を押し当て、弥信は涙を浮かべずるずるとその場に座り込んだ。

 

 ガチャ、ガチャ……。

執拗にドアノブが回される。金属が擦れる嫌な音が、静かな部屋に響き渡った。

 

「怖がらなくていいんだ、弥信。すぐ、楽になるから」

 

父親の声が重なる。まるで寝付かせようとする時のように、低く、穏やかな響き。

 

「そうよ。親が子どもを正しい道へ導くのは、当たり前のことでしょう?」

 

追い打ちをかける母親の声は、どこまでも慈愛に満ちていた。

その優しさが、今の弥信にはおぞましく感じられる。


――ドォォン!

不意に、ドアが大きな音を立てて震えた。

体当たりされている。鍵が悲鳴を上げ、建付けの悪いドアがガタガタと泣いた。


(どうしよう……どうしよう、どうすればいいの……!?)

 

ガタガタと震え、頭の中は真っ白。

ドアが蹴破られる恐怖から逃げるように、一歩、また一歩と後ずさる。

何か武器になるものはないか、逃げ道はないのか。

涙で滲む視界で、必死に部屋の中を見渡した――その時。

部屋の隅に置かれた姿見が、ふと視界に飛び込んできた。


弥信は慌てて自分の制服を叩き、ブレザーのポケットへ手を突っ込んだ。

指先を必死に動かし、小さな鏡――雲外鏡を取り出す。

だが、恐怖で感覚を失った指先は、自分でも驚くほど震えていた。

 

「あっ……!」

 

するりと指の間をすり抜けた鏡が、床に零れ落ちる。

心臓が止まるかと思った。弥信は床に這いつくばるようにして雲外鏡をひったくり、それが無事なのを確認して、ようやく短く息を吐いた。

――ガンッ!

直後、鼓膜を突き刺すような衝撃音が響く。

メリメリ、と木枠が裂ける不吉な音が続き、ドアの鍵部分に大きな亀裂が走った。

 

 「なんだっけ……なんだっけ。なんだっけ……えっと……」


必死に記憶の糸を辿るが、頭の中は真っ白で、大事な呪文も使い方も霧の向こうに消えてしまったように思い出せない。

改めて見つめる雲外鏡は、どこにでもある古びた手鏡にしか見えない。

装飾こそ少し変わっているけれど、鏡面に映っているのは、涙目になって震えている情けない自分の顔だけだ。


「お願い、動いて……! 助けて……っ!」

 

背後では、ドアを壊す音がますます激しくなっている。

弥信は祈るように呟きながら、ただの手鏡にしか見えないそれを、強く、壊れるほどに握りしめた。

 

「かごめ、かごめ……? 違う、そんなのじゃない……っ。えっと、えっと……!」

 

――バリバリッ!

嫌な破壊音と共に、ドアの中央に大きく穴が開いた。

そこから、血のように赤い逆光を背負ったお母さんの目が、ぎろりと弥信を射抜く。

 

「みことぉー……そこにいるんでしょう?」

 

甘ったるく、粘りつくような声。弥信は悲鳴を上げそうになるのを必死に堪え、手元の雲外鏡を凝視した。

 

「なんだっけ……えっと……そうだ!」

 

弾かれたように顔を上げ、弥信は肺にあるすべての空気を吐き出すように叫んだ。

 

「とおりゃんせ、とおりゃんせ。ここはどこの、細道じゃ――!」

 

その声が響いた瞬間、ただの手鏡だった雲外鏡が、真っ白な光を放ち始めた。


バリッ、と音がして、こじ開けられた穴から母親の白い腕が滑り込んできた。

迷いのない動きで指先が鍵に掛かり、カチリ、と絶望的な音が響く。

――ドアが開いた、その瞬間だった。

 

「みこと……っ!」

「っ!」


母親の指先が弥信の服を掠めたのと同時に、手元の雲外鏡が爆発的な光を放った。


「あ……」

 

声も出ない。重力から解き放たれるような浮遊感。


「待ちなさい!弥信ぉぉぉ!」


水面に落ちる滴のように、瞬く間に雲外鏡の中へと吸い込まれていった。

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