第十話 真説・里見八犬伝
「どこだ!……どこに行ったぁぁぁ!」
金切り声を上げ、女は狂ったように辺りを見渡す。その声はもはや人間の発声器官から出たものではなく、金属をヤスリで削るような、不快な響きだった。
(私を探しているんだ……)
そう思った瞬間、背後にいたはずの演劇部の仲間たちが、意志を奪われた人形のように、ふらふらと女のほうへ歩き出した。
(ダメ……そっち行っちゃダメ!)
弥信は必死に、皆の背中へ腕を伸ばした。指先が虚空を掻き、叫ぼうとしても、喉が塞がったように、息だけが漏れた。
女の背中から、何本もの細い「糸」が伸び、仲間たちの手足に絡みついているのが見えた。
(やめて!!)
弥信は必死に手を伸ばした。
ふと、意識が覚醒し、弥信は泥のように重たいまぶたを持ち上げた。
「……ここ……?」
弥信は小さく呟き辺りを見渡す。
視界に飛び込んできたのは、部屋の隅を照らす淡い行灯の灯りと、長い年月を経て黒ずんだ古びた天井だった。
ふと、畳のい草の香りが鼻をくすぐる。
そこでようやく、自分が布団の上に横になっているのだと気づいた。
「気がついたかい」
静かな、どこか鈴の音のように透き通った声が、すぐそばから聞こえた。
驚いて体を起こそうとすると、枕元に座っていた尼姿の女性が、すっと白く細い手を伸ばしてそれを制した。
「まだ無理をしちゃいけないよ。心が受けた傷と、身体への異界の侵食。そのバランスがまだ追いついていないのだから」
「……あなたは……?」
酷く掠れた声で尋ねると弥信は見上げる。
「アマビエだよ」
あっさりと名乗り、彼女は小さく微笑んだ。
その手元では、青磁の香炉から紫色の細い煙が揺らめきながら立ち上っている。
「呪いと恐怖で、心も身体も擦り切れていたんだよ。これは単なる休息。治したわけじゃないからね。根本的な解決は、これからのあなたたち次第だよ」
「はい⋯」
短く応えると、弥信は俯き、すぐに顔を上げた。
「あの⋯他の皆は? 一緒に逃げた仲間たちは無事なんですか?」
「それなら……今、ちょうどお迎えが来たようだね」
「弥信!」
廊下から響いたその声に、弥信ははっと顔を上げた。
障子が開け放たれた視線の先、少し離れた廊下の角から、忠穂と悌希が必死な形相でこちらへ駆け寄ってくるのが見える。
「よかった……本当に……目が覚めなかったらどうしようかって……」
忠穂は膝をつき、大きな目を潤ませた。
「急に倒れるから……びっくりしたんだよ。顔も真っ青だったし」
悌は心底安堵したように大きな息を吐き、ぎこちなく笑った。
「すみません……心配、かけて……」
弥信が消え入るような声で謝ると、悌は慌ててぶんぶんと首を振る。
「謝らないでよ。本当に、生きてて良かったんだから」
「そうだよ! もう、弥信がいなくなったら私……!」
忠穂が我慢できなくなったように、布団の上の弥信に抱きついた。
「死んじゃうんじゃないかと思ったよ」
「ごめんね」
弥信は少しだけ困ったように笑い、自分を抱きしめる忠穂の背中をポンポンと優しく叩く。
「……あの、和服の女の人は?」
「彼女はここには入って来れません。安心しなさい」
アマビエの言葉に、弥信は安堵しながらも、胸の奥に残っていた小さな疑問を、押さえきれずに口にした。
「そう⋯ですか。⋯あの人は、誰なんですか?」
弥信の問いに、アマビエは一瞬だけ口を閉ざし、わずかに顔を曇らせた。
「それは伏姫さまからお話があるでしょう。さて、どうしますか? 歩けそうなら、皆さんのところへ行きますか?」
頷くと、弥信はアマビエに支えられてゆっくりと立ち上がり、そのまま中庭の見える長い廊下へ導かれた。
磨き抜かれた鶯張りの床に、高く開かれた窓から差し込む午後の光が、細長く伸びている。
弥信たちの足音だけが、静寂に満ちた空間に小気味よく反響した。
ふと弥信が視線を向けた中庭では、冬の訪れを告げる白い山茶花が、凛とした冷気の中でひっそりと咲いている。
中央の池は風もなく穏やかに揺れ、太陽の光を受けて、水面がきらきらと無数の宝石の欠片のように輝いていた。
(綺麗……あの真っ赤な空が、嘘みたい)
「こちらです」
アマビエの声に、弥信ははっと顔を上げた。
彼女は重厚な襖の前に正座し、一拍置いてから、居住まいを正して声をかけた。
「失礼いたします、伏姫さま。治療室にて保護していた子供たちを、お連れしました」
「入ってもらって」
内側から届いた、凛とした声がする。
障子が開けられ、中に入ると、そこは小さな部屋だった。
その中で白い小袖に薄紅の袴を纏った、この世のものとは思えないほど美しい女性の前に、考希、義翔、智陽、礼夏、結仁の五人が、神妙な面持ちで並んで座っていた。その顔には、先ほどまでの激動を物語るように、どこか強張った色が浮かんでいる。
「安堂、もう具合はいいのか?倒れた時はどうなるかと思ったぞ」
考希は苦笑いに似た笑みを浮かべながら、弥信を見た。
「はい。ご心配おかけしました」
そう言って弥信は小さく微笑み、考希の後ろ、仲間たちの輪の中へ。忠穂と並んで静かに腰を下ろした。
しばしの沈黙のあと、伏姫はゆっくりと弥信たちに視線を向けた。
「すでにここにいる者たちには話しましたが……皆さんは、《里見八犬伝》について、どれほど知っていますか?」
弥信、忠穂、悌は困惑したように顔を見合せた。中学生の頃に図書室で見たか、あるいは演劇の資料で目にした程度の知識を、忠穂が代表して絞り出す。
「もともとは別々の場所に生まれた八人が、不思議な縁で、同じ『犬』の姓と珠を持って集められて……最後は里見家のために戦う――そういう、江戸時代の有名なファンタジー物語だったと思います」
忠穂の言葉に、伏姫はひとつ頷き、静かに話を続けた。
「そうですね。馬琴先生⋯世に《里見八犬伝》を著した滝沢馬琴殿には、“物語”として書いていただきましたから。人の世に広く流布させるためには、その形が最適だったのです」
「物語として……ということは、本当はそうじゃないんですか?」
弥信がそう問いかけると、先に来ていた義翔や智陽たちは、一様に苦い表情で顔を曇らせたり、気まずそうに視線を伏せたりした。
「えっ……なに? みんなどうしたの?」
悌は、誰とも目が合わない異様な空気に、不安げに仲間たちを見回した。
すると、考希は3人を見渡して覚悟を決めたように苦笑した。
「ちょっと驚く話だからな。俺たちもさっき聞いたばかりなんだが……正直、まだ脳が拒否してる。安堂たちも、心して聞いた方がいいぞ」
弥信は、どういうことだろうと不思議そうに小首を傾げた。
伏姫は、静かに深い息を整えると、背筋を伸ばし、ゆっくりと重い口を開いた。
「先ほどの問いに、答えましょう」
伏姫は、一点の曇りもない凛とした声で言った。
「《里見八犬伝》は、空想の物語ではありません」
一同の空気が、ぴんと張り詰める。
「あれは――過去に実際に起きた、真実を書き留めた記録なのです。実際に起きた凄惨な出来事を、後の世に正しく伝えるために、“物語”というフィクションの形を借りて世に出したに過ぎません」
伏姫はそう言って、弥信たち一人ひとりに視線を巡らせた。
「八犬士も、八つの玉も、そして……玉梓の怨霊も、確かに存在しました」
その名に、誰かが息を呑む気配がした。
「玉梓は封じられていました。長い年月のあいだ、人の世から切り離されていたのです。ですが近ごろ、その封印が解かれました」
「……え?」
弥信の喉から、思わず声が漏れる。
「なんったか? えー……ゆーちょーぱー? だっけか。そいつが、封印してた石碑を壊しやがった」
そう言って、入口に立つ酒呑童子は眉間に深い皺を寄せ吐き捨てた。
すると隣にいた茨木童子が、盛大なため息をつく。
「それを言うなら YouTuber だ。脳筋バカ」
「おぉ! それだ!その横文字のやつだ!」
ポン、と自分の膝を叩く酒呑童子。茨木童子は、もう一度だけ深く息を吐き、頭を抱えた。
その様子に苦笑いをすると伏姫は3人に視線を戻した。
「ともかく、その者が封印に触れました。
そして玉梓は、再びこの世に姿を現したのです。しかも――」
伏姫はそこで言葉を切り、静かに息を整えた。
「玉梓は、ただ甦ったわけではありません。
封じられていた長い時の中で、知恵を得たのです」
「……それは、どんな力ですか?」
弥信の問いに、伏姫はわずかに顔を顰めた。
答えを告げること自体が、忌まわしい――そんな色が滲む。
「彼女は、女郎蜘蛛を喰らいました。
そして、その性質ごとを取り込み――
今は、女郎蜘蛛として在るのです」
「だから、あなたが持っていたミントティーが効いたみたい。虫除けとかにも使われるくらい蜘蛛はミントが苦手なの」
「だから義翔はナイス判断だったわけだ」
ニコニコと言う考希に義翔は少し複雑そうな顔をする。
「いや、偶然です。熱いものなら威嚇になるかなと思ったんですが⋯まさか冷たいミントティーだっとは思わなくて」
考希は頭に手を当てる。
伏姫は少し笑みを浮かべるとすぐに、真面目な顔に戻ると話を続ける。
「玉梓が目覚めれば、この世の理に従い、必ず動き出すものがあります。
闇が深まれば光が差すように――八犬士の魂もまた、この時代に目覚めたのです。」




