第九話 伏姫と二人の鬼
「お前……れだ?」
(だ…れ…だろ)
忠穂の問いに被せるように響いた、野太い男の声。
朦朧とする弥信の耳に届くその音は、まるで見知らぬ国の言語のように遠く、歪んで聞こえた。
ぼんやりと瞼を持ち上げた弥信は、次の瞬間その光景に目を見開いた。
そこに立つ男たちの頭には、おぞましい角が生えていた。
(……お……に?)
そう信じてしまうくらい、彼らの姿はあまりに『異形』だった。
「…ぁん?…ども?」
何を話しているのかはわからない。けれど、大人の男性より頭一つ分は高いその男に、自分だけでなく仲間たち全員が圧倒されていた。その凄まじい存在感に、その場の空気が丸ごと呑み込まれていることだけは、肌で感じて分かった。
(どうしよう…どうにか…しないと)
焦る気持ちとは裏腹に、私の体は石にでもなったかのようにピクリとも動かない。
「……で…な…に?」
隣の男より頭一つ分ほど小さく、少し細身の男が、乱れた黒髪を苛立たしげにかき上げた。
悌先輩と礼夏先輩が、身振りを交えて二人の鬼に何かを必死に伝えているけれど、それを受けた鬼たちは、明らかに不快そうに顔を歪める。
(何を……話してるの?)
必死に耳を澄ませてみるけれど、相変わらず水の中にいるみたいに、会話はこもった音として届くだけ。何を言っているのか、どうしても理解できなかった。
「…?…か…お…ら」
ポキポキと指を鳴らしながら髪を結った男が歩み寄る。
その圧に押され八人はジリジリと後ろへ下がって行く。
「……玉梓の……じゃ……な……」
(玉梓……?)
なぜか、その言葉だけは不思議とはっきり聞こえた。
周囲の雑音も、鬼たちの威圧的な唸り声も、遠くで響く風の音も。すべてが深い水底に沈んだように消え去った。
真空になったような静寂の中で、その四文字だけが、私の脳裏に鮮やかな色彩を伴って浮かび上がる。
聞いたこともないはずの名前。なのに、それを耳にした瞬間、とろけるような母親の腕の中にいるような心地よさと幸福感が胸の奥から溢れ出してきた。
けれど、その直後。
抗いようのないほど甘美なその感情に、
弥信は心臓が凍りつくような恐ろしさを覚えた。
「……しら……ただじゃ……」
「酒呑童子」
その時、霧の向こうから、今度は鈴を転がすような、清らかな声が聞こえてきた。
ぼやける視界の先に白い小袖に薄紅の袴を纏った女性が、しずしずと、音もなくこちらへ歩み寄ってくる。
「茨木童子も。何を騒いでいるのです?」
女性は二人の傍まで歩み寄ると、腰に手を当てて、呆れたように彼らを見据えた。
その凛とした立ち振る舞いには、荒々しい鬼たちをたった一言で鎮めてしまうような、不思議な威厳が宿っている。
「すみません、伏姫様。怪しい者が紛れ込んでまして」
酒呑童子、茨木童子……そう呼ばれた二人の男は、女性の前に迷いなく膝をつき、深く頭を垂れた。
伏姫は二人の前へ歩み出ると、一瞬だけ困ったように眉を寄せた。
そして、彼女の瞳が、一人、また一人と八人の姿をなぞるように動き――次第にその表情から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「……その玉……」
伏姫の視線は、礼夏の手の中で淡く光る玉に吸い寄せられ、釘付けになった。
「あなたたち……! その玉は、一体どこで手に入れたのですか?!」
それまでの穏やかさが嘘のような、伏姫の切迫した声に八人は思わず顔を見合わせた。
「それは……」
誰かが、重い口を開いた。今の弥信にはその声が誰のものか判別できないけれど、自分たちが白い犬に導かれ、命からがらここへ辿り着いた経緯が、断片的な言葉となって聞こえてくる。
「そう……八房が……」
すべてを聞き終えた伏姫がぽつりと呟き、鏡の方へと不安げな視線を向ける。
「無事だといいのだけれど……」
「まぁ、八房さんのことだ。きっと、うまくやってますよ」
そう言って、髪を後ろで結った男――酒呑童子が、ニカッと白い歯を見せて屈託のない笑顔を向けた。
「それよりも、まずはこちらですね」
細身の男――茨木童子が、八人へと視線を向ける。
「そうですね。まずは――そちらのお嬢さんの治療を」
伏姫様が静かに頷き、義翔の腕の中にいる弥信を見つめた。
ふいに、伏姫様とはっきりと視線が合った。伏姫は不安に震える弥信を安心させるように、ふわりと慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
(綺麗な人だな…)
伏姫様の優しい微笑みを見ていると、凍りついていた心の中が、少しだけ解れていくような気がした。
つられるように、弥信も、精一杯のぎこちない笑みを返した。
「酒呑童子。その子をアマビエさんのところへ連れて行ってあげて」
「承知」
酒呑童子は短く応じると、迷いのない足取りで義翔の前まで歩み寄ってきた。
義翔の腕に抱かれた弥信を、彼は屈み込んでそっと覗き込む。
「辛かったな。今、楽にしてやるからな」
「楽にしてって、お前、何するつもりだ!」
血相を変えて声を荒らげる義翔は手を握り酒呑童子に詰め寄る。
「いや! 違う! そういう意味じゃねぇ、誤解だ!」
酒呑童子は鋭く尖っていたはずの金色の瞳を、今は捨てられた子犬のように丸くして、大きな両手をぶんぶんと左右に振り回しながら後ずさりし大きな両手をぶんぶんと振って否定する。
けれどその直後。茨木童子がツカツカと迷いなく歩み寄り、酒呑童子の頭に遠慮なく拳を落とした。
「ゴツン!」と鈍い音が境内に響く。
「いてっ!」
頭を押さえて恨めしそうに見上げる酒呑童子。その姿は、さっきまでの恐ろしい鬼の面影は、どこにもなく弥信にはまるで、兄貴に怒られて拗ねている少年のように見えた。
「申し訳ない。コイツは、どうにも言葉が足りなくてな」
呆れたように溜息をついてから、茨木童子は義翔へと向き直った。
「アマビエさんの治療なら、その子を治せるかもしれない。不安なら……ついてきても構わないが、どうする?」
「でしたら……私が弥信についていきます」
真っ先に忠穂が、決然とした表情で一歩前に出た。
「なら、僕も行くよ。女の子二人きりにさせるのは、何かあった時に心配だからね」
悌もそれに続いて、安心させるように僕らを見つめながら手を挙げた。
「わかりました」
伏姫様は静かに頷くと、優しく微笑んで言葉を継いだ。
「では、残る皆さんはこちらへ」
伏姫様に促され、八人はは一度だけ、互いの顔を見合わせた。
そして力強く頷き合い、それぞれ伏姫様の示す方向へと歩き出した。
遠ざかっていくみんなの足音が、霧の中に溶けていく。
「よし。じゃあ、お嬢ちゃん。ちょっと揺れるが我慢してな」
酒呑童子の低く野太い声が頭の上から降ってくる。
次の瞬間、私の体はふわりと宙に浮き、大きな、けれど驚くほど安定した腕に横抱きにされ歩きはじめた。
「……信、弥信。大丈夫だからね。頑張って」
隣を歩く忠穂が、弥信の手をそっと握ったのが分かった。ゆっくり瞼を上げると、涙を浮かべた忠穂がこちらを見ていた。
(もー、忠穂がそんな顔しなくてもいいのに)
弥信は弱々しく笑うと腕を上げようとするが、上手く力が入らない。
そこで初めて、自分がもう指一本動かせないほど疲れ果てていたことに気づく。
(あぁ…私…死んじゃうのかな)
運ばれていく視界の隅で、空に浮かぶまだやせ細った月に目が行く。
(綺麗だなぁ…あっ、お母さんに連絡しないと…心配させちゃう。でも…すごく…眠いや…)
意識が、急速に遠のいていく。
重たくなった瞼を閉じる間際、最後に聞こえたのは、誰かが弥信の名前を呼ぶ、優しい声だった。
深い、深い闇の底へ。
私はそのまま、吸い込まれるように眠りに落ちた。




