第8話
「……はぁ、はぁ……。終わった……。生きて帰還したぞ……」
配信終了のボタンを押した瞬間、私は魂が抜けたように椅子の背もたれに沈み込んだ。
今日の配信は、私のVtuber人生の中で最もカロリーを消費した一時間だった。数学の計算ミス一つで、ここまで寿命が縮むとは思わなかった。
ふと、サブモニターを見る。
Discordの通話は、いつの間にか切断されていた。
メッセージが一通だけ残っている。
『ベランダで待つ』
短文。
まるで果たし状だ。
私は重い腰を上げ、冷蔵庫から飲みかけのコーラを取り出すと、戦場(PC前)を後にしてベランダへと向かった。
窓を開けると、春の夜風が火照った頬を撫でる。
隣の202号室のベランダには、すでに白崎がいた。
手すりに肘をつき、夜空を見上げている。部屋着のパーカーに、銀縁眼鏡。手にはコンビニのプラスチックスプーンと、プリンの容器が二つ。
「……お疲れ様、インテリ魔王さま」
私が来たことに気づくと、彼女はクスクスと笑いながら振り返った。
「うっさい。笑うな。あれは高度なエンターテインメントだ」
「はいはい。計算ミスを『魔界の数学』で押し通すなんて、あんた以外にできないわよ。……ほら、これ」
白崎は持っていたプリンの一つを、ひょいと差し出した。
『なめらかカスタードプリン(150円)』。私の好物だ。
「……約束の報酬よ。よく頑張りました」
「……ふん。別に、頑張ってなどいないがな」
私は憎まれ口を叩きつつ、それを受け取った。
容器が冷たくて心地よい。
ペリペリと蓋を開け、スプーンですくって一口食べる。……甘い。脳みそに糖分が染み渡るようだ。
隣では、白崎もプリンを食べている。
一口食べるごとに、彼女は幸せそうに目を細める。
その横顔を見ていたら、急に胸の奥がチクリとした。
(……結局、助けられてばかりだな、私は)
今日の配信も、白崎がいなければ大炎上していたかもしれない。
テスト勉強も、ノート作りも、肉じゃがも。
私は彼女に、何か返せているだろうか?
プリンを奢ってもらうだけじゃ、魔王のプライドが許さない。
礼くらい、言わなければ。
「ありがとう」と。
「……おい、白崎」
「ん?」
彼女がこちらを向く。
その真っ直ぐな瞳に見つめられると、途端に言葉が喉に詰まった。
「ありがとう」の五文字が、重すぎて出てこない。
「あー……その……なんだ」
「なに? 改まって」
「……う、うまいな、このプリン」
「でしょ? コンビニスイーツ馬鹿にできないわよね」
違う。言いたいのはそれじゃない。
私は焦った。このままでは、ただ餌付けされただけのペットになってしまう。
何か。何か私からも、感謝の気持ちを形にして返さねば。
私はポケットの中を探った。
指先に触れたのは、さっき配信中に糖分補給用として持ってきた、箱入りのチョコレート菓子――『ポッキー(極細)』の残りだ。
これしかない。
「……おい。口を開けろ」
「え?」
「いいから開けろ!」
私は半ば強引に言って、ポッキーを一本取り出した。
そして、ベランダの仕切り越しに、身を乗り出す。
「魔王からの褒美だ! 貴様の働き、悪くなかったぞ!」
顔が熱い。
何が褒美だ。何様だ私は。
でも、こうでもしないと渡せないのだ。
白崎は目を丸くして、私の手にある細いチョコレートの棒を見つめた。
そして、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「……ふふ。じゃあ、いただきます」
彼女は少し背伸びをして、私の手から逃げることなく、素直に口を開いた。
薄い唇が少し開く。
私は震える指先で、ポッキーの先端を彼女の口へと運んだ。
――あーん。
サクッ、という軽快な音が、夜の静寂に響く。
彼女がポッキーを齧り取る感触が、指先を通じて伝わってきた。
まるで指を噛まれたかのように、心臓が跳ねる。
「……うん。おいしい」
白崎は口元のチョコを舐めとりながら、眼鏡の奥の瞳を細めた。
その表情が、さっきプリンを食べた時よりも、ずっと甘くて、無防備に見えた。
「……あ、当たり前だ! カカオ60%の高級品だからな!」
私は慌てて手を引っ込め、残ったポッキーの軸を自分の口に放り込んだ。
味がしない。
心臓の音がうるさすぎて、味覚が麻痺している。
「ありがとう、ベルちゃん」
不意に、彼女が言った。
それはポッキーへの礼なのか、それとも。
「……ふん。勘違いするな。余り物を処理しただけだ」
私は夜空を見上げて、熱くなった顔を隠した。
月が綺麗だ。
……ちくしょう。
プリンの甘さと、ポッキーのほろ苦さが、口の中で混ざり合っていた。




