第7話
沈黙。
配信において、それは死を意味する。
私の安物のヘッドセットからは、サーッというホワイトノイズだけが虚しく響いている。
頼みの綱であるサブモニターのDiscord画面は、『入力中...』の表示が出たり消えたりを繰り返すばかりで、肝心の答えが一向に送られてこない。
(おい白崎ぃぃぃぃぃ! まだか! まだ計算終わらんのか!?)
私は内心で絶叫しながら、必死に表情筋を固定していた。
画面上のアバター『夜魔乃ベル』は不敵な笑みを浮かべているが、中身の黒井ヤミは冷や汗で溺れかけている。脇汗が滝のようだ。
コメント欄の空気が、徐々に変わり始めていた。
『あれ? ベル様?』
『フリーズした?』
『回線落ちか?』
『いや、BGMは流れてる』
『もしかして……解けない?』
疑念の種が芽吹き始めている。
まずい。非常にまずい。
さっきまで「IQ5000の天才魔王」という設定(嘘)でイキり散らかしていたのだ。ここで「やっぱ分かりませーんw」などと降参すれば、ただのバカに戻るだけでは済まない。
「カンニング疑惑」が浮上し、炎上し、特定班が動き出し、私の高校生活が終わる未来が見える。
隣の部屋からは、未だに「カリカリカリカリッ!」という鉛筆の音が聞こえてくる。
壁の薄さが恨めしい。その音は「頑張ってる音」ではなく、今の私には「死へのカウントダウン」にしか聞こえなかった。
(くそっ、もう待てん! これ以上黙っていたら放送事故だ!)
私は覚悟を決めた。
白崎の答えを待つのではない。
自力で解く。
私は震える手でマウスを握りしめ、画面上のホワイトボード機能を開いた。
「ふ、ふん……。遅い、遅いぞ人間ども。まだ答えが出ないのか?」
声が裏返りそうになるのを、魔王の演技で無理やりねじ伏せる。
「貴様らの計算速度があまりに遅いゆえ、我が思考回路もスリープモードに入るところであったわ。……いいだろう。この私が、直々に慈悲深い解説をしてやろうではないか!」
言っちまった。
もう後戻りはできない。
私は画面に表示された問題文を睨みつけた。
『Q.次の式を展開せよ: (x−5)²
展開。てんかい。
聞いたことはある。確か、括弧を外してバラバラにするやつだ。
私は記憶の彼方にある、中学時代の数学の授業風景を必死に掘り起こした。
(えーと、なんだっけ。公式……公式……。あーもう、思い出せん!)
だが、ここで止まるわけにはいかない。
私はマウスを動かし、画面に殴り書きを始めた。
「いいか、よく見よ! これは『分配の法則』という、魔界でも初等教育で習う基礎魔法だ!」
私はもっともらしい言葉を並べ立てる。
「まず、この先頭のxだ。これは孤独な魂だ。だから二乗されて強くなる。つまりx²だ!」
マウスで『x²』と書く。字が汚いが、それは「天才特有の悪筆」ということにしよう。
コメント欄が『おお』『解説始まった』と反応する。よし、掴みはいい。
「次に、後ろの数字だ。ここには『−5』という闇の数字が刻まれている。
展開とはすなわち、この闇を解き放つこと……。
つまり、この『−5』と先頭の『x』を掛け合わせ、さらに二倍の魔力を注ぎ込む!」
−5 × x で−5x。
それを二倍して−10x
よし、合ってるはずだ。ここまでは順調だ。
「よって、真ん中は−10xとなる! どうだ、ついて来れているか?」
『なるほど』
『説明が独特すぎるw』
『合ってはいる』
『魔王式数学塾』
いける。私、実は天才なんじゃないか?
この調子なら最後までいける!
残るは最後のパーツ。括弧の後ろにある『−5』の処理だ。
(えーと、最後は確か、後ろの数字を二乗するんだったよな)
−5の二乗。
つまり、−5×−5
ごご、二十五。数字は25だ。
問題は符号だ。
プラスか、マイナスか。
私の中で、魔王としての直感が囁いた。
――マイナスとマイナスだぞ?
闇と闇が合わさるんだ。より深い闇になるに決まっているだろう!
借金に借金を重ねて資産が増えるわけがないのと同じ理屈だ!
「そして最後! ここが愚かな人間どもが最も間違えやすい落とし穴だ!」
私は声を張り上げた。勝利を確信した将軍のように。
「マイナス5とマイナス5を掛け合わせる……。闇と闇が交錯し、その深淵はより深くなる! すなわち! 答えはマイナス25だ!!」
私はドヤ顔で、画面にデカデカと答えを書いた。
答え: x²−10x−25
「どうだッ!! これぞ魔王の完璧なる解答! ひれ伏せ!!」
書ききった。
やりきった。
私はマウスから手を離し、勝ち誇った顔でコーラを一口飲んだ。
完璧なロジック。流れるような解説。
これで「インテリ魔王」の称号は私のもの――
……ん?
コメント欄の動きが、ピタリと止まった。
流れるような弾幕が消え、不気味な静寂が訪れる。
そして、ポツリ、ポツリと、困惑したコメントが流れ始めた。
『あれ?』
『ん?』
『ベル様?』
『マイナス×マイナスは……』
『プラスだよね?』
『−25……?』
『最後だけ盛大に間違ってて草』
『嘘だろwww』
『そこまで完璧だったのになんで最後で死ぬのw』
――は?
私はコーラを吹き出しそうになった。
え、違うの?
マイナスとマイナスでプラス?
なんで? 敵の敵は味方理論? いやいや、数学の世界そんな甘くないでしょ。
だが、コメントは容赦なく私のミスを指摘してくる。
『中学一年生からやり直せ』
『符号ミスは恥ずかしい』
『画竜点睛を欠くとはこのこと』
『凡ミス界の王』
『ポンコツ魔王、ここに復活』
血の気が引いた。
完璧に演じきったと思っていたのに、最後の最後で、小学生レベルの計算ミス(符号の間違い)をやらかしたのか、私は。
その時。
ピロン♪ とDiscordの通知音が鳴った。
恐る恐るサブモニターを見ると、白崎からのメッセージが届いていた。
『答え: x²−10x+25
あんたバカ? マイナスかけるマイナスはプラスに決まってるでしょ。配信見て頭抱えたわ。何が「深淵はより深くなる」よ。中二病も休み休み言いなさい』
辛辣ゥー!!
そして答えが届くのが遅い! あと三十秒早ければ!
しかし、今の私は配信中だ。
ここで「あっ、間違えちゃった、てへぺろ」なんて言えるわけがない。
魔王に「ミス」という概念はないのだ。
あるのは「計算通り」のみ!
私は震える唇を無理やり吊り上げ、引きつった笑顔でマイクに向かって叫んだ。
「……くっ、くくく……。ふははははは!!」
『笑ってごまかした』
『壊れた?』
「バカめ! 貴様ら、まんまと引っかかったな!」
私は机をバンと叩き、立ち上がらんばかりの勢いで捲し立てた。
「私が本気で間違えたとでも思ったか? これはテストだ! 貴様らが私の講義をちゃんと聞いているか、思考停止して鵜呑みにしていないか、試したのだ!」
苦しい。
自分でも分かるほどに苦しい言い訳だ。
だが、止まれない。ブレーキの壊れたダンプカーのように突き進むしかない。
「人間界の数学ではプラスになるかもしれん。だが! 魔界の数学においては、負の感情と負の感情が交われば、より強大な負のエネルギーが生まれるのだ! 私はあえて『魔界式の正解』を書くことで、貴様らに文化の違いを問いかけたのだよ!!」
ゼェ、ゼェ……。
息切れするほど早口で言い切った。
どうだ。これでなんとか煙に負けただろうか。
コメント欄を見る。
『あ、はい』
『なるほど(棒)』
『苦しすぎて草』
『涙拭けよ魔王』
『逆ギレかわヨ』
『必死な言い訳てぇてぇ』
『許した』
……許された。
呆れ半分、憐れみ半分だが、なんとか「ネタ」として消化されたようだ。
Vtuberのリスナーというのは、時として海のように心が広い。あるいは、ポンコツに慣れすぎているだけかもしれないが。
私は椅子に深く沈み込み、魂が抜けたような溜め息をついた。
心臓が痛い。寿命が三年縮んだ気がする。
そして、サブモニターのチャット画面には、白崎から新たなメッセージが届いていた。
『ナイスリカバリー(笑)。
あとで解説してあげるから、終わったらベランダ集合ね。
プリン余ってるからあげる』
……くそっ。
結局、また餌付けされるのか、私は。
けれど、その文字列を見た瞬間、張り詰めていた緊張の糸がふっと緩むのを、私は確かに感じていた。




