第5話
そして放課後。
私の机の上には、一枚の紙切れが鎮座していた。
それはまるで、魔界の契約書よりも恐ろしく、勇者の聖剣よりも鋭く、私の精神を抉るものだった。
「……嘘だろ」
現代文、小テスト。
右上に赤ペンで書かれた数字は――『4』。
40点ではない。4点だ。
「黒井。お前、このままだと中間テストで赤点確定だぞ」
担任の教師が、死刑宣告のように告げる。
「赤点を取ったら、土曜日は強制補習だからな。覚悟しておけよ」
その言葉を聞いた瞬間、私の顔から血の気が引いた。
土曜日。
それは、ただの休日ではない。
Vtuber『夜魔乃ベル』と『天聖セラ』による、大型コラボ企画『地獄の耐久配信』が予定されている日だ!
(ま、まずい……! 補習なんて受けてたら配信に間に合わない! ドタキャンなんてしたら、また「ポンコツ魔王」の汚名が……いや、炎上不可避だ!)
私が頭を抱えてプルプル震えていると、横から白い手が伸びてきた。
隣の席の白崎だ。彼女は私の答案用紙をひょいと取り上げると、その『4』という数字をまじまじと見つめた。
「……ある意味、才能ね。四択問題でも、鉛筆転がせばもう少しまともな点数とれるわよ」
「う、うるさい! 魔界の文字と人間界の文字は体系が違うんだ! 漢字が読めないのはバグだ!」
「『憂鬱』を『ぬるぽ』って読むバグがどこにあるのよ」
白崎は呆れたように答案用紙を私に返すと、周囲に聞こえないよう、声を潜めて言った。
「……今日の放課後、空いてるわよね」
「あ? いや、私はこれから帰ってエゴサをするという重要な任務が……」
「却下。エゴサしてる暇があったら漢字の一つでも覚えなさい」
彼女の瞳が、キラーンと冷たく光った。
それはクラス委員長の目ではなく、パーティメンバーのステータス管理を徹底する「勇者」の目だった。
「いい? 土曜日のコラボ、私も楽しみにしてるんだから。あんたの補習ごときで潰されたらたまらないわ」
「うぐっ……」
「放課後、ベランダからうちに来なさい。みっちり叩き込んであげるから」
拒否権はなかった。
こうして私は、宿敵である勇者のアジト(部屋)へ、捕虜として連行されることになったのである。
夕方。
私は自分の部屋の窓からベランダに出て、忍者のように身を屈めた。
隣の202号室との仕切りは壊れているため、跨げばすぐに侵入できる。便利だが、防犯意識はどうなっているんだこのアパート。
コンコン、と202号室の窓を叩く。
「……開いてるわよ」
中から声がして、私は恐る恐る窓を開けた。
足を踏み入れた瞬間――。
「……っ、いい匂い」
思わず声が出た。
私の部屋が「カップ麺と湿布の入り混じった生活臭」だとするなら、白崎の部屋は「お花畑の香り」がした。柔軟剤だろうか、それともルームフレグランスだろうか。
魔族には刺激が強すぎる「女子力」の香りだ。
「いらっしゃい、ベルちゃん。土足厳禁よ」
部屋の中央にあるローテーブルの前で、白崎が待っていた。
制服のリボンを外し、少しラフな格好になっている。そして鼻には、銀縁の眼鏡。
……眼鏡!?
「お、お前、眼鏡……」
「ん? ああ、コンタクト外しただけ。家ではいつもこうなの。……変?」
「い、いや。……意外と、似合ってるんじゃないか。知的な感じで」
「あらそう。お世辞言っても点数は上がらないわよ」
白崎はふふんと笑って眼鏡の位置を直した。
悔しいが、可愛い。
『天聖セラ』の清楚アバターもいいが、このオフ感満載の『白崎ヒカリ』も破壊力が高い。私は動揺を悟られないよう、ドカッと座布団に座った。
部屋の中を見渡す。
パステルカラーで統一されたインテリア。本棚には参考書と漫画が綺麗に整頓されている。
そしてベッドの上には、少し大きめのクマのぬいぐるみが置かれていた。
「……おい。なんだあのファンシーな熊は」
「なっ、み、見ないでよ! あれは……その、魔除けよ! 私がホラー苦手だから置いてる守り神なの!」
「ほう……勇者が熊に守られているとはな。ふっ、弱点発見」
「うっさい! ほら、さっさと教科書開く!」
バシン! と机を叩かれ、スパルタ勉強会が始まった。
だが、集中できるわけがなかった。
狭いローテーブルに向かい合って座っているため、距離が近い。
私が問題を解いている間、白崎が横から覗き込んでくるのだが、そのたびにフワッといい匂いがするし、腕が当たりそうになる。
「……ねえ、ここ。『躊躇』って漢字、書き順違うわよ」
「あーもう、細かいな! 読めればいいだろ!」
「ダメ。テストは記述式なんだから。ほら、貸して」
白崎の手が伸びてきて、私の手ごとシャープペンシルを握った。
「えっ」
「こう書くの。いとへん、足、ふるどり……」
彼女の体温が、手の甲から伝わってくる。
サラサラの髪が私の頬をくすぐる。
心臓が早鐘を打ち始めた。これは魔力の暴走か? いや、不整脈か?
「……聞いてる、ベルちゃん?」
「き、聞いてる! 聞いてるから離れろ! 熱い!」
「あ、ごめん。……顔、赤くない?」
「うっさい! 部屋の暖房が効きすぎなんだよ!」
私は顔を背けて誤魔化した。
白崎はキョトンとしていたが、すぐにイタズラっぽく笑った。
「ふーん? 魔王様は暑がりなんですねぇ。……じゃあ、休憩がてらアイスでも食べる?」
「……食べる」
即答だった。
こうして私は、テスト勉強という名目で、勇者の部屋で甘いものを食べさせられるという、屈辱的かつ幸福な時間を過ごすことになったのだった。




