一話「珈琲の香り、静けさの中に」
第一話では、引退後の主人公・朝倉蓮の平穏な日常と、彼を取り巻く人物たちを描いていきます。
血の匂いのしない生活。だけど、そんな静けさの中にも、どこか影が忍び寄る。
そんな雰囲気を感じ取っていただければ嬉しいです。
「マスター、今日も良い香りですね」
そう言ってカウンターに腰掛けたのは、店の常連でありバイトでもある大学生の篠原芹菜だった。
蓮は無言で珈琲を淹れ続ける。ポットの中でふつふつと泡立つ豆の音と、湯気に乗った香ばしい香りが店内に満ちていく。
「奥さんは、今日は?」
「買い出しだ。昼には戻る」
そう短く答えた蓮に、芹菜は「そっか」と笑った。
彼女はこの喫茶店が好きだった。マスターの無愛想さも、静かな雰囲気も。何より、淹れてもらう珈琲の味が、どこのカフェよりも美味しいと感じていた。
「マスターって、なんでこんなに珈琲上手なんです?」
「昔、時間が余ってた頃に覚えた」
「えー、もっとドラマチックなの期待してたのに」
芹菜がそう言って頬を膨らませる。
だが蓮の表情は変わらない。ただ、静かに一言。
「時間が余るのは、誰かの命を奪った後だ」
芹菜は一瞬ぽかんとしたが、すぐに「あ、冗談ですね!」と笑った。
蓮は何も言わず、珈琲カップを差し出す。その表情は無機質にすら見えたが、芹菜は気づいていなかった。
その言葉が、冗談でも何でもないことに。
──朝倉蓮。
かつて「白刃の蓮」と恐れられた殺し屋。
音もなく命を刈り取るその技は、今はもう封じた。
もう誰も殺さない。ただ、妻とこの店を守るために生きる。
それだけで、十分だった。
「マスター、ここのお店って本当に落ち着きますね。ずっと続いてほしいなぁ」
「そうだな」
蓮はそう呟いたが、その胸の内には、何か僅かな棘のような違和感が刺さっていた。
最近、誰かの視線を感じる。
夜、店を閉めた後、帰り道の静けさの中に、誰かが潜んでいるような感覚。
──気のせいだろうか。
そう思いながらも、身体は正直だった。
夜ごとに、使うこともなくなったはずのナイフの素振りを繰り返している自分がいた。
「マスター、また無愛想な顔して。たまには笑ってくださいよ」
「努力する」
無表情のままそう返すと、芹菜は「それ絶対しないやつだ」とふてくされ、カップに口をつけた。
店のドアが開き、カランとベルが鳴る。
来客だ。
蓮は視線を上げた。
そこには、馴染みのある顔──古書店の主・槙島陽司が立っていた。
「よう、蓮。珈琲と、ウイスキー。二つともな」
「昼間からか」
「昼間からじゃなきゃ、夜が怖くて眠れん」
そう言って笑う槙島の顔に、珍しく**翳**が差しているように見えた。
蓮は静かに珈琲を淹れながら思う。
──また、何かが動き始めている。
だが、まだそれが何なのか、掴めずにいた。
「変わらんな、お前は。白刃の蓮だってのに、こうして珈琲屋か」
「そうだな。お前は、まだ情報屋気分が抜けてないようだが」
「昔取った杵柄ってやつだよ」
二人の会話を、芹菜は意味も分からず微笑んで聞いていた。
だがその笑顔も、いつまで続くだろうか。
蓮はカウンターにウイスキーのグラスを置きながら、そう感じていた。
やはり、平穏など夢に過ぎないのかもしれない、と。
お読みいただきありがとうございます、小鳥遊です。
今回は、蓮の日常と、喫茶店の雰囲気を感じてもらえるよう意識しました。
まだ何も起きていない。ただ、それでもどこか影が差し込むような感覚を伝えられたなら嬉しいです。
次回、また少しずつ「裏の気配」が見え始めます。
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次回もよろしくお願いします。




