過去の影、欺きの魔法
塔に静寂が満ちていた。
カイルが寝室へ戻った後も、リオナは一人、魔術研究室の机に向かっていた。
だが、いつものようには集中できなかった。
紙の上に描かれた術式は、どれも途中で止まり、言葉にならぬ感情だけが胸にうず巻く。
(――どうして、こんなにも惹かれるのだろう)
知性では説明できない。
理屈も論理も通用しない感情。
それはリオナにとって、もっとも厄介で扱いづらい“未知の魔法”だった。
だがその頃、カイルもまた、眠れぬ夜を過ごしていた。
塔の一室、窓から差し込む月明かりの下。
カイルはひとり、古びた革袋を開ける。中に仕込まれていたのは、小さな水晶と、数枚の符文、そして封印された魔術媒体。
(まだここにいるべきじゃなかった)
リオナの魔力分析装置も、結界術も、塔にある貴重な研究成果も、すべて狙っていた。
彼は詐欺師であり、魔術騙しの技術を使う裏稼業の男だった。
その目的で塔に近づき、絆の糸も“偽造”する魔術を――使ったはずだった。
だが。
「……見えたんだ、あの糸」
本当に、見えてしまった。
自分とリオナの間に、あんなにもはっきりと、淡く、美しい糸が。
それが本物であるはずがない。
いや、あってはいけない。
彼の人生は、そんな奇跡に報いられるようにはできていない。
しかし――心は、既に彼女に傾き始めていた。
心の奥で、それを必死に否定しようとしても。
「……俺は、“カイル”ですらないのに」
彼の本名を知る者は、もうこの世にほとんどいない。
孤児として育ち、詐術と魔術で生き延び、他人の名と顔で金を奪い続けてきた。
信じるものなど、何もなかった。
なのに。
(この女は――)
リオナは、真っ直ぐに彼を見る。
疑いも、打算もなく、あの眼差しで“信じて”しまう。
その純粋さが、何より怖かった。
数日後――
リオナは古い魔術書の中に、見覚えのある記述を見つけた。
「擬似絆糸魔術」
古代に使われた、絆の糸を“見せかける”禁術。
魔力と情動を巧妙に利用し、月鏡を偽装する。
(まさか……)
リオナの背筋に、薄い寒気が走る。
本物だったと信じたい気持ち。
だが、魔術士としての理性が、それを許さなかった。
彼女は塔の封印区画へと足を運び、密かにカイルの魔力痕跡を検査する。
そして――
出た、反応。
わずかだが、たしかに擬似絆糸魔術と酷似した痕跡が。
「……っ」
手が震える。
涙は出ない。ただ、静かに、深く、心が沈んでいく。
(私の“運命”は、また……偽物だったの?)
だがそれでも、リオナはまだ“完全には信じ切れなかった”。
彼の言葉、あの微笑み、そして夜空の下に交わした会話――
(あれまでも、嘘だったのなら……)
この胸の痛みは、いったい何に騙されているのだろう。
カイルがまだ眠る早朝。
リオナは静かに彼の部屋の扉を見つめていた。
開けて、問いただすこともできた。
すべてを終わらせることもできた。
だがその手は、扉に触れぬまま、震えながら下りていった。
「今だけは……まだ、嘘のままでいい」
心に宿った灯が、仮初めと知りながらも――
消すには、あまりにも優しすぎた。