偽りの絆、月の糸
翌朝、塔の周囲には朝霧が立ち込めていた。
森の木々が白い霞の中に沈み、世界そのものがぼやけて見える。
だが、塔の中では一つの輪郭が、次第に明瞭になりつつあった。
「この魔術、俺でも使えるんですか?」
カイルが手にしているのは、リオナがかつて学生向けに書き下ろした簡易魔術の書。
彼は昨夜の礼にと、塔の掃除や簡単な手伝いを申し出たかと思えば、あれこれと魔術について質問を投げかけてきた。
「適性がなければ火花一つも出ませんが……興味があるのですか?」
リオナは半ばあきれ、半ば興味深げにカイルの様子を観察していた。
彼は一見、学問に縁のない放浪者のようでいて、妙に理屈に鋭い。
ただの田舎者にはない「応用力」を持っている。
「火花が出なくても、言葉が好きなんです。魔術って、詩に似てる」
カイルはそう言って笑った。
その笑みはやわらかく、まるで心の壁を壊す術を心得ているかのようだった。
リオナはほんの一瞬、魔術士の仮面を緩めた。
「……あなた、旅人にしては言葉が整いすぎてる」
「そうですか? 褒め言葉として受け取っていい?」
リオナは答えず、そっと窓の外を見た。
今夜もまた満月――《月鏡》が空に昇る夜だった。
リオナはカイルに促され、久しぶりに月鏡の観察を行うことにした。
塔の屋上、夜風にさらされた小さな天文台。
その中央に据えられた古の銀製の皿が、月の光を集め、やがて空間に光の「鏡」を生む。
ゆらり、と銀色の水面が揺れ、鏡が開く。
そこに――現れたのは、一本の糸。
「……っ」
リオナは目を疑った。
はっきりと、自分の胸元から空へと伸びる、淡い金色の糸が見えたのだ。
それが向かっていた先――
「……カイル」
彼の方へと、その糸はつながっていた。
静寂。
誰も何も言わなかった。
やがて、カイルがその糸を見上げながら、低く呟く。
「……まさか、こんなに綺麗に見えるとは。嘘みたいだ」
リオナは言葉を失っていた。
これが本物なのか?
数年、いや十数年ぶりに現れた“絆の糸”が、こんな一夜で結ばれるなどということがあるのか?
それとも――これは偽りなのか。
「本当に……見えてるの?」
「ええ。たしかに、俺にも」
嘘か、真か。
リオナはわからなかった。
だが、その瞬間、彼の顔に浮かんだ表情――それは、偽る者には出せない、どこか戸惑いに似た驚きだった。
そして、カイル自身もまた、困惑していた。
(こんなはずじゃなかった)
これは、ほんの遊びのはずだった。
適当に取り入って、適当に去る。
そういう“仕事”だった。
だが、月鏡は映した。
自分と、リオナとの間に、本物と見まごう“絆”を――
これは嘘か、あるいは…本当になりかけている嘘なのか。
二人の間に横たわる光の糸は、静かに、しかし確かに、揺れていた。