名乗られざる男、カイルの微笑
塔の重厚な扉を開けた瞬間、冷たい夜風がリオナの頬を撫でた。
外には、月光に照らされて佇むひとりの男がいた。
「こんな時間に…どういったご用件でしょう?」
リオナの声は落ち着いていたが、その眼差しは鋭く、来訪者を見逃さぬように観察していた。
男は笑った。
まるで何でもないように、初対面の魔術士に微笑みを向けて。
「夜分遅くにすみません、お嬢さん。道に迷いましてね……。明かりが見えたので、頼らせていただきました」
その声は低く、けれど妙に心地よく響いた。
年の頃はリオナとさほど変わらないか、やや年下。
旅装に身を包み、肩には小さな革の鞄。粗末ではないが、裕福そうでもない。
だが――その顔だけは、異様なほど整っていた。
整いすぎている。
「旅人…ですか?」
「はい、王都の方から来ました。見ての通り、あまり計画的ではなくて」
そのとき、男はふと目を細めて言った。
「あなたが、この塔の主ですか?」
「そうです。リオナ・フェルテ。魔術士です」
リオナは警戒を緩めぬまま、簡潔に名乗った。だが、男はその名に反応し、驚いたように口を開けた。
「……あの、“エーテル分解理論”の? 『時間と記憶の重ね書き』の?」
「そうですが……学術誌を読んで?」
「いえ、学があるわけじゃないんですが、街で話を聞きまして。美しい塔に住む才女魔術士がいるって。まさか本当だったとは」
リオナは、少しだけ眉をひそめた。
その言葉は、褒め言葉のようでありながら、何かを探るような匂いもした。
「泊まれるような部屋はありませんが、応急的な魔法のシェルターなら用意できます。明日の朝までなら、どうぞ」
男は恭しく頭を下げた。
「それだけで十分です。ありがとうございます、リオナ様」
リオナは扉を閉じながら、ちらりと男の横顔を見た。
――なぜ、あなたは偽らないの?
そんな感覚がした。
魔術士として、長年多くの者と接してきた直感が、警鐘を鳴らす。
だが、それ以上に彼の笑みに“何か”を感じ取っていた。
純粋でもない。
誠実でもない。
それでも、どこか――悲しみを隠す人間だけが持つ、微笑みだった。
「ところで……名を聞いていませんでしたね」
階段を上る途中、リオナが振り返る。
男はその場で立ち止まり、僅かに笑った。
「カイル。カイルとだけ、名乗らせてください」
その名が本物でないことを、彼女はまだ知らなかった。
それでも――
この出会いが、リオナの心を静かに動かし始めていた。