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神さまのモラル

 男は歓喜した。

 八階建てのビルの屋上に仁王立ち、月のでていない闇の空へ差し伸ばされたその両手は、嬉しさのあまりに小刻みに震えている。

 男の見開いた両眼は、ぎらぎらとした欲望のために充血していた。

 彼の咆哮が、闇夜を裂いて静かな住宅街へと響き渡る。


 力と同時に、それに関する情報とルールが、男に与えられた。


「――おれを選んだとは、神は見る目があるようだ……」


 神からの贈りものとなる大量の知識が一気に脳内へと流れこみ、その内容をどうにか把握した男には、もう怖いものなどなかった。


「自分の中で最大値となった能力をさらに超える――上限突破には、同じようにその力を神から与えられた者から奪えばいいのか……。奪えば奪うほど能力が増える。能力を奪われた者は、その代償に感情がなくなり、鼓動を打つだけの人形に成りさがる……。それが、神が与えた唯一のルール」


 男が次にやるべきことは、すぐに決まった。

 いままで汗水流して働き、滲みこんだ汚れが落ちない指先をじっとみる。その手を、ぎゅっと握りしめた。


「――この力で、おれはこの世界を支配する。怖いものなどない。立ちはだかる能力者から、その力を奪えばいいだけのこと」


 どうにも抑えきれない悦びと狂気が、男を内側から駆りたてていく。


「そして、力を奪って、奪って、奪い尽くして! いままでおれを蔑んできたクソどもを見下してやる!」


 男は口をゆがめるように、にんまりと笑った。


「おれは人間の中で、もっとも神に近い王となってやる!」



 興奮冷めやらぬ男は、さっそく、与えられたばかりの能力を使ってみたくてたまらなくなる。


 鼻をうごめかした。

 ――いる。こんなにも近くに、同じ能力を有するものが。男と同じ、この世界の空気を吸って吐いて活動している。ここまで、力が放つ甘い匂いが漂ってくる。


 耳をそばだてた。

 ――いま、家屋の外にいて、わき目もふらずに歩いている。カツカツとたてる足音はハイヒール。だとすれば、先ほどの匂いといい、間違いなく女だ。


 その方向へ顔を向け、瞳を凝らした。

 ――見つけた。たった九十キロほど隔てた、こんな近くに手頃なターゲットが。髪の長い気の強そうな顔つきの、おれ好みの極上そうな女が!

 

「手はじめに、やわらかそうな子ヒツジからいただくとしようか」


 下卑た笑いを口もとへ刻みながらつぶやくと、男は舌舐めずりをした。

 そして、おもむろに八階建てのビルの屋上から、明らかに重力を無視した跳力で飛びあがる。


 そのまま男は舞うように、暗黒の夜空へ踊りでた。



     1



 一五〇度にオーブンが温まったことを確認したおれは、生地を流しこんだ直径十五センチのマンケ型を、湯を張った天板に乗せて放りこんだ。

 これで三十分ほど湯せん焼きすれば、いままでの経験上、完璧なカスタードプディングのできあがりとなる。

 満足気にうなずいたおれは、昨夜のうちに焼きあげていたバターケーキを取りだした。たちまち甘い香りが、周りの空間へフワリと広がる。


 オーソドックスなパウンド型のバターケーキはシンプルなだけに、味の差が大きくでる。おれの得意な焼きケーキだ。一日置いたほうが、生地が程よくなじみ、より美味となる。

 おれが、充分な食べ応えでありながら、なおかつフォークでカットすればひと口で食べられる絶妙な厚さに切りだすと、その様子に気づいたらしい千賀子ちかこが、おれの手もとへ視線を向けた気配がした。


 しめしめ。予想どおり。

 その瞳は、期待に満ちて輝いているはずだ。


「――ねえ、すばる。ケーキの端っこ、味見させてくれるの?」

「おう。もちろんだ」


 控えめな口調で問いかけられたおれは、視線をあげずに、だが口もとへ笑みを浮かべながら、千賀子へ返事をする。


「――やったぁ」


 不意打ちのような彼女の、小さくも華やかな声に、つい、おれは顔をあげてしまった。


 右手でフキンを握りしめた千賀子は、嬉しそうな表情のままで、目の前のテーブルの表面を磨いていた。もう、おれのほうを見ていない。

 慌てておれは、だが気取られないようになにげない動作で、手もとに視線を戻す。

 彼女の反応に――彼女の発する心地よい声が、耳朶を打つたびに一喜一憂しているなどとバレては、おれの格好がつかないじゃないか。

 ケーキのカットを再開しながら、おれは千賀子の様子を盗み見た。


 さっぱりとショートにカットされた黒髪に縁取られた小顔には、力強い光を宿した印象的な瞳と小さな鼻、形のよい唇がバランスよく配置されている。

 とくに、その桜色の唇から紡ぎだされる歌声は、人並み外れて甘美なものだった。

 知的な柳眉が物語るように、成績もトップクラスで人望も厚い。歌うこと以外は口下手で、それゆえとっつきにくい優等生の空気をまとった千賀子は、我が高校の生徒会副会長という肩書きを持っていた。


 日本の高校二年生になったばかりの女子としては、ほぼ平均的な身長だろう。しかし、体重は下回っていると思われるスレンダーな体躯だ。手足は長くしなやかで家系的に色白の肌をしており、見た目は華奢な印象を与えている。

 その細い身体で、千賀子は、誰もが想像できないほどの心を揺さぶるような声量を生みだすのだ。


 朝の千賀子は、あとはブレザーをはおるだけの高校指定の白い清楚なブラウスと、膝が隠れるくらいのチェック柄のひだスカートを身につけている。

 両そでをまくっているために、細く白い腕が、目が覚めたばかりのおれには、すこぶる眩しく映った。



 いま、おれたちはあずま千賀子の父親が経営する喫茶店にいた。

 父親が十時から開店できるようにと、朝の六時に鍵を開けた千賀子が、店内の床を掃除して、四人席のテーブルや椅子などを拭いている。そして、そんな千賀子のそばで、おれはスイーツとサラダの仕込みをやっていた。

 罰ゲームとかそんなものではなく、みずから進んでおれが手伝っているのだ。


 千賀子は校内きっての才色兼備といわれている。料理の腕も悪くない。

 だが、千賀子が掃除でおれがスイーツ担当という役割分担は、料理に関して、ただ単純におれのほうが得意というだけだ。

 幼馴染みであるおれたちは、中学に入ったころから、登校前の日課と化したこの時間を一緒に過ごしている。



 バターケーキを切り終わったあと、おれは、朝食の準備にとりかかった。

 隠し味にマヨネーズと粉チーズ、砂糖と塩をひとつまみ混ぜこんだスクランブルエッグを作り、色鮮やかな山盛り生野菜のそばに添える。

 近所のパン屋から届いたばかりのフランスパンを切ると、食欲を刺激するぱりぱりの音と香りが広がった。焼きたてはたまんねぇな。このまま丸ごと一本食べられる。

 バターケーキも別皿に乗せると、あらかじめ用意していた絞り袋の生クリームで、皿の淵を飾った。お、量も形も完璧だね。


 作りたての野菜スープをカップに移していると、掃除を終了した千賀子が手を洗って、カウンターのそばへとやってきた。

 おれの手もとをのぞきこみながら、千賀子はカウンターの席に座る。おれは、彼女の前とその隣に、手際よく朝食セットを並べた。

 たちまち千賀子は、ふんわりと表情をゆるめる。


「ありがと。今日も美味しそう……」

「どういたしまして」


 おれは、千賀子の嬉しそうな笑顔を見られるだけで充分だ。

 だが、間抜けたツラにならないように、片方の口角だけ引きあげて応えてみせる。



 いつもの時間にぴったりだ。千賀子は、テレビのリモコンで七時のニュースをみるために電源をつけた。

 決まったチャンネルに合わせると、朝の番組に相応しい爽やかなイケメンニュースキャスターが映しだされる。

 挨拶のあと、さっそく真面目な表情でニュースを読みあげた。


『今朝未明、――県――区のマンション前で、帰宅途中だった住民の女性が何者かに襲われ、意識不明の状態で発見されました。以前から発生している同様の被害状況から、同一グループによる犯行の可能性があるとみられており……』


「――やだ。この現場って、けっこう近くじゃない?」


 食い入るようにニュースをみた千賀子が、ぽつりと告げた。


「ああ。そうみたいだな」

「――この事件、まだ続いているのね……」


 千賀子は、少し眉根を寄せる。そして、画面が切り替わり、現場を映しだしたニュースを、じっと凝視しながら黙りこんだ。



 十年ほど前から、事件は起こりはじめた。

 最初は、とある海外の国で起こり、日本は大きくとりあげなかった。だが、すぐに日本各地でも事件は勃発した。とてもひとりでは起こせない規模だったため、世間では、全世界を股にかけているカルト集団が事件を起こしているとの噂が流れた。


 襲われる人間に、法則性はない。ただ、初めのころの被害者は、十歳にも満たない子どもが狙われていた。だが、すぐに女性や老人もターゲットとなり、いまでは全年齢に被害は広がっている。


 被害者は、事件が起こりだしたころは、ほとんどが殺されていた。その手段は多様で、刺殺銃殺撲殺射殺エトセトラ。驚いたことに、素手でくびり殺したようなものも含まれていた。殺害の方法に、なにもこだわりや法則が感じられないと、ニュースのコメンテーターは口をそろえる。


 だが、件数が増えるにつれて被害者のなかに生存する者が現れ、いまでは殺害されることのほうが珍しくなってきていた。ニュースのコメンテーターたちは口をそろえて「匙加減がわかってきたのだ」と分析した。その点は、おれも同意見だ。


 また、いろいろな被害者の様子に、細かい分析はされているようだ。不意打ちのように襲われた者は、たいていは女性や子ども、年齢の高い被害者だった。十代、二十代の被害者は、かなり逃げ回った痕跡がある。さらに、腕に覚えのある男などは、激しい抵抗の様子が確認されているようだ。

 ただ、それ以上の詳しい情報は非公開とされているため、噂の域をでていない。おれの耳にも、クラスメートからの信憑性の薄い話しか届いてこなかった。


 この事件に関わったとされる被害者は、ほかの事件と区別され、「感情蒸発者《Feelings Evaporation Human》」と命名された。なぜなら、生存者は全員が人間としての感情をすべて失っていたのだ。喜怒哀楽の感情がなくなり、みずから行動を起こすこともできなくなる。感情蒸発者(FEH)は、とある地域の大きな病院に集められ、文句を訴える感情も持たずに寝たきりの看護を受けている。――まだ現時点では見当もついていない、治癒の方法が見つかるまで。


 おれの住んでいる地域も例外じゃなかった。過去に、この事件に関連していると思われる死者と、数名のFEHをだしている。

 そして――共通の友人をひとり。おれと千賀子は、小学生のころに喪っていた。


 ある日突然、感情を蒸発させたかのように失ってしまう。

 いま全世界は、得体の知れぬ者たちによって脅かされていた。狙われる原因がわかっていないため、いつ自分が襲われるのかわかっていない。

 なにかしら身体に施されるのか、細菌やウイルスが体内に埋めこまれているのか、メディアで発表がされていないうえに対策も打ち出されていない。

 そして狙われたら最後、死か、人間としての感情を失った者となってしまうのだ。



「千賀子。せっかくの朝食が冷めちまう。作り手の前で、それはないんじゃね?」


 場の空気を払拭するように、おれは、軽快な口調で声をかけた。


「あ。――やだ、ごめんなさい」


 過去を見つめていたように輝きが弱められていたその瞳へ、光が戻る。


「――でも」

「ん? なに」


 おれは、千賀子の隣へ腰をおろしながら、髪が邪魔にならないようにと頭に巻いていた手ぬぐいをとる。

 そんなおれへ、なおも伏し目がちの千賀子は、ぽつりと口にした。


「――でも、昴ってあんがい、冷めているわよね。こんな事件が、もう十年以上も続いているのに……」

「おれは」


 すぐに、おれは言葉を紡ぐ。

 おれの中で迷いがないから、力強い声がだせる。


「世界のことなんて関係ない。おれは、千賀子が無事ならそれだけでいい」

「――昴」


 ハッとしたように、千賀子は顔をあげて、おれを見た。その視線には、いろんな想いが混ざりあっている。

 おれのことを頼もしく思っている色と、嬉しさの色と、――そして、友人を亡くした過去にとらわれ続けている悲しみの色だ。

 千賀子の頭に片手を乗せて、わざとおれは、やわらかい髪をくしゃりと掻き乱す。

 そして、たちまち文句をいおうと口を開きかけた千賀子に、ニッと不敵な笑みを浮かべてみせた。


「ほら、はやく食わねぇと。合唱部の早朝練習があるんだろ?」



「そう。思いだしたわ」


 改めて朝食に向き直り、いただきますと手を合わせた千賀子は、フランスパンをちぎりながら口を開く。


「ん? なにを?」


 おれは、とろとろのスクランブルエッグを口にいれる。すると、ふいに目を細めた千賀子が上体を倒すようにして、おれの顔をのぞきこんだ。


「昴、昨日の放課後、喧嘩したんでしょう? 女の子が原因ですって? それで今日の朝に、指導部に呼びだされていたんじゃなかったっけ」

「あれ。よく知ってんな。たいした地獄耳だ」

広田ひろたくんに聞いたのよ」


 二年も同じクラスになった広田か。

 あの野郎、よけいなことを。

 今日会ったらぶちのめす。


 そんな態度をみせず素知らぬ顔で、おれはさらりと言い返す。


「おれが悪いんじゃねぇよ。他校の野郎がウチの一年の女子に絡んできたのを追っ払ってやっただけさ」

「女の子が可愛かったからでしょ」

「うるせぇな。ああ、そうだよ。千賀子と違って可愛い女だったよ。ブス」


 おれの暴言に、千賀子は余裕の笑みで返してくる。

 本当に自信ある美人というものは、そうそう怯まない。また、自信のある本物のブスも、ふてぶてしくニヤリと笑い返してくる。どちらも、怖いっちゃ怖いな。


「ちっ。うるせぇ。性格ブス」


 言いなおすと、今度は思いっきり睨みつけられた。どうやら目に見えない内面に関しては、少々不安があるようだ。口下手だと自覚があるだけに、他人へ与えている悪印象を危惧しているのだろう。

 美人の怒った形相は、身構えていないだけ身体に震えがくるものだ。

 すぐにおれは、態度を変えた。おれの変わり身の早さは天下一品だ。


「おっかねぇ顔をせずに、さっさと食って学校へ行くぞ。――おまえは充分可愛いよ。千賀子」


 最後のところはウインクを送りながら告げたおれの言葉で、千賀子は一気に頬を染めた。そして前を向くと、耳まで赤くした千賀子は黙々と食べはじめる。

 その気持ちのよい食いっぷりを横目にしながら、おれも満足気にフランスパンを食いちぎった。



     2



 生徒の登校までには、まだまだ時間があるというのに、もう校門の前に風紀委員である凛子りんこが、腕章をつけて立っていた。

 両耳の下で、きりりとストレートの黒髪を隙なく結び、朝早くから登校してくる生徒の服装へ目を光らせている。


「あら、千賀子おはよう。朝練なのね」

「おはよう、凛子。週番おつかれさま」


 親友の姿に、たちまち表情をゆるめた凛子だったが。

 おれを認めた次の瞬間、眉根を寄せた。


「なぁに、昴くん。また千賀子にひっついて登校なの? ――あ、また指導部に呼びだされていたんだっけ?」

「また、は、余計だっての」

「指導部の先生の手間を増やすんじゃないわよ。二年生になった自覚を持ちなさい」

「凛子に説教される気はないな」

「なんですって?」


 眦を吊り上げて、気色ばんだ凛子はおれを睨みつけた。


「あなた……」


 そのまま言葉を発しようとした凛子のそばへ、するりとおれは足音なく近寄る。そして、礼儀として、凛子のスカートのすそを右手で払った。

 凛子の真っ白な腿を軸にして花が開くように、ふわりとスカートのすそが浮かんで広がった。この広がり方は、なかなかテクニックがいるんだ。

 慌てた凛子が、両手でスカートの前を押さえる。


「いゃン。って、ちょっと、何すんのよ! このエロガキ!」

「ははは」


 スカートを押さえたまま真っ赤になった彼女に、おれはニッと爽やかな笑顔をみせた。その瞬間に、後頭部に打撃を受ける。千賀子のカバンが炸裂したのだ。


「痛ってぇ!」

「まったくもう」


 大げさに頭を両手で押さえてしゃがみこんだおれを、千賀子は見おろすように睨みつけた。


「ちょっと、千賀子! 放し飼いになんかしていないで、しっかりエロガキの手綱を握っていてよ!」


 怒った表情で腰に両手をあて仁王立った凛子は、唇を尖らせながら千賀子へと文句を言う。

 そしておれは性懲りもなく、二匹のエレガントな牝豹に睨まれながら、ぬははと笑い声をたてた。



「おう。時間通りにきたな。優秀優秀っと」

「ヒゲぐらい家で剃ってこいよ。この不良教師」


 呑気に大口をあけて指導室へ入ってきた男の顔を、おれは呆れた眼で見あげる。

 欠伸をさらさら隠す気もなさそうな無精ひげのこの男は、入学のころから付き合いが深い指導部の九条くじょうという教師だ。

 いまも、呼び出しをくらったおれが、千賀子と校門で分かれて先に指導室の鍵をあけ、態度でかく椅子に座って待っているというのに。教師のほうが寝ぼけた顔で指定時間を過ぎてくるとは。

 タバコは苦手らしく、いつも九条はシガーチョコを持ち歩いている。さっそく一本を取りだして銜えながら、おれへすすめてきた。

 おれは、ため息をつきながら口を開く。


「タバコじゃねぇが、校内で生徒に菓子をすすめるのもおかしくね?」

「高カカオのチョコを選んでいる。眠気覚ましにカフェインの効果が得られるぞ」

「おれは早起きだから、この時間帯はもう絶好調なんだよ。先生だけ食べていろよ」

「一緒に食えば共犯者だというのに」

「生活指導で呼びだした教師の言葉じゃねぇな」

「そうだ。それそれ」


 ようやく九条は、おれの向かいの席に腰をおろす。そして、チョコを唇の端で銜えたまま手慣れたように、書類を机の上に広げて並べた。


「ほら。いつものように反省文を書け」

「おれが悪いんじゃねぇよ」

「わかってるって。ウチの女子に他校の生徒が絡んだんだろう? 目撃していた生徒から話は聞いているよ。おまえの行動は間違っていない。似たようなことがあれば、おれだって同じことをする。だから、この場でのお叱りはなしだろ? 高校側に提出の反省文だけだ」


 口先だけじゃない。そのような場面に遭遇したら、この教師は嬉々として乱闘に加わるだろう。

 薄っすらと無精ひげに彩られているが、野生的な顔立ちは悪くない。無法者アウトローな空気をまとった二十代半ばの体育教師だ。上背もあり、男のおれから見ても、ほれぼれするような上質のしなやかな筋肉をつけている。だから、話のわかるこの教師は、男子生徒はもちろん、女子生徒にも人気があった。

 おれと人気を二分にするあたり、そこだけが気にくわねぇ。


「反省文ね。それが手間なんだけれどな……」


 にやにや笑みを浮かべながら、九条はおれへ向かって、書類を指で弾き飛ばす。机の上から飛びだして落ちる前に、おれは紙を受けとめた。


「おれの前で面倒事は起こさんといてくれよ、昴。止める気がさらさらないから、ほかの教師や生徒に面目が立たん」

「努力しまぁす」


 そうつぶやきながら、おれは、九条のほうから続けて転がってきた鉛筆をつかみ取る。鉛筆の尻を髪の中へ突っこんで頭を掻いたあと、慣れた文章を書きだした。



 さっさと終わらせるに限ると、おれが黙々と書いていると、合唱部の朝練がはじまったようだ。爽やかな四月の風をいれるためか、立ちあがった九条が窓を開けたために、歌声が流れこんできた。

 無意識に千賀子の声を聞き分けたおれの口もとは、ゆるんでいたらしい。


「おれに感謝しろよな」


 ふいに、窓辺に寄りかかったまま、九条がにやにやとした表情を浮かべて口を開く。

 訝しげな目で顔をあげたおれへ、九条が言葉を続けた。


「どうせ昨日のあいだに学校へ呼びだしても、おまえは応じないだろう? だが、朝練のある千賀子と一緒に登校なら、おまえは確実に呼びだしに応じる。――目の届くところに千賀子を置いておきたいんだろう?」

「なにそれ。勘繰り過ぎ」


 九条の表情が気にいらないおれは、手を止めて上目づかいに睨みつける。

 怯むことなく軽快な笑い声を立てて、九条は破顔した。


「深読みしているのは、おまえのほうだ」


 そして、九条は笑みを消した。


「先日までの春休みのあいだに、おまえらの友人の話を小耳にはさんだものでね」


 その言葉を聞いたおれは、手もとへ視線を戻す。

 九条に、さらなる情報を与える気は毛頭なかった。

 そんなおれの態度を予測していたのか、嫌な表情を浮かべることもなく、九条は窓の外へと顔を向ける。


「おまえらが小学生のころに、隣近所でよく一緒にいた友人がひとり、例の事件に遭ったそうだな。だから、おまえはできるだけ、千賀子をひとりで行動させたくないんだろう? 千賀子の部活にあわせて帰宅部のおまえが行動しているのは、去年から気づいていたからな」

「――それは偶然。隣近所に住んでいるなら、登下校の時間帯がそろうことくらいある」

「例の事件は、ほとんど目撃者はいない。それは、つまり人目があれば襲われないってことだからな。集団行動は有効だ」


 続く九条の言葉に、おれは口にださずに同意した。


 過去、同じ時間と場所で、複数の人間が同時に襲われたというニュースが少ないためだ。まったくないわけではないが、事件を起こす者は、明らかに他者の目を気にしていると噂されている。単純に、事件を起こす連中は捕まりたくはないのだろう。


「なあ、昴よ。進路はどうする気だ。二年だからといって、気がつけば、あっという間に卒業だぞ」

「そんなに先のこと、まだわかんねぇよ」

「千賀子は、間違いなく音大の声楽科だろうな」


 そう告げた九条の言葉に、今度もおれは、心の中で大きくうなずいた。

 同感だ。

 千賀子は、歌うために生まれてきたような女なのだから。


「千賀子がいく音大に、いくらおまえでも、ついてはいけないわな。――おまえは調理学校かね……? 噂で聞いているよ。千賀子の父親の店で、美味いスイーツやサンドイッチをだしているそうだな」

「なに? 今度はバイト禁止で指導? おれは千賀子の親父さんからバイト代もらっていないぜ」


 先手を打ってぶっきらぼうに返すと、九条は、教師らしい笑みを浮かべてみせた。


「そんな野暮はいわないって。生徒の能力を認めて伸ばしてやりたいだけだ。今度おれも食いにいってもいいか」

「残念でした。おれはまだ調理資格を持っていないから、客にはだしていないんだ。あくまで身内だけの試食しかやってないね」

「試食しにいってやるよ。おれはかなり味にはうるさい」

「クレーマーお断り。営業妨害しないでくれる?」


 なんだかんだと文句をいいながらも、おれは予定枚数の反省文を書きあげる。

 ふはは。慣れたものだ。こんなものに慣れても困るといわれそうだが。


「お。書けたのか。早いな」


 気づいた九条へ見せるために、おれは席を立って窓辺へと寄った。

 とたんに、千賀子の歌声が、より鮮明に聴こえるようになる。

 音楽室は、ちょうど鉤型に建っている校舎の一番離れた最上階の教室なのだが、そのあいだの空間で、遮るものがなにもないせいだろう。



 ふと、九条が口を開いた。


「芸術に関してはよくわからんおれだが。そんなおれでも、千賀子の歌声は素晴らしいものだと感じるな。その証拠に、誰もが立ち止まって、千賀子の歌声に耳をかたむける」


 窓の外から、おれが手渡した反省文へと視線を移してつぶやいた九条の言葉につられ、おれも、音楽室から下へと目を向けた。

 背の高い金網をはさんだ校舎前の路上で、通勤途中のサラリーマンや、夜勤を終えて帰途につくかのようなくたびれた風体の労働者が、声の主を探すように歩をゆるめて見まわしている。

 登校途中の学生も然り。二年以上の連中は、かなり聴き慣れているが、今年入学してきた一年の中には、ぽかんと口を開いて校舎を見あげている者もいた。

 ただの合唱部の歌声では、こうはいかない。

 千賀子の声だから、だ。


 九条の「うむ、けっこう」との声を聞くまでのあいだ、おれは、千賀子の人間離れをした歌声のもとに集う人間たちを、ぼんやりと見つめていた。



     3



「お。昴。遅かったじゃねーか」


 教室に入ったとたんに、ニヤニヤと笑みを浮かべながら寄ってきた広田の首に腕を回し、一瞬で動きを封じこめる。そして、その耳もとへ唇を寄せてささやいた。


「よくも千賀子にチクリやがったな。このサル」

「ギブギブ!」


 すぐに広田は、おれの二の腕を叩く。そして力のゆるみを見逃さずに、小柄な広田は、するりとおれの腕の中から抜けだした。

 大げさに首を押さえながら、広田は、真ん中でつながった両眉毛をあげてみせる。


「千賀子がいるのに、一年の女子にまで色目を使うからだっての」

「他校の生徒に絡まれているところを助けただけじゃねぇか」

「その場所に、おれもいたんだよ! 弱っちいあの連中くらいなら、おれでも追っ払えたんだ。いいとこ取りしやがって」

「相手は三人だったぞ? サルよ、おまえが逆にボコられる姿が目に浮かぶ」

「こちとらダテに柔道黒帯じゃねーよ!」

「有段者が素人さんに手をだしちゃまずいんじゃねぇ?」

「段位不要の実力主義者だって言って、わざとらしく黒帯を取らない昴は、セコ過ぎるんだよ」

「おれが習っていたのは、近所のジィさんから一子相伝の拳法だっての。段なんかハナからねぇよ」


 それは本当のことだ。

 近所に独り住まいの仙人のようなジィさんがいて、おれは妙に気にいられた。そして、小学校低学年のころから弟子として、一子相伝の技を教えてもらったのだ。おれは才能があるらしい。

 ただ、適当なジィさんだったため、おれ以外にも、隣の学区から習いにきていたひとりの小学生にも教えていた。

 それって、ぜんぜん一子相伝じゃあねぇよな。

 ほとんど口もきかず笑いもしない変な同学年だったが、それはお互いさまだ。向こうもおれを変な奴と思っていたに違いない。

 ただ、組み手の練習として、似たような背丈のふたりで習うには都合がよかった。

 やがて、その小学生は中学にあがり、引っ越しを理由に音信不通となった。ジィさんは百歳越えで去年、人生を全うした。

 完璧ではないが、ジィさんの技と知識を、おれは受け継いでいる。


 自分の席にカバンを乗せたおれのあとについてきて、まだ広田は口を尖らせながら文句を続けた。


「ちぇ、おれが一年女子の憧れの先輩になれるところだったのに」

「サルが憧れの先輩になれるわけねぇって」

「そんなことねぇって。グラウンドで走るおれを見かけるたびに、下級生からの、広田先輩と呼ぶ黄色い声がキャーキャーと」

「キャーキャー、広田先輩の変態!」

「うるせぇ! 千賀子がいる昴が邪魔すんな!」

「千賀子とは、そんなんじゃねぇよ」


 ここで千賀子とカップリングされることは喜ばしいが、ムキになると、サルにネタを提供するだけだ。そう思ったおれは、表情を変えずにかわす。

 すると、そんなおれの片腕に、するりと白い手が絡みついてきた。目を見開いたおれの背後から、耳朶へ息を吹きかけるようにささやかれる。


「昴は、千賀子となにもないよね。だって……」

「おまえとも関係ないぜ。蔵之丞くらのじょう


 おれは、身を擦り寄せてきた蔵之丞の理知的な額の真ん中へ、中指で痛烈なデコピンを浴びせた。

 たちまち蔵之丞は額を押さえ、男子学生用のズボンに包まれた両脚をきれいにそろえたまま、横座るように床へと崩れ落ちる。


「ひどぉい。昴ったら」

「さっさと自分の席に戻れよ。おまえら」


 人差し指をくわえながら涙を浮かべて見あげてくる蔵之丞と、歯を剥きだして威嚇するサルへ、おれは冷ややかな一瞥をくれてやる。それから、どかっと自分の席へ腰をおろした。

 いいタイミングで、千賀子が教室に入ってくる。おれより後からやってきたのは、合唱部の朝練と続く生徒会の朝の仕事をこなしてきたからだろう。


 千賀子は、ちらりと席についているおれの姿を確認する。そして、やわらかな笑みを浮かべてみせた。

 おれはといえば、でれでれと口もとがゆるまないように顎をあげて、わざと視線をはずす。そして、千賀子にニヒルな横顔をみせつけてやった。

 きっと千賀子は、おれの頬を凝視しているはずだ。ぐふふ。


 カッコよく彼女の視線を受けていると、後ろの席のサルが乱暴におれの椅子の背を蹴ってきた。


「調子に乗るなよ。このタコ。てめーは蔵之丞がお似合いだっての」

「痛ぇな。このサル」

「るせーよ」


 振り返って悪態をつこうとしたとき、おれの目の端に、離れた一番後ろの席に姿勢よく腰をおろした蔵之丞が映りこむ。おれのしかめた表情から、認識されたと気づいたようだ。たちまちオンナども顔負けの花が開くような笑みを満面に浮かべ、顔の横で小さく右手のひらを、ひらひらと振った。

 思わずため息が漏れたおれは、サルに文句を浴びせる気が失せてしまい、黙って前を向く。

 ちょうど担任が姿を表し、朝のホームルームもはじまろうとしていた。


 こんな風に悪口を言い合っていても、おれとサルは気が合っている。校内では友人と呼んでも差し支えないほどだ。小柄でサル顔、がさつな性格で成績もの下だが、そんなことは、友情に影響はない。

 蔵之丞にしてもそうだ。クラスの女子以上にオンナらしい男子高校生だという部分に、少々問題があるのかもしれない。だが、普段はきりりとした端正な顔立ちの、品行方正で成績優秀な地元名家の跡取りだ。

 いまでこそクラスの女子が、色白の肌がつるんとした蔵之丞の美貌の秘訣を聞きにくるほどだ。だが、高校に入学したてのころ、かばってくれる同じ出身中学の知り合いがクラスにおらず、周囲の見知らぬクラスメートからオカマと陰口をたたかれ仲間はずれにされているところを、おれが助けてやった。それから妙に懐かれている。

 サルも蔵之丞も、まったくおれとは重なる部分がない。

 だからこそ言いたいことも言えるし、違う考え方が面白い。



     4



 昼休みになると、とたんに教室内は喧騒に包まれる。

 おれとサルは、自分の席に座ったまま、カバンからそれぞれ昼食をとりだした。おれたちのところへ、大きな包みを持った蔵之丞が、いそいそと近づいてくる。


 お坊ちゃんの蔵之丞は、いつもお手伝いさんの力作となる三段重ねの重箱持参だ。食いきれないかと思いきや、そこはオトコらしく残さずいただいている。

 おれの弁当はというと、朝に千賀子の喫茶店でいろいろな仕込みをする中に、サンドウィッチという軽食も含まれていて、それが毎日の弁当になっていた。

 おれと千賀子は、一緒に食べることはありえないために、いつも同じサンドウィッチを食っているなんてことは、このふたりには気づかれていない。

 今日のメニューは、アボカドと玉子、それに水にさらした薄切りの玉ねぎを、バターの代わりにオリーブオイルを塗ったパンのあいだへ、マヨネーズソースとともにはさむ。いかにも女子が好みそうな一品だ。

 さらに、薄切りの豚肉を重ねて作ったミルフィーユとんかつをマスタードソースにくぐらせ、千切りキャベツとはさんだカツサンドも作った。ボリュームがありながら、これまた女子好みにやわらかく食べやすいサンドウィッチだ。

 間違いなくおれは、千賀子の胃袋をつかんでいるはず。


 機嫌よくサンドウィッチにかぶりつくおれへ、購買部で買ってきた焼きそばパンをほおばりながら、サルが話しかけてきた。


「今日の放課後、昴はヒマだろう? カラオケいこうぜ」

「カラオケかぁ」


 気持ちが入っていない返事をしながら、おれは千賀子のスケジュールを思いだす。

 千賀子は、今日の放課後も合唱部の練習がある。歌うことすべてが好きな彼女は、友人が誘えばカラオケにもいそいそとついてくるが、部活があるとなるとそうはいかない。


「カラオケ行こうよ。一緒にデュエットしようよー」

「行ってもデュエットはしない。ひとりで『ぼくたち男の娘』を歌ってろ」

「ひどぉい」


 隙あらば、ひとくち大の玉子焼きを箸で口もとまで運んできて「あーん」を企てる蔵之丞の攻撃から顔をそむけ、おれは窓の外へと視線を転じた。


 千賀子は、合唱部の仲間たちと一緒に帰宅するだろう。それほど遅くならないし、下校時間はまだ空は明るい。

 おれは、フムと思案した。

 たまには、こいつらに付き合ってカラオケってのもありか……。



     5



「こんなところに、これほどの力を周囲に放っているヤツがいるなんてな」


 通学路に立った男はつぶやきながら、校舎の四階を見上げた。


「昨夜の女は、見た目はおれ好みだったが、地獄耳の能力はショボかったねぇ。他人の能力を奪うことで可能な全体的な底上げ、上限突破をしていなかったからかな。保守的だねぇ」


 獲物をロックオンしたように、舌なめずりをする。

 男の視線の先では、放課後に練習する合唱部の歌声が響いていた。


「こちらは声に特化しているのか。いいねぇ……。場所は高校。声からして、教師ではなく生徒。若い女だ。こうして耳にするだけで力がみなぎってくる。これが異世界だったら、バフと圧倒的な回復能力、間違いなく聖女の力だな。そして、それがわかるのは、同じ能力者だけってわけか」


 そう言って、男は周囲を見回した。下校時間のピークは過ぎているらしく、いまは学生の姿は見当たらない。

 念のために、瞳を凝らす。道路のはるか向こうまで、遠くそびえるビルの窓や屋上まで、見渡す限り人影はない。

 さらに万が一のために、耳を澄ます。彼を中心に半径十数メートル内で、足音や息づかいの気配はしない。


「ちょっとしたミスで、捕まりたくないからねぇ。いくらでも逃げおおせるが、初期の顔バレはさすがにまずいからなぁ」

 笑みを浮かべながら、男は悠々と金網を飛び越え、高校の敷地内へ侵入した。


 校舎の出入り口を目指して、ゆっくりと中庭を歩く。


「だが、半径数キロとはいえ、今回の女は、歌っているときの垂れ流しパワーは膨大だな。他者にこれだけ影響を与えているんだから、これを奪っておれだけのものとしたら、もう敵なしじゃないか?」


 そこまで口にした男は、さすがに不思議そうに首をかしげた。


「これだけ能力を垂れ流しって、おかしくねぇか? 昨夜の女でも、それなりに周囲を警戒していたぞ。――まさか、本人に力の自覚がないってことか……?」


 そして、すぐに相好を崩す。


「なんておれは、ラッキーなんだ。これだけの力、よくもまあ今まで、ほかの能力者に見つかって奪われていなかったものだ。神がおれのために、特別に用意してくれていたボーナスじゃないか」


 鼻歌交じりに歩く男は、能力に目覚めてから、一睡もせずに活動していた。

 最初にひとりの女性を襲い能力を奪ってから、昨日の昼間まで働いていた仕事場の作業着姿で、次のターゲットを探し回っていた。ゲームや異世界モノが好きな男は興奮状態で、まずは、さっさと能力の上限突破――レベル上げを目指していたからだ。


 そのかいあって、今日の朝。

 無防備に力を放つ声が、ついに男の耳にまで届いた。急いで声の主を探すと、高校の音楽室から聞こえてきた。


「目の前の仕事だけに能力を使って、普段は見つからないように隠れまわる昨夜の女もいるが。もったいないねぇ。筋力だけでも、異世界で勇者が名乗れるほどだろうに。それが、さらに奪うたびに上限をあげられるってのに」


 己の能力で誰もいないことがわかっている男は、足取り軽く、並んだ靴箱の前を通り過ぎる。音楽室のある方向を確認して、姿を隠すそぶりもなく廊下を歩いた。


「今回の獲物は、歌をさえずる小鳥ちゃんって感じかな。――部活でほかの学生がいても面倒だな。帰宅途中に、ひとりになるのを待ったほうがいいか?」


 待ちきれずに校舎のなかまで入りこんでいながら、ふと男は思案する。


「いや。能力を奪うのは一瞬だ。とくに、自分の力に気づいていなくて、部活仲間がそばにいるとなれば、警戒心もないだろう。周りに気づかれず、彼女をひとり、さっと攫うくらい、今のおれにかかれば朝飯前だ」


 そう言いながら、男は階段をのぼりはじめる。


「能力の奪い方は、昨夜の方法で合っていたな。相手の頭を鷲掴みして、一気に力を吸いこむ。昨夜の女は暴れて面倒だったから、小鳥ちゃんには、少々おとなしくなってもらってからのほうがいいか……」


 歌声が、徐々に大きくなってくる。男の期待もふくらんでくる。


「これで能力が爆上がりしたら、手はじめに何をやろうか。おれを見下す世の中を、引っ掻き回してやるか。それとも、悪人を物理的に潰して――片っ端からFEHにしていくのも楽しそうだ。ははっ、まるでおれは正義の味方みたいだな」


 階段をのぼる男の右足が、四階に到達する。

 無意識に、男は唇をゆがめ、涎をたらさんばかりの笑みがこぼれた。


「それじゃあ、美味しくいただきましょうか。おれの能力の肥やしになってくださいよ。まだ見たことがない、可哀そうな小鳥ちゃん」



     6



「誰に断って、彼女に近づくのかな」


 おれの冷ややかな声に、作業着の男は、驚愕の表情を浮かべて振り返った。背後にいたおれの姿に悲鳴をあげ、数歩あとずさると、バランスを崩して尻もちをつく。


「な? なぜだ? 誰だ? どうしてここにいるんだ? 足音も息づかいも、それ以前に、さっきまでおまえなんか、いなかったじゃないか!」

「あんたに気づかれなかっただけだ。おれには、あんたの行動が手に取るようにわかっていたよ。なんせ、鼻がきくもんでね」


 静かな声で答えてやった。

 男の声は、発するたびに空気中に吸いこまれ消え失せる。おれが瞬時にノイズキャセリング、逆位相の音波をだして打ち消しているからだ。そのくらい、造作もない。

 楽しんで歌っている千賀子に、この騒ぎを気づかれたくないだけだ。


 蒼白の男を、おれは半眼で見おろした。

 男は、ハッと気づいたような表情を浮かべる。


「鼻がきく、って、能力者か? あ、も、もしかして、ターゲットが被ったのか! そうだ! あの女を、きみも狙ってきたんだろう? これだけ力を垂れ流す無防備な女だ。おれと同じように、あの女も最近目覚めたばかりに違いない。だから、きみもいただくつもりで、急いでやってきたんだろう?」


 よく回る舌だ。

 不愉快とばかりに、おれは踵で床を蹴った。

 その音に、男はビクリと身体を縮こませる。


「彼女は、最近目覚めたばかりじゃない」

「え?」

「彼女が力を手に入れたのは十年前。この争奪戦がはじまった初期の、第一期組だ」


 厳かに告げたおれの言葉に、男は目を見開く。

 そして、思いついたように険しい表情になって男は叫んだ。


「わかったぞ。あの女はおとりなんだろう? あの女をぶら下げて、こうして力が目覚めたばかりの能力者をおびき寄せて、てめぇが吸いあげていやがるんだ!」

「下衆な勘繰りはやめろ。彼女に近づかなければ、見逃してやったのに」

「嘘をつけ!」


 尻もちをついたまま指を突きつけ叫び続ける男に、おれは淡々と口にする。


「昨夜の事件、あんたがやったんだろう? あの女性は争奪戦に興味はなく、彼女に危険はないと判断したから放置していたんだ。それをあんたは手当たり次第に襲おうとした。そして今――格上に牙を剥いた」


 おれの声音から、本気が伝わったようだ。男の顔色が蒼ざめた。

 だが、遅い。


 逃げだす隙を狙い、一瞬で身をひるがえして開いている廊下の窓から飛びだそうとする男を、それを上回る速さで足首をつかんで引っ捕らえる。怒りのままに床に叩きつけた。


「あんた、まさか彼女同様第一期組のおれから、逃げられるなんて考えていないよね? この十年で、おれがどれだけ上限突破して能力を積み上げていると思う?」


 笑みを浮かべながら、おれは男の頭を鷲掴み、指の力だけでギリギリと締めあげた。


「ちょ、待……」

「暴れて彼女にバレたくないから、サクッと終わらせるよ。ばいばい」


 その瞬間、おれの手のひらに何ともいえぬ熱量が吸いこまれる感覚が起こった。それを無表情で受けとめる。

 間髪いれず、おれは男をつかんだまま、開いていた廊下の窓枠を蹴って飛びだした。一足飛びに宙を舞い、目にも留まらぬ速さで一キロほど先の総合病院の駐車場に降り立つ。無造作に男を転がすと、さっさとその場から飛び去った。

 千賀子の生活圏内で事件が起こるなんて、許さない。



 十年前。

 共通の友人を失った直後に、おれと千賀子は、ランダムに選んだ神によってギフトを与えられた。

 だが、千賀子は拒否した。その力によって、誰かを傷つけたくないと言って。

 神の決定を拒否した千賀子は、その神によって記憶を封印されたが、力は取りあげられなかった。自覚がないままに、千賀子は、その膨大な力を身に宿したままとなった。

 だから、おれは神からギフトを受け取った。

 何も覚えていない千賀子を護るために。

 彼女を護り続けるために。


 何も知らぬまま、千賀子は歌う。

 彼女の純粋な心を表現するかの如く、歌う声に乗せて、人間が求める慈愛に満ちた癒しを、生命に活力を、無自覚に惜しみなく放つ。

 神の贈り物を断った代償として。

 ほかの能力者に狙われるためだけの、溢れでる力を孕んだ供犠となって。



     7



「あれ? 昴、カラオケに行ったんじゃなかったっけ? 昼休みに、広田くんたちに誘われていたよね?」


 靴箱の前でしゃがんで待っていたおれを見つけて、千賀子は驚いた表情になる。


「断ったんだ。だってほら、今朝のニュースでも事件があっただろう? ボディガードだよ」


 そしておれは、千賀子と一緒に外靴に履き替えている合唱部仲間の女子に、無邪気な笑みを向けた。


「わぁ、千賀子の彼、いいなぁ! 昴くんって強いもんね。最高のボディガードだよ」

「え~。そんなんじゃないって」


 照れながら否定する千賀子だが、彼女の友人たちの屈託のない囃す声に、おれは非常にいい気分で続けた。


「もちろん、千賀子だけの護衛じゃないって。千賀子以外はみんな、駅から通っているんだろう? 千賀子と一緒に駅まで送るって。集団下校だよ。な、いいだろ? 千賀子」

「え? もちろん!」


 千賀子は、パッと表情を輝かせる。


「ありがとう。みんな、安心して帰れるよ」

「ね~」


 彼女たちがはしゃぐのを横目に、おれは遠回りすることによる、千賀子と一緒にいられる時間が長くなることが嬉しい。だが、そんな感情はカッコつけのおれだ。もちろん、そぶりに出さない。

 校門をでて、千賀子を中心にした集団となって駅へ向かった。


 夕暮れの中、彼女たちのたわいのないおしゃべりを聞きながら、おれは後ろを歩く。

 すると、ふいに千賀子が振り返り、照れたような表情でおれに言った。


「ねえ、わたし、スパゲッティナポリタンが食べたいなぁ。熱々の鉄板に乗ったケチャップの、いかにも純喫茶で出てきそうな感じのナポリタン。今度、作ってくれる?」

「いいぞ。まかせとけ」


 すぐさまおれは、返事をする。

 千賀子の弁当も作っていることは、彼女は黙っていられなかったらしく、友人のあいだでは知られている。


「とっておきのナポリタンを作ってやる」


 笑顔で言ったおれに、千賀子も嬉しそうな笑みを向けた。そのまま、小突いてくる友人との話に戻っていく。楽しそうな笑い声が響く。

 釣られておれも顔をほころばせながら、さっそく、いかにもナポリタンのレシピを頭の中で思い浮かべた。



 千賀子が喜んでくれるなら、いくらでも美味しい料理を作る。

 千賀子が笑うためなら、どんな敵でも排除する。

 これまでも、これからも、ずっと。



 この世界で、千賀子が楽しそうに歌っている。

 おれは、それだけで幸せだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点]  わ~!!! 昴のヒーロー感がハンパなかったです(ちょっと、ダークヒーロー風味ではありますが……)! [一言]  格好いい物語を堪能させていただきました!
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