貴方のしたいことを教えて
海、海、海、辺り一面、青い海。
目の前に広がる海は広大で、何も無い。水平線の先まで見渡す限り、何も無い。リナリスが乗っていたはずの船も、もちろん無い。
だだっ広い砂浜の上で、リナリスは膝を丸めて縮こまっていた。
「ああ……消えたい……」
真っ白な砂浜の照り返しに目を細めながら、リナリスは沈んだ声で呟く。
ああ、このままこの砂達の一部になってしまいたい。それか太陽にジリジリと照らされ続けて、蒸発してしまいたい。それが無理ならせめてこの砂浜に穴を掘って——
「リナリスさん」
「!」
突然上から呼びかけられて、リナリスの肩が小さく跳ねる。膝に顔を埋めていたせいか、人が近づいてきていたのに気づけなかった。
「大丈夫ですか? やっぱ暑い?」
声がさっきよりも近くなる。どうやらリナリスに合わせて、屈んでくれたらしい。その優しさが今は特に辛かった。
「リナリスさん、なんか言ってください」
「…………」
「……死んでる?」
「……死んでない」
心配してくれている相手を無視し続けるのに耐え切れなくて、とうとうリナリスは顔を上げた。眉尻を下げ、目には涙を浮かべた情けない顔が露わになる。
「……ロアン、私に優しくしないで」
「なんで」
なんでって、そんなの決まっている。
「だって私のせいで、いま遭難してるでしょ」
◇
遭難したといっても、何か大事件が起こったわけではない。
氷山の一角に船がぶつかったとか、想定外の大嵐に見舞われたとか、そんな壮大なストーリーが起きそうな事故は発生していない。
リナリスが乗船したのが三日前。
父親に「仕事で今度船に乗るけどリナリスも来る?」と誘われたのが始まりだった。今までの人生で一度も海に出たことのなかったリナリスは、喜んでその誘いに乗った。
大海原、打ち付ける波、にぎやかな海鳥の声。本でしか知らなかった光景をこの目で直に見られると思うと心が踊った。
が、現実は非情であった。
お約束というかなんというか、リナリスはひどい船酔いに見舞われてしまったのだ。
船が出港してからずっと、甲板の手すりから身を乗り出して吐いている。
「……もう二度と、船には乗らない……」
ゆらゆら揺れる船の上、リナリスは呪詛を吐くように言う。乗船前の海への憧れは立ち消えて、今は一刻も早く陸に上がりたい。
やはり陸、陸が一番なのだ。人間は陸の生き物なのだから、海に来るべきではなかった。
「リナリスさん、俯かないで」
忙しない白波を睨みつけていると、横からそんな助言をいただいた。素直にそれに従ったリナリスは、顔を上げ、なるべく正面を向くようにした。
「それから、できるだけ遠くの景色を見てください。で、動かないものを探して見てて。ちっさい島とか、陸地とか」
「そう言われても、今は目に入るもの全部が動いて見えるわ……」
リナリスがげんなりしてみせると、隣の男が小さく笑う気配がした。
「そういえば、父さんは今何してるの?」
「社長は客室にいますよ。明日の商談の準備でもしてるんじゃないですかね」
「そうね、明日よ。明日になればやっと陸に上がれる……」
「なんか産卵する亀みたいな感想ですね」
若干失礼なことを言われたような気もするが、リナリスは特に抗議はしなかった。この3日間、隣の男には世話になりっぱなしであったからである。
リナリスは隣に視線を向け、男に微笑みかける。
「船に乗っている間、ずっと側に付いていてくれたでしょう。ありがとうロアン」
気怠げな雰囲気をまとった、切長の金色と目が合う。いつもは無愛想なその表情が、今は少しだけ緩んでいるように見えた。
「だいたい背中さすってるだけでしたけどね」
「隣でずっと吐いていたのよ。いつも申し訳なかったわ」
「そんなん別に気にしてませんよ。これも俺の役目なんで」
“役目”という言葉が、リナリスの胸の奥をチクリと刺す。けれどそれには気づかない振りをして、彼女は笑みを深めた。
「たとえそうだとしても、気遣ってくれた事実が嬉しいのよ。私の護衛が貴方でよかったって、本当に思っているの」
ロアンは、リナリスの父が雇った護衛である。
リナリスは裕福な家の生まれで、幼い頃には誘拐されかけたこともある。そんな彼女の身を守るため、雇われたのがロアンだった。
名目上は父の会社の従業員の一人となっているが、実際はリナリス専属の護衛役として、いつも側についてくれている。
そう、いつも休む間もなく四六時中……この十年間ずっとだ。その長い長い年月のことを考えると、リナリスは激しい不安感に襲われることがある。
これから先も何ひとつ変わらず、彼に側に居てもらうのが正しいことなのか、ときどき分からなくなるのだ。
「ねぇ、ロアン」
「なんですか」
「……これから先、何でも自由にしていいって言われたら、どうする?」
「は?」
「何かしたいこととか、ある?」
リナリスの問いに呼応して、男の口が微かに動く。だがその呟きは小さすぎて、すぐ風の音に掻き消されてしまった。
もしかしたらそれは、始めから誰にも聞かせる気のない言葉だったのかもしれない。
潮風を受けたリナリスが一度瞬きすると、今度はハッキリとした声でロアンが答えた。
「したいことなんか、そんなん、めちゃくちゃありますよ」
金の瞳が強く、強く強く、これ以上ないほど強い視線でこちらを射抜いている。指一本、爪の先すら触れられていないのに、目の前の男にいきなり心臓を鷲掴みにされたみたいな心地がする。
彼の両目に写った女の顔が、ひどく強張っているのが見えた。
「……それなら、これは提案なのだけれど、」
——私の護衛をやめる?
そう続けようとしたのに、出来なかった。
「え」
瞬間、ガタンと大きく足元が揺れたと思いきや、リナリスの身体は逆さになって空中に放り出されていた。
一生に一度見られるか見られないかくらい、驚いた顔をしたロアンと目が合う。
「リナリス!!!!」
彼の叫び声を全て聞き終わる前に、乱暴な水音に叩きつけられて、視界いっぱい海になる。
冷たい。まず最初に感じたのはそれだった。
次に頭をよぎったのは「ああ、船から落ちたのか」という他人事のような感想。
けれどすぐに頭の中は激しい息苦しさに支配される。
息が苦しい、冷たい、苦しい、くるしい、こわい。
海面に上がればいいだけのはずなのに、それが出来ない。藻搔けば藻搔くほど、身体がどんどん重くなっていく。
(怖い、たすけて、助けてロアン、——ロアン!)
ゆらゆらと、無慈悲に揺れる水面に向かってリナリスは必死に手を伸ばす。
その刹那、誰かにその手を掴まれて、強い力で身体を引っ張り上げられた。
先程まで遥か遠くにあったはずの水面から顔を出して、めいっぱいの空気を肌に感じる。
「げほっ! はぁ、はぁ、はぁ!」
「しっかりしろ、掴まれ!」
腕と腰を引かれ、救命用の浮輪にしがみつく。全く目に優しくない色をした木製のそれに頬を預けて、肺へ必死に空気を送り込んだ。
リナリスの呼吸がだいぶ落ち着いてきたところで、彼女と同じく浮き輪に掴まっていた人物が口を開く。
「無事ですか? 怪我は?」
「……ない。ロアンは?」
「俺も無事です。そんなことより、この後どうするかです」
彼の言葉に釣られるようにして、リナリスは周囲を見渡す。
乗っていたはずの船はもう近くにはいない。既に遠くまで行ってしまって、点になっていた。
「……船に戻るのはもう無理だ。今から泳いで、あそこまで行きます」
そうしてロアンが指した先には、小さな島があった。
◇
そして、冒頭へと戻る。
命からがら、近くの小さな島までなんとか泳ぎきったリナリス達は、現在遭難状態にあった。
正確な時間は分からないが、島に上陸してから既に三時間ほどは経っている。
最初の一時間は船が引き返してくるのを期待して、浜辺周辺に留まっていた。だが、水平線の向こうに船は現れなかった。
次の一時間は海沿いを歩き、見つけた小川で喉を潤していた。その間、船は一つも通らなかった。
最後の一時間は二手に別れ、リナリスが浜辺で漂着物を探し、ロアンが島の中を探索していた。船はやっぱり、影も形も見えなかった。
事故が起こった時、甲板にはリナリス達以外の人間はほとんどいなかった。そのため落下事故の発生にすぐに気づいてもらえず、結果として置いていかれる形になったのではないか、というのがロアンの意見だ。
「流石に大事な客が居なくなったことにずっと気づかない、なんてことはないと思いますよ。何よりあの船には社長も乗っている」
「きっと明日にでも救助が来ますよ」そんな言葉を残して、ロアンが探索に行ったのが一時間ほど前。
浜辺に居るリナリスの元へと無事に戻ってきた彼は、燃料になりそうな流木を調達してきていた。
一時間も浜辺を彷徨ったにもかかわらず、上半分が割れたガラス瓶一本しか見つけられなかったリナリスとはえらい違いである。
だだっ広い砂の上、依然としてリナリスは膝を抱えて縮こまっている。その正面にロアンは屈み込むと、そのまま彼女の手を取り、眉間に皺を寄せて言った。
「なんか、手ぇ怪我してません?」
「……さっきガラス瓶で火を熾そうとしたから、その時に出来たものかも」
水を入れたガラス瓶で、火を熾す方法があることをリナリスは知っていた。
だからガラス瓶を見つけた時、チャンスだと思ったのだ。ロアンがいない内に火を熾して、彼の負担を少しでも減らせたら、役に立てたら。そう思ったのに、このザマだ。
火おこしも上手くいかず、他に大した漂着物も見つけられず、それどころかガラス瓶の割れた面で、手を怪我する始末である。
「……そんなに深くはないし、一応真水で傷口も洗ったから、気にしないで。大した怪我じゃないの」
「…………」
「ロアン、顔が怖いわ」
「俺の顔に意見する前に、アンタはその情けない顔なんとかしたらどうですか」
険しい顔を隠さないまま、男が手を伸ばしてきて、リナリスの頬の涙をぐいぐい拭う。
頬についている砂のせいで若干ジャリジャリすると抗議したが、「そういう嫌がらせなんで我慢してください」と言われてしまった。
それから少し経ち、陽も落ちてきた頃。
あの後、器用なロアンの手により、ガラス瓶と流木で何とか火を熾すことには成功した。今はその有難い焚き火を囲むようにして、リナリス達は浜辺に腰を下ろしている。
焚き火近くには、男女の靴が両方並んでいた。砂と海水で汚れてしまって脱いだものだ。
外気に晒されている己の素足を見つめて、リナリスは爪先をキュッと丸めた。
それと同時に、隣の男が沈黙を破る。
「リナリスさん、寒くないですか?」
「ええ。貴方が火を熾してくれたから、寒くないわ」
そう返事をすると、何故かロアンは不満げな顔をした。眉を顰めて、口は見事にへの字に曲がっている。
「……俺は、ガラス瓶で火が熾せるなんて知りませんでした」
「え?」
「その方法を教えてくれたのも、ガラス瓶を見つけたのも、リナリスさんだ。アンタがいなきゃ、きっと俺は今も必死こいて木と木を擦り合わせてた」
「それは……」
「俺はアンタが火を熾してくれたから、寒くないです」
「…………」
「ありがとう、リナリスさん」
いつの間にか、不満げだったはずの表情が消えて、男は真摯にリナリスを見つめている。
焚き火の暖色を反射しているせいだろうか。その瞳は穏やかで温かく、こちらを慈しんでいるように見えてしまう。
……違う。お礼を言われるようなことは何もしていない。何もしていないのだ。リナリスは方法を示しただけで、実際に作業したのはロアンだし、そもそも火おこしが必要な状況に陥ったこと事態がリナリスのせいなのだから。
そう言えばいいのに、言いたいのに。喉の奥がつかえてしまって、上手く言葉が出ない。
「リナリスさん?」
ほら、さっきから何も言わないから。ロアンが怪訝な顔をしている。
ただでさえ迷惑をかけているのに、困らせているのに。これ以上、彼の負担になってはないけない。面倒をかけてはいけない。心配をかけてはいけない。
リナリスはまるで何かに急き立てられるように、代わりの言葉を探して吐き出す。
「……ロアン、私が船から落ちる直前にしようとした話を覚えている?」
リナリスの急な話題転換に、ロアンが少し目を見開く。だがそれは一瞬のことで、すぐに相槌を打ってくれた。
「そういや、何か言いかけてましたね」
「あの時、貴方に護衛をやめるか尋ねようとしてたの」
「……は?」
「ほら、貴方はしたいことが沢山あるって言っていたでしょう? だから私の護衛を辞めて、もっと自分の時間を持ってほしいと思っているの」
「…………」
「もちろん今すぐっていうわけじゃないのよ。無事にここから家に帰った後にゆっくり考えたらいいわ。それに、父さんにも話をする必要があるし……」
ロアンは何も言わない。黙って話を聞いている。
その沈黙が何を意味するのかリナリスには分からない。……分かりたくはない。
波と焚き火の音しか聞こえない時間が数秒続いた後、隣の男がやっと口を開いた。
「リナリスさんは、俺のしたいことが何か本当に分かってます?」
それはやけに低く、重い声だった。
それだけ彼にとって価値のあることだと、知らしめられているような、薄暗い気分になる。
心の中に生じ始めたその薄もやを隠すように、リナリスは口の両端を持ち上げて言った。
「具体的なことはまだ分かっていないけれど、貴方のしたいことなら、なんでも私は応援するわ」
「……そうですか。なら——」
ロアンが静かに距離を詰めてきたと思ったら、次の瞬間にはリナリスの視界は反転していた。
砂浜の上、男は押し倒した女に向かって冷たく言い放つ。
「俺がアンタに何しても文句ないですよね」
逆光に照らされて、男の顔は見えない。
煌々と輝く月が、燃える炎が、こちらを見下ろす男の顔を真っ黒に塗り潰している。
「……アンタを俺のものにして、めちゃくちゃにしてやることが、いま俺のしたいことです」
「……ロアン」
「今更アンタが俺のことを捨てるつもりなら、今ここで全部ぶち壊してやる」
「ロアン、ごめんなさい。わたし本当に何も分かってなんかいなかったわ」
「絶対に逃がさない」
「うん。私は逃げないし貴方を捨てもしない。だから——だから、泣かないで」
ロアンの顔は未だ見えない。
けれど彼の声が、両手が、小さく震えているのは分かる。ひとつふたつと、リナリスの頬に滴が落ちてくる。
めいっぱい手を伸ばして、リナリスは目の前の男にしがみついた。
「私の不用意な発言で貴方を傷つけてごめんなさい。……でも、でも私、本当に怖いのよ」
「…………俺が?」
「ううん。ロアンは怖くないわ、好きよ」
リナリスの言葉に、ロアンの肩がピクリと反応する。
だがそれ以上は何を言うでもなく、抱きつくリナリスにされるがままになっている。
「……私は自分自身が怖いの。貴方の側にいると、どんどん自分勝手な気持ちが溢れてくる」
「…………」
「船の上で貴方に何かしたいことがあるか聞いた時、一体私がどんなことを考えていたと思う? ……貴方にしたいことなんか、なければいいと思ったのよ」
あの時、リナリスが彼に期待した答えは「したいことは特にない」だった。
そうしたら、少しでも長くリナリスの側に居てもらえるかもしれないから。やりたいことが見つかるまでは、とりあえず護衛の仕事を続けてくれるかもしれないから。
少なくとも今は、彼を自分の側に置くのが“正しいこと”なのだと、認められたくて、安心したくて、あんなことを聞いたのだ。
『したいことなんか、そんなん、めちゃくちゃありますよ』
けれど、ロアンが出した答えは違った。
強く強く、意志がこもった瞳で、彼はそう言った。
それを聞いた時、リナリスは失望した。彼に対してではない。「ロアンがしたいこと全部諦めればいいのに」と思ってしまった自分自身に対してだ。
「船から落ちた時も、貴方がすぐに助けに来てくれて嬉しかった。手を怪我した時も、心配してくれて嬉しかった。巻き込んで、貴方をこんな大変な目に遭わせているって分かってるのに、どうしても嬉しく思ってしまうのよ」
本当に相手のためを思うなら、危険なことに巻き込むべきではない。けれど、リナリスは迷わずロアンに助けを求めた。
本当に相手の役に立ちたいのなら、要らぬ心配などさせるべきではない。けれど、リナリスはロアンが手の怪我を心配してくれたことを喜んだ。
今まで必死に隠して、取り繕っていた。だけど限界は近くて。日を増すごとにどんどん自分勝手に、我儘な気持ちが溢れ出しそうになってしまう。
「このままじゃ私、貴方の人生を食い潰してしまいそう」
だから、そうなる前に離れたかった。離してあげたかったのに。
「アンタに俺の人生食い潰されるなら本望だ」
目の前の男はそんなことを言う。
唇同士が触れ合いそうなほど近づいて、決してリナリスを離そうとはしない。
額を突き合わせ、そこでようやくリナリスは彼の表情を見た。さっきの穏やかな温かさとはまるで違う、燃えたぎるような熱がそこにはあった。
その熱を返すように、リナリスは真摯な瞳で尋ねる。
「ロアン」
「何ですか」
「貴方が本当にしたいことって、何?」
「……さっきも言ったと思いますけど」
「あれは今の貴方がしたいことでしょう。最初に船の上で聞いた時の貴方は、何がしたかったの」
「…………」
「お願い教えて。今だからこそ、ちゃんと知りたいのよ」
「………………アンタに、」
「わたしに?」
「俺のこと、“好きだ”って言わせることですけど」
「! それって——」
もうさっき叶ってるわよね?
その言葉はロアンに塞がれてしまって言えなかった。
一度離れたと思ったら、今度は首筋に、耳に、こめかみに、頬に、唇が降ってくる。
その度に全身の体温が上昇していく感覚がして、それに耐えきれなくて、リナリスはとうとう弱音を吐いた。
「……く、くらくらする」
「…………辛いですか」
「つ、辛くはないけれど……、貴方に触れられると、胸がドキドキし過ぎて爆発しそう」
「…………」
「ロアン?」
「……は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜……」
やたら長く大きな溜息を吐いて、ロアンの動きが止まる。そして真っ赤な顔をした女の耳に顔を寄せ、こう小さく囁いた。
「俺、リナリスさんとしたいこと、他にも沢山あるんです。……両手じゃ、とても足りないくらい」
「っ、そ、そうなの?」
「はい。でも今は、」
そこで一旦言葉を切ったロアンは、ごろんと横に倒れ込む。ちょうどリナリスと並んで寝転ぶ形だ。
そのままロアンが手招きしたので、リナリスは彼の腕の中へ収まりに行く。ゆるく背中に回された彼の腕は、リナリスの体温よりもずっと温かい。
心地良さに思わず目を閉じると、ロアンがそっと頬を撫でてくれる。
「今はまだ、これで充分ですよ」
微睡む暗闇の中、そんな優しい声が溶けていった。
◇
ゆらゆらと、揺れている。
視界が揺れているのではない。どちらかというと身体自体が、足元がぐらついているような。
ずっと立っていると気分が悪くなりそうな、そんな感覚。そうこれは正しく、船酔い——
「ゔ……?」
「! リナリスさん、目が覚めましたか」
「ロアン……? ここはどこ……?」
「船室です」
「ああ、せんしつ……船室⁉︎」
あり得ない単語を聞いて、リナリスは飛び起きた。
辺りを見回しても、砂も海も何処にも無く。代わりにあるのは木目の壁と天井、それからベッド脇に控えているロアンだ。
「先に言っておきますけど、夢とかじゃないですよ。リナリスさんが船から落ちたのも、無人島で過ごしたのも、全て現実です。もちろん今この瞬間も」
「ど、どうなってるの……? 私たち、確かに遭難していたわよね?」
「はい。それで無事に助かりました。朝方この救助の船が島に来たんです」
「朝方っていうと……」
「今から大体五時間くらい前ですね。リナリスさんはまだよく眠ってたんで覚えてないと思いますよ」
そのままロアンは今までの経緯をざっと説明してくれた。
まず、夜明け前に島の近くを船が何度も通ったらしい。不寝の番をしていたロアンはそれに気づき、すぐに狼煙を上げる準備をした。
そして朝陽が昇りきったと同時にガラス瓶で火を熾し、船がそれを発見し、無事に救出!という訳である。
今まで全くと言っていいほど船が通らなかったにもかかわらず、急に島の近くを船が何度も通り出したため、捜索の船だと判断したらしい。
ちなみに落下事故に最初に気づいたのは見習いの掃除夫で、「船長! 甲板で吐きながらイチャついてたあのカップルが消えてます!」と報告したのがきっかけだという。
その後すぐにリナリスの父親が救助を手配し、あとは先に述べた通りである。救助が来るまでにタイムラグがあったのは、港に着いてからしか父親が動けなかったからだ。
「……きっと父さん、心配のし過ぎで今ごろ抜け殻みたいになってるわね」
「港近くの宿に待機されてるみたいなので、到着次第すぐに会いに行きましょう」
「ええ。到着まであとどれくらい?」
「一時間弱です。着替えも持って来たので、今のうちに着替えておいてください」
「分かったわ、ありがとう」
「じゃあ俺は部屋の前にいるんで。終わったら教えてください」
そうしてリナリスに着替えを渡すと、ロアンは部屋をさっさと出て行ってしまう。といっても、扉の外に人の気配を感じるので、言った通り着替え終わるのを待っているのだろう。
扉を数秒じっと見つめた後、リナリスは渡された着替えを黙々と身につけていく。
(……なんだか、すごくいつも通りだわ)
着替えの最中、リナリスはそんなことを思う。この状況に対してではない。ロアンの態度に対してである。
別にいつも通りで何もおかしいことはない。ロアンは何も間違ったことを言っていないし、すごく親切にしてくれている。では何が問題なのかと問われれば、答えようがない。
(…………)
着替えの最後に靴を履いたところで、リナリスは自分の爪先を見る。革靴に覆われたそれは、もちろん素足ではない。キュッと爪先を丸めてみても、砂の感触などまるでない。焚き火の音も、波の音も、今はもう何も聞こえない。
小さなこの部屋では、リナリスの足音だけが聞こえる。それも扉の前で止まり、リナリスは外に着替えが終わったことを告げた。
そしてロアンが戻ってくる。彼は部屋へ入って来るなり、険しい顔をした。
「どうしたんですか?」
「え?」
「また情けない顔してますけど」
「うそ」
「ほんと」
眉間に皺を寄せた男が手を伸ばし、女の頬にかかっていた髪を優しく払う。
「俺は、また何かアンタを不安にさせるようなことをしましたか」
「ううん。そんなことないわ、貴方は何も悪くない」
「そう断言するってことは、自分がなんでそんな顔してるのか心当たりはあるんですね」
「…………」
「リナリスさん」
「……これは、私が勝手に気にしていることで、子どもの我儘みたいなものなの」
「だから気になるんですよ。他でもないアンタのことだから、俺は知りたい」
きっと他人の目から見れば、ひどく馬鹿げていて、取るに足らないようなことだ。それどころか、こんな時に何を考えているんだ、甘えるなと言われてしまうかもしれない。
でもそれでいいんだと、それが知りたいんだとロアンが言ってくれるから。リナリスは彼に白状してしまう。
「……淋しいわ。貴方がすごくいつも通りで、昨日のことがまるで夢みたいに思えて、淋しい」
震える声でそう零した刹那、リナリスは抱きしめられていた。背中に回った両腕に、強く力がこもる。
「……そんなん、俺だって思ってますよ」
顔の横から聞こえた男の声は、拗ねているように聞こえた。右耳を掠めていく彼の吐息が、少しだけくすぐったい。
「でも夢じゃない。今さら夢なんかで終わらせてやりませんから」
金の瞳が強く、強く強く、これ以上ないほど強い視線でこちらを射抜いている。
その眼差しは、昨日の船の上で見たものと同じで。部屋の中のはずなのに、潮風を受けたような心地がした。
「好きです、リナリスさん。どうしようもなく」