14/7「ソウイチ・サイトウ」
14/7「ソウイチ・サイトウ」
「さて、どうだった?」
価値の散乱する部屋に戻るなりソウイチはニヤケながら感想を求めてきた。ほとんど期待通りの情報を得ることができた。喜べるような情報ではなかったが。
世界はフォースコンタクトを切っ掛けに動き出した。ロウカス襲来を機会として活かすために各勢力は自己中心的に振る舞い結果的にフォースコンタクトは二の次という動きになった。しかしその情報は過小評価されていた。人類全体での対処を必要とするほどの脅威はジェンス社の故意と受け取り側の願望によって歪められ楽観視されている。ジェンス社をはじめ、いくつかの勢力はこの状況を見て分裂という選択に舵を切った。
ルビエールは端的に過ぎる結論を出した。
「つまるところ。世界は破滅への道を辿っている」
「その通り」
ソウイチはあっさりと肯定し、ルビエールはそれに反感を持った。
この結論にルビエールは納得したくなかった。フォースコンタクトに関する情報が事実であるならば、今の人類の動きは自滅行動でしかない。それほどまでに人間が愚かであることを認めることはしたくない。どこかに嘘があって欲しい。
「そこまで人間が愚かしいとは私には思えません」
それはほとんど願望だった。ルビエールは次の瞬間にソウイチが嘲笑うことを予知していたが全くの逆になった。
「そうだな。そうであって欲しいよ」
同意。ルビエールは素っ頓狂な顔をした。ソウイチは不敵な笑みを浮かべながらわざとらしく大きなため息をついて少し前と同じセリフを吐き出した。
「はー。ほんと、なんでよりにもよって俺たちの言うことを鵜呑みにしちゃうのかねぇ。こちらはジェンス社。疑惑を売りもすれば作りもする。ご存じだろう?」
クク、とディニヴァスが笑いを溢す。ソウイチの視線がルビエールを捉えそしてウインクした。
呆然、のち呆れ。ジェンス社はまたしても彼らをペテンにかけたのだ。しかしルビエールはここまでの流れからそれを素直には受け取らない。わざわざこのセリフをルビエールに聞かせたのはソウイチたちからの挑戦状だった。
真実を真実によって覆い隠すのがソウイチのやり口だった。では、今回、覆い隠された真実とは何だ?嘘を見抜くことよりも事実が何であるかをルビエールは重視した。
まずロウカスの脅威。これは恐らく事実なのだろう。それが嘘であるならゼイダンたちを騙してきた意味がない。わざわざ種明かしとして説明する意味もないはずだ。となればソウイチたちがついた嘘とは。
「逃げる気はない?」
グレートウォールで外宇宙に脱出する気などないのだ。厳密に言うならそれで生き残ることは無理と言うべきか。それをやっても多少生き長らえるだけのことなのではないか。ルビエールは自分の答えに自信が持てなかったがソウイチたちの反応は気味の悪いものだった。
「それ自体は正解だ。外宇宙に進出して生き残る。不可能ではないかもしれない。だが俺はそれを勝利だと定義していない。では、俺たちの勝利とは一体何だ?」
正解に辿り着いてほしいかのような誘導。しかしルビエールは理解できなかった。出題者が別の誰かであればルビエールも正解に辿り着けたかもしれない。それほど思ってもいない想定こそが正解にあった。
「解らんか。俺たちは勝つつもりだからだ。勝ったうえで、次の世界を作る」
勝利すること。それが目的だとソウイチは言う。しかしその勝利の形とは一体なんなのか。ルビエールとソウイチがそれを共有しているわけがない。
「勝利にも形があるとあなたは言いました。逃げおおせることもその一つであると示したのもあなただ」
「確かに。それも見方の一つだろう。実際、いくつかの方法で少数の人類が生き残る道はある。グレートウォールがそれを見越した存在であることも事実だ。しかしそいつは俺好みの選択じゃない」
ソウイチは席を立つと何かの操作した。するとそれまで黒一色だった部屋の天井が姿を変え、そこに艦の群れが映し出された。グレートウォール。映像ではなく強化窓越しの現実風景。ソウイチの部屋は艦の外郭にあったのだ。
間近で見るその異様にルビエールは息を呑んだがソウイチにとっては見慣れたものらしくどこか陰鬱だった。
「自分たちだけが生き残る。いざとなればそうするしかないさ。しかしそこに生き残っているのはジェンス社であって人類ではない。まぁ居心地はいいだろうな。敵対者はおらず、共通の目的と共通の理解のみで構成された集団。だが結局のところジェンス社も人類の1枠でしかない。「自分たち以外に自分がいない」なかで生き残るにはあまりに矮小だ。単一の組織、人間。そんな生き残りに何の意味がある」
何を言っているのかルビエールにはほとんど理解できなかったがそこに真実の一端を見た気がした。ソウイチ・サイトウがグレートウォールという艦群の中の一隻の中から群れを見ながらそんなことを考えていたという事実。人類という群れの中の一匹。ソウイチは自分と自分たちをそう捉えている。
ソウイチは視線を部屋に散乱する物品に映した。
「ここにあるガラクタ。俺はその価値が理解できない。価値を見出す連中のことも理解できない。だが、それでいい。それがいい。理解できないということは素晴らしいことだ。世の中の全てが共有の価値観で構成されていたらどうなる?全ては絶対的な価値で固定され物質のみが全てを測るだろう。しかしその絶対的な価値の正しさは何によって保証される?価値とは、異なるものがあることによって相対的に仮定されるものでしかなく、比較されるものによって変動する。異なるからこそいいんだ。異なるからこそあることができる。人間も同じだ。異なる者がいるからこそ真に自分を知ることができる。他人がいるからこそ自身の価値を測ることができる。立っている場所を認識できる。唯一無二であることの証明にすらその他が必要だ。俺たちにとって地球や火星がどうなろうと知ったことではない。共同体の存在だって無価値だ。しかしその無価値があることでジェンス社という価値が存在することもまた事実だ。ジェンスがジェンスであるには他者が必要で、ジェンスだけが生き残っても意味がない」
言葉の上ではルビエールも他者の存在が自身を構成する重要な要素であることは解る。ルビエールがスペシャルであるのもそれ以外が存在するが故だ。ソウイチは本質的な意味で生き残ることに自分たち以外の他者を必要としているというのか。ではつまりソウイチにとっての勝利とは。
「まぁジェンス社だけで生き延びて、尚且つ長い時間と少々の運を味方につければ人類もしくはそれに類するものくらいには再興できるかもしれない。だが、それはそこまで生き残った者たちの勝利だ。俺のじゃない。だからその選択肢は本当に最後の最後にやむを得ず為される選択であって、俺にとっては敗北の選択ということになる。やっぱ勝つと言ったら相手を叩き伏せてこそだろう?」
本気で言っているのか?先ほどまで散々勝ち目がないと言っておきながら
「つまり、あなたはロウカスと戦って勝つつもりだと?」
そんな方法があるなら他勢力を騙している理由がない。実際、ソウイチの反応はその通りだった。
「さっきも言ったがみんな仲良く協力できるならそれが最上だ。そんな方法があるなら喜んで飛びつくさ。あるいは協力なんぞ必要なしで連中を撃退する方法とかな。しかしそんなものはない。少なくとも俺たちには。そして他の連中にもなかった。もしかしたらどこかにあったかもしれない。しかし見つからなかった。あるいは無視されたのか。いずれにせよ、その選択はされなかった。残念だがそれが世界の選択だ」
そこまで言ってソウイチは顔をひらめかせた。自分自身で口にすることで真の姿を自覚したようだった。ソウイチは自身のありようを改めて確認し、確信をもって口にする。
「そう、世界だ。このくっそたれな世界のくそったれな選択。そんなものを尊重してやる必要がどこにある?ないね。だから俺たちはその選択を否定し、こっちの選択を突きつけてやるのさ」
その言葉にソウイチ・サイトウの意思が見えた。反骨心ともまた異なる感情。気のせいでなければそれと似たものをルビエールは知っている。正義感、使命感。
困難にぶち当たりながらもその先に挑む。その道筋、方法。数々のものがルビエールには理解不能だったがそこにあるものはソウイチ・サイトウという男のあるべき姿、願い。つまり理念だった。
「ならば、どうするか?」
ここで話が帰結する。ルビエールはついにジェンス社、ソウイチ・サイトウの物語の核心に辿り着いた。
「俺たちの結論は人類を変える、という結論となった。人類が団結する上で邪魔となる要素を排除し、一時的にでも何でもロウカスへの対処を強制させる。そのために邪魔なものを排除する。国家はその一つだ。国と言う枠組みを否定するつもりはないが今の国家群は長生きし過ぎた。ここらで消えてもらう」
世界を作り変える。その目的自体はこれまでも語られ、予測されたものだった。しかし、その動機が全くの予測外。ソウイチは対ロウカスのために世界を壊し、作り直そうとしている。
俄かには信じがたい。またしてもペテンにかけられているのでは?疑念が頭を過るがその可能性はルビエールの中ではほとんど支持されなかった。自分一人をペテンにかける意味がない。
ただそれでも確認しておくべきことはあった。
「それであなたは、ジェンス社には何の得があるんです。次の世界の覇者にでもなると?」
仮に全てが上手くいったとする。ロウカスへの対処が終わった後の展開はどうなる。生き残った者達での覇権争いが再開されることは想像に難くない。ルビエールにその流れが見えるのだ、ソウイチも同じ結論に達しているはずだった。ジェンス社固有で得をする何かがあるのか?ここまでの話の流れではそんなものは用意されていないと考えられる。にも関わらずソウイチがそれに挑む意味はなんだ。本当に理念だけであるのか。
「そんなこと聞くなよぉ」
情けのない顔をしてソウイチはルビエールを非難し、答える気がないことを示した。それが答えなのだとルビエールは直感した。
ないのだ。何も。この男は力と手段がある。だからそれを行使しているだけなのだ。ますます理解ができなかった。このような理由で戦争が消しかけられて大きくなったとするならいっそ世界征服を狙っていると言われたほうがまだ納得できる。
確かにこの男の行動には理念がある。だからといってこの男のもたらした結果を許容できるわけがなかった。この男と自分は絶対に相容れない。
「あなたの言っていることは正しいかも知れないし効率的かもしれない。ですが、そのためにどれだけの命を犠牲するつもりなのか」
ルビエールの感情をソウイチは不敵に受け止める。
「命ときたか。では聞くがそもそも命の定義とは何だ?」
突然の問答にルビエールは閉口した。そんな話をしているのではない。しかしソウイチはルビエールの無言の抗議に取り合わなかった。
「例えば家畜は命と言えるのか。それ自体は野生には存在せず、人のために生まれ、人の為に殺される。人間による管理なくして生存することはあり得ず、よしんば野生化したところでそれはもはや別の生態と定義されるべきだろう。馬や猫、もちろん犬も。人間が必要とするから作り出され、存在を許される。必要とされなければそもそも生まれやしない存在だ。これは果たして命と言えるのか?極論かもしれないがこれは人間にも言える。ただ人に言われたことだけをやる人間。死にたくないならなぜ軍人になどなるのか?戦争を始めるのか、継続するのか。それは結局のところ、戦争を望むごく一部の人間に操られる人間がいるからだ。そいつらは家畜と同じだ。自分たちで考えず、決断をせず、責任を背負わない。生殺与奪を他人に預けておいて尊厳ある命だと名乗れるものか」
ソウイチの理屈は命を切り捨てるための都合の良い解釈とし思えなかったがあまりに圧倒的なエゴにルビエールは絶句してしまった。
「ただ生まれただけの存在を俺は命とは見なしていない。命とは生きているもののことだ。生きるとは自立することだ。自分で考え、自分で答えを出し、自分で歩く存在のことだ。考えず、答えを他人に委ね、流されているだけの存在はただ動いているというだけで生きてはいない。そういうものを俺は命とは見なしていない。犠牲をどう思っているのかだって?答えよう。大義のための犠牲として相応しいと思っているよ。おっと、その大義ってのは戦争のであって俺たちのではないがね」
言ってのけるソウイチに反論する言葉を探したが断念した。どう反論してもこの男にダメージを与えられそうにない。言葉のないルビエールにソウイチは表情を緩めた。一転してそのエゴは潜められる。
「ま、これはあくまで俺の理屈で君にそれを納得してもらうつもりも必要もない。もちろん世間にも。世の中は複雑だ。状況を正しく解決しようと願えば願うほど到底ひも解くことのできない雁字搦めになって埋没した核と対峙することになる。だから人は整理する。シンプルに「そういうものだと」割り切ったり、見ないふりをしたり、先送りにしたり、強引で単純な解決を図ったりする。俺の場合はそういうふうに整理しているってだけのことさ」
その整理をルビエールは納得しようがなかったが自分自身も同じように整理していることを自覚していた。部下を死地に追いやり、また多くの敵を屠ってきた事実。選ばなければならない選択をするための動機、理由、理屈。自分のそれも多くの人間にとって理解の範疇外であろう。それを否定されたところで自身の選択を否定することもない。できはしない。順序が逆なのだ。理由があって選択があるのではない。選択があって理由が後についてきているのだから。
この男は既に選択し、多くを支払った。それを今さら覆すことはないだろう。奇妙な話だがその一点においてルビエールはソウイチという男に共感を覚えた。
「さて、こちらから語ってやれることはここまでだ。もちろん全てを語ったとは言えないし、そこに嘘が含まれていないと保証もしてやらないが。これで満足できないならこちらへの見返りはなくても結構だ」
当初の目的を思い出しルビエールは息を吐いて思考をリセットした。冷静に考えればとんでもなく無謀な応酬だった。今はこの男と敵対するだけの資格は自分にはない。
「充分です」
クリスティアーノに対する保険という協力関係には本来報酬など必要ない。このやり取りは本質的には取引というよりは互いの立場と信頼の確認作業だった。ソウイチは立場を説明したし、ルビエールはそれに付き合った。これで二人の間に一定の信頼関係が築かれたわけである。
「そうか。なら君とこちらにコネクションができた、と考えることにしよう。何かあれば君に訊ねる。君も訊ねてくれてかまわない。もちろんくだらない用件には付き合わないが」
ソウイチは席を立つとその辺りを徘徊しはじめた。と、目的のものを見つけるとそれを放り投げた。
「これを渡しておく。なくすなよ」
投げ渡されたのは一枚のコインだった。古臭く安っぽい。歴史的な価値以上のものはなさそうだった。しかしソウイチが渡してくる以上、そこには何か別の価値が付与されているのだろう。
「そいつはある特定の人間に渡した時に意味を持つ。そいつはお前に協力し、こっちと線を繋げるだろう」
一種の暗号か。いまこのコインに新たな価値が付与されたわけだ。映画じみた展開にクリスティアーノを連想してルビエールは溜息をついた。
「合言葉でもあるんですか?」
冗談のつもりで口にしたのだがこれは藪蛇になった。
「いいね。君が決めてくれていいよ」
「やめておきます」
「そりゃ残念。いいアイデアだと思うんだがね」
ソウイチはすっかり元の調子に戻ったようだった。問われ続けた仕返しとばかりにルビエールに問う。
「で、そっちはこれからどうしたい?」
問われてルビエールは窮した。真実を知り、為すべきことを選びたい。だが真実を知ったうえでルビエールに去来したものは全くの混沌だった。むしろ聞きたいくらいだ。こんなことを知って、どうすればいい?
ま、今さら誤魔化してもしょうがないか。ルビエールは恐れ知らずに白状した。
「正直なところどうすればいいのか余計に解らなくなりました」
ディニヴァスは笑いながら、ソウイチは理解できるよと頷いた。それで答えとしては充分だったらしい。そしてその一言を以って会談は終わりを迎えた。
「んじゃ、今日のところはこれまでだ。また会おう」
不意にと言ってもいいくらい唐突にソウイチは別れを告げた。同時にディニヴァスが席を立った。
「そこまで送ろう」
有無を言わせない雰囲気にルビエールも席を立つ。まだ聞きたいことはあるはずだが、何を聞くべきか選ぶこともできそうにない。
ソウイチは背を向け、軽薄に手を振りながらも振り向くことはなかった。
CEOの部屋を退出し、メイドたちの見送りが見えなくなったところでディニヴァスは呟いた。
「考えるべきことはいくらでもあると言うことだな」
ゼイダンの件に限らずルビエールの本来の用件だった月と地球の同盟の件もある。たしかにソウイチには考えなければいけないことが多いだろう。
「私の方がよほどですが」
「だろうな」
くくくと笑いを溢しながらディニヴァスは同意した。
この男にも聞けることはいくらでもある。ルビエールは少し前と違い今やソウイチ・サイトウの協力者となった。多くは語らないだろうが数少ないチャンスだった。やってみるだけやってみるか。ルビエールは思い浮かんだ選択肢の中でももっとも見込みのなさそうな質問を選んだ。
「あなたは一体何を目的にしているんですか?」
ジェンス社の擬人化。その思惑はジェンス社そのものであるはずで、この質問はディニヴァスにその立場を逸脱させるものだった。ソウイチとの関係を結ぶ前までなら危険すぎてできない選択。しかしルビエールの思い切った賭けに対して謎の男はあっさりと答えた。
「うむ。私は誰が勝とうが負けようがどうでもいいと思っている。ただそこに生まれるドラマが楽しめるならそれでいい」
あくまで傍観者として状況を楽しめればそれでいい。ルビエールは仮面の男の言葉をどう捉えるべきか解らなかった。冗談、もしくははぐらかしと受け止めるべきだろう。ただこの男であれば本当にそれを楽しんでいても不思議ではなさそうに思える。それでも一つだけ確認しておくべきだろう。
「それは人類が負けようと、ですか」
仮面の男は軽く笑って頷いた。
「野暮な結末だとは思っている。ただ、そうなったところでそれも人間の業というものだろう」
野暮な結末か。この男の視点はあくまで傍観者であろうとしているようである。超然としているとでも言うのか。人間であることすら放棄しているような男。
「私は用事があるからここまでにしておく。あとは奴がよしなにしてくれる」
区画の出口ではあの女秘書が待ち構えていた。ルビエールがそれを確認するとディニヴァスは踵を返す。
「また会うだろう」
ならば別れの挨拶など不要とでもいうのか。仮面の男は背中越しに手を振りながらあっさりと角を曲がって姿を消した。
「では、参りましょう」
女秘書でありWOZの間諜アユミ・エナレスは前日のミスなどなかったかのように淡々とルビエールをエスコートした。艦内トレイルに揺られる間も考えることはいくらでもあった。
ジェンス社とWOZ。この2者の関係性もよくわからない。ソウイチの言う通りならばWOZも独自の勝利のために動いているのだろうか。このスパイにそれを確認できるだろうか。さすがに無理筋だろう。聞き出すならソウイチと同じように大物でなければならない。そう、例えばマチルダ・レプティスのような。
「エノー様」
考え事に没頭していたルビエールはハッとしてエナレスの方を向いた。元来たミストレスのエリアに入るところだった。
「いまのうちにこれをお返ししておきます」
エナレスは恭しく礼をすると預かっていた銃を差し出した。ルビエールとWOZとの繋がり。ルビエールがそれを受け取るのと同時に秘書は唐突にスパイとしての顔を見せた。
「差し出がましいようですが、メンテナンスは定期的に行ったほうがよいと思います」
この言葉を額面通りに受け取らなかったのは直前まで想起していた人物の影響もあるだろうか。ルビエールはそれをメッセージと認識した。
「わざわざどうも」
おせっかいに臍を曲げたような返事をしてルビエールは銃を受け取った。役割は果たしたのかスパイは再びただの秘書に戻り、直前のメッセージを強調するかのように以後は一言も発しなかった。
また厄介事が増えた。ディニヴァスが見送りを途中でやめたのはこの接触を見越してのものだろうか?ディニヴァスがこの女スパイのことを気づいていないはずはなく、そしてそのことをこの女スパイが気づいていないわけもない。ある種の共生関係にあるのか。あの男であれば単に面白がって放置しているということもあり得るが。
またしても考え事に没頭し始めたルビエールはそのエナレスが抱えているバッグのことなど意識の内に入らなかった。
やがてミストレスのターミナルドックに2人はついた。そこにはイージスが係留されていて司令官の帰りを待っている。遠目にリーゼたちの姿も見える。
安堵のため息が自然と出る。これで慣れない交渉役と冒険は終わり、本来の仕事に戻れるわけだ。
「お世話になりました」
義務的に礼をするルビエールにエナレスは意外そうな顔をする。ディニヴァスとの関係が続くのであればこの女ともまた会うことがありそうだ。
「またいずれ」
明らかにソウイチとディニヴァスの影響を受けた捨て台詞を吐いてルビエールは歩き出した。
「エノー様」
呼び止める声にルビエールは振り返る。女スパイは困惑と堪えきれない笑いで複雑に表情を歪めながら持っていたバッグを掲げた。
「着替えた方がよろしいかと」
ファンデーション越しにも解るほど顔を紅潮させながらルビエールは元の服の入ったバッグをひったくってトイレに駆け込むのだった。
「喋りすぎたかな?」
グレートウォールから離れていく艦の光を追いながらソウイチは呟いた。誰に向けたものでもないと判断したのかディニヴァスは何も言わない。大した問題ではなく、また出すべき答えもない。ソウイチの心理的な共犯者作りにも興味はない。
確かにあの女は知り過ぎではある。ただし何の力も持っていない。その情報を活かす術を一つももっていない。クリスティアーノに対する保険として活かせるのならばその報酬に真実を対価とするに支障はないだろう。
そしてその情報すら時を得るにつれて価値がなくなる。そう遠くないうちにも世間一般にも拡がり、世界は自分たちの置かれた立場を知ることになるだろう。その時、人々は何を考え、行動するのか。ディニヴァスの関心はそちらに向いている。
「もう少しこっちの目的にも関心を示してほしいところなんだがな」
ソウイチの嘆きにディニヴァスはかかかと笑う。そこにはジェンス社CEOとその顧問という関係性はなかった。
「もちろん注視しているさ。これまでも協力してきた。これからもそうするさ。おまえが私を楽しませてくれているうちはな」
「あいあい。精々楽しんでくれよ」
その時、部屋の片隅でアラームがなった。ソウイチ付きのメイドが入室許可を得るための合図に二人は部屋の入り口に意識を向ける。
黒髪のメイド長は入室すると礼もほどほどに報告した。
「プロメテウス号より報告が入りました。未確認の形態を含めた集団です。エプシュタインは威力偵察の類と推測しております」
新タイプによる威力偵察。つまり敵が本格的に侵攻するための手順に入ったことを意味している。予測よりもはるかに早い凶報だった。二人はしばしの間その報告を噛み締めてから顔を見合わせた。
「落ち着き過ぎだろお前」
「そちらこそ」
この報告に二人はそれほど驚かなかった。問題がないわけではない。むしろ大問題である。急にタイムリミットが縮まる可能性が出てきたのだ。二人とも慌てることに意義を見出すようなタイプではなく、必要のない感情として処理されただけである。それに相手が相手である。可能性として考えておいて当然の事態でもあった。
「所詮は虫畜生だ。こっちの予測した通りに動くはずもないか」
ソウイチの言葉にディニヴァスは無言で伺う。対処はどうするか?
「対処?何で俺らが?文句は虫に言ってくれ」
悪びれもしないソウイチにディニヴァスは珍しく驚き呆れたがしばらくすると笑い出しソウイチの考えに賛意を示した。
それもそうだ。そもそもジェンス社などという存在の言うことを信じることの方がバカげているのだ。それに多少時期がズレただけの話。
しかし世の中は打算に辛辣だ。これで月のシナリオも歪みだすだろう。状況はジェンス社どころか全ての人間たちをも出し抜くところらしい。
だが、それでこそだ。ディニヴァスは不敵に笑う。
命は困難に塗れて生きてきた。それを打ち払わずして何が進歩か、発展か。相手も、虫も同じことである。奴らも数多の困難の果てにやってくる。虫が人の万難であるならば、人もまた奴らの万難であろう。
さぁどちらが生き残るか。どう生き残ろうとするのか。そこら中でドラマは踊る。世の事々、楽しもうじゃないか。
次回更新は11月予定です。




