9/4「仮面舞踏」
9/4「仮面舞踏」
ルビエールが遭遇した奇妙な襲撃事件から一夜明けた日、ニジョウ・リー・マハルとマチルダ・レプティスの2人はギガンティアに参じていた。
要件は先日のテロ事件の報告を受けるためだった。円卓にはアスターの他にオスロ・ロマーリオといったギガンティア騎士の主要メンバーが顔を揃え、ここ最近では珍しく7人の騎士に4名の従士と大勢が参じていた。従士とは騎士の下にあるギガンティアの構成員であり、騎士たちの副官であったり、ギガンティアという組織の内部で役回りを持っていたりと有り様は個々に違う。マチルダの副官であるキャシー・アグスティンもその従士の1人である。
事件の調査を担当したのはWOZ軍参謀本部隷下の参謀調査室だった。ある種の諜報機関であって公安部門とは異なるため不可思議な配置に思えたがその報告内容でその差配に皆が納得することになる。
参謀調査室の報告内容における核心、つまり敵対者の目的とは参謀調査室が直近で確保した要人である、ということだった。火星はこれを奪還、もしくは抹殺するためになりふりを構わない作戦に踏み出たと報告は結論していた。
「つまり貴方たちが確保したVIPが標的だったというわけですね」
「そう考えて間違いありません」
アスターは感情を含めず事実のみを確認しようとし、対する参謀調査室室長のダイスケ・ロガートも結論のみを述べた。
ここにいる者の何人かは例の事件でターゲットとなるか、あるいは近しい者をターゲットされていた。当然、事件のきっかけとなった参謀調査室に対していい感情は向かない。
「軽率だったね。被害が出なかったで済む話ではないように思う」
修道服に身を包む男が冷ややかに投げかけた。ジン・ロマーリオ。WOZ3大財閥の1つを構成し三大貴族の一角であるロマーリオ家の当主は実働派に属し、保守派の中核である軍部とは相反する立場にある。当然、その言葉は今回の件を参謀調査室の失態にしようとしていた。
「あら、わたくしはよくぞやったと思いますけれど。VIPを確保した功績を無視するのはどうかと思いますわ」
ロマーリオの言葉に異を唱えた金髪美貌の女はやはり三大貴族のカタリナ・エルロン・オスロである。若いながらも保守派のアスター、実働派のロマーリオの間でバランスを取り持つ中道派の重鎮である。
「結果論じゃないか。仮に誰かが犠牲となっていたなら、その確保したVIPにそれだけの価値があったと言えるのか」
「やめろ。そういう話をするために呼んだわけじゃない」
WOZにおいて最大級の権勢を誇る相手を黙らせたのはギガンティアの一言だった。何の抗弁もなく、両者は矛を収めた。
「ニジョウ。確保したVIPに関してはどうみる?」
ギガンティアに問われたリーは大貴族たちの視線を浴びながらも臆することなくしばし熟考した。オスロと同様に中道派に属するリーは他陣営からも信頼を置かれる良識派とされている。彼の熟慮は円卓でも知れ渡っており、その熟考も沈黙で受け入れるのが通例となっている。その長い沈黙はリーにとっては大きな重圧ともなっていたが転じれば強い信頼の証と言えた。
長考の末に出した結論をリーは口にした。
「現時点では使いどころのないカードと言わざるえません」
ため息をついたのはオスロだった。それ見たことかとロマーリオが笑う。
「は、使い道のない人間を確保してこの騒動か。それで、肝心のコウサカはどうした。面目なくて顔も見せられないか」
「コウサカ・ホロクはザルツカンマグートにあって同様の事態に遭遇しております。もちろんこちらに向かっている最中ですが、昨日の今日というわけには」
無表情にロガートが答えるとロマーリオは舌打ちをした。WOZを構成する3国の中でウォルシュタットとザルツカンマグートは物理的に距離があって昨日今日で来られる距離ではなかった。そしてギガンティア円卓では原則として通信での会議参加は認められていない。
続けてギガンティアがウンザリした顔で口を開いた。
「この件に関してコウサカにもロガートにも責任を問わん。恨むのは構わんがな」
ギガンティアとして処罰はしないとの明言。ロマーリオは不服気ではあったが矛を収める。そのままギガンティアは次の話に移った。
「して、今回の件をWOZとしてはどう受け止めるべきか」
再度話を振られたリーは用意していた言葉を披露した。
「火星が我々に全くコンタクトを取ることもなく事に及んだことは興味深いアクションです。やることが過激すぎる。そこまでしたのはなぜなのか。火星は我々と事を構えてもかまわない、そう考えているのか。ただ、個人的にこの線は薄いように思います。もう一つはどうあってでもそのVIPに消えて欲しかった。つまり我々が見出していない価値がVIPにはあるという可能性です」
現時点では使いものにならないと前置きしておいてリーはその手札に隠された不確定な価値部分を強調した。
実際、妥当な行程を数段飛ばしての暗殺劇は不可解だった。取られた手段から言えばWOZを激怒させるに十分な蛮行である。そうまでさせるほどの価値があるということになる。WOZにとって利用できるかどうかはさておき、それは確かめておく必要がある。
「解せませんね。ジョセフ・ハーマンの娘ならまだしも、孫なのでしょう?政治的な価値があるとも思えませんが」
これもまた用意していた言葉をマチルダが付け加えることで外務局の2人は話題を誘導した。
確保されたVIPとは先のドースタン大会戦の引き金となった男の孫娘グレイス・ハーマンだった。年齢は僅か15歳。マチルダの言う通り政治的な価値があるような存在ではない。人質としての価値もないだろう。それが不可解なことであることに気付いた者達は思考を優先して沈黙した。これを援護としてロガートは話を掘り下げた。
「そもそも我々がジョセフ・ハーマンの孫娘であるグレイス嬢を確保した経緯をお話しさせていただきたい」
ギガンティアが首是を返すとロガートは事の経緯を話した。
WOZ軍務局参謀本部参謀調査室はWOZに対する軍事的な危機の可能性を独自に調べる役割を持った諜報機関である。その任務の中には他国の政治情勢の把握も含まれる。
参謀調査室がジョセフ・ハーマンに対して関心を持ったのはマルスの手が政権を獲得してからの話だった。本来なら下野すると目されていたハーマンが政権に入ったことが注目を惹いたのである。ハーマンの目的が火星共和党の復権、さもなくばマルスの手の内部崩壊にあると洞察したロガートらは以降、ハーマンの動向を監視すると同時にその周辺に網を張った。
ロガートらの洞察はそれほど的を外していたとは言えない。しかし取り立てて実りがあったとも言えなかった。ハーマンは陰謀家ではなく、目的のために手段を選ばないというような人物でもなく、職務に対しては誠実だった。ある意味でロガートにとっては期待外れな人物であり、結果だった。
この時点で参謀調査室の監視は全く無益だった。ロガートがこれを中断してコストを他に回すべきだと判断しかけたとき、ピレネー事変が起こる。ジョセフ・ハーマンに舞台上の役割が与えられたのである。それと共に参謀調査室の積み上げにも価値が生じた。それでもハーマンが期待外れな人物だったことは変化しなかった。ピレネー事変後でもハーマンの選択は基本的に彼の善性に沿ったもので、機に乗じて動くというような姿勢は見せなかったのである。しかし、ハーマン自身がどうであれ彼に与えられた配役に伴って彼の周りの人物に変化が生まれた。
アマンダ・ディートリッヒがそのハーマンを利用しようとしていることをロガートは観測していた。同時にハーマンの親族が監視対象になったことも確認された。このことから総統府、少なくともディートリッヒがハーマンの独断行動を警戒していたことが伺える。
これらの動きからロガートらの監視活動は困難を迎えた。自分たちの存在を悟られないよう活動は慎重にならざる得ない。何かが起ころうとしているがそれを探りきれないことにロガートらは苛立った。しかし後になって見ればこの時に詳細を知ることがなかったのは幸いだったかもしれない。
そして事態はドースタン会談を迎える。火星がそうであるようにロガートらも地球連合大統領の思惑は測りかねていた。必然、その行動も注視する以上のことはできなかった。ロガートは直前のハーマンとディートリッヒの動きから火星側から何かのアクションがあることを予測していたがこれは何の根拠もない勘でしかなかった。
事態の急転を思い起こしてロガートは冷笑する。
「我々の予測はそれほど的を外していなかったと思います。ただ残念ながらその情報を何ら利することができなかったこともまた事実です」
そういうロガートではあるが他に誰が予測できて、どのように利することができると言うのか、という弁明の要素もそこには含まれている。そしてこの言葉には続きがある。
「ドースタンで何が起こったのか。予測はできますが立証はできません。しかしアマンダ・ディートリッヒがハーマンを用いて何がしかを起こしたことは確実です。我々はそれを知っている。我々が利するべきはそれだ、と考えたのです」
起こってしまったことはどうにもならない。しかし事はいまだ起こっている最中だった。ここでロガートは思い切った行動に出た。監視対象であったハーマンの親族の中で唯一火星にいなかったグレイス・ハーマンを拉致したのである。拉致、と言っても実際には保護したと言った方が適当である。ハーマンの親族を監視していたのは何もロガートたちだけでなく、ディートリッヒたちも同様だった。ドースタンに前後してディートリッヒはハーマンの親族たちを次々に拘束しており、それをロガートらは妨害したのである。火星内であれば不可能であるが、グレイス・ハーマンは共同体コロニーへ留学中だった。火星の治外にあったためできた芸当である。
「なるほど。グレイス・ハーマンは火星に対する手札というよりはアマンダ・ディートリッヒに対する手札になると考えたわけだ」
リーはロガートたちの狙いに納得した。それで火星そのものがリアクションを取ってこないことにも得心がいく。今回の件はディートリッヒの独断だということもここまでの話で描けるのだ。
しかし危険な賭けだ。参謀調査室はあくまで軍務局内部の諜報機関であって独断でそのような判断はできないはずである。当然、その裏には軍務局代表であるコウサカの意向が働いているとみるべきだ。リーは言葉にはしなかったがロガートは間違いなくコウサカの指示を仰いだか、もしくは予めそのように指示されていたはずである。
「そこで話は戻ります。ニジョウ代表の言う通り、相手のリアクションは過激でした。もちろん我々にとっても範疇外の反応です。この件に関しては大きな迷惑をおかけしました。しかし今回の件で我々はその過剰さ以上に不可解な点を発見しました。それは時間です。我々がグレイス・ハーマンを保護したのはドースタン直後の話です。それは比較的容易に達成できました。火星が本気でグレイス・ハーマンを重要だと考えていたのであれば昨日までの凡そ1か月、火星は手をこまねいていたことになる」
ロガートの指摘にリーを含めて何人かが考え込んだ。確かにグレイス・ハーマンがそれほど重要であるなら参謀調査室の拉致を許してしまったことはともかくとして、ここに至るまでの動きに間が空き過ぎている。ロガートは続ける。
「ここから考えられる可能性は2つ。1つは我々に対する対応を決めかねていた可能性。しかし実際にとられた行動の過激さから言えば現実的ではないでしょう。もう1つは状況の変化。グレイス・ハーマンの価値が変動し、無視できなくなった可能性です」
状況の変化か。それが何であれ対象の価値が急変動したと考えれば火星の急な動きは説明できる。問題はその変化になるが。リーはドースタン以降の変化を振り返ったが心当たりの多さに苦笑した。
息を呑む気配がしてリーはその出元であろうマチルダを見た。そしてリー自身もマチルダと同じ思考にたどり着いた。
「ロバート・ローズか」
この言葉の意味を理解できたのはギガンティアとアスターくらいのものだった。もっともロガートにとってはその4人だけ理解できれば充分だった。
「ロバート・ローズとグレイス・ハーマン。それぞれ一枚のカードであれば特に気に留めるほどのものではないでしょう。しかし、この2枚が1つのデッキに含まれていると知ったとき、事件に関わりのある者はどのような想像を働かせるか。今回の件で我々はある推論に確信を抱くことになりました」
ロガートは一同を見回すと重大な推論を確信として口にした。
「ドースタン会談におけるゴールドバーグ大統領暗殺はアマンダ・ディートリッヒによるもの」
ロガートの報告を聞き終えた円卓のメンバーたちは黙してギガンティアの反応を待った。うち何人かはギガンティアから意見を求められたとしても窮しただろう。
当のギガンティアは珍しく瞑目して熟考していた。いつもなら迷うなり、解らないなりしたときは周りの者に意見を聞くので珍しい態度だった。目を開けたギガンティアは引き続きロガートを視線に捉えていた。
「つまり、そのアマンダ何某はこっちにロバート・ローズとグレイス・ハーマンがいることで被害妄想に陥って藪蛇を突いたと言いたいわけか」
「御意」
端的な表現ながらギガンティアの呑み込みの良さにロガートは満足げに頭を垂れた。
リーは状況を自分自身と置き換えて想像した。
ドースタン会談の生き残りであるローズと、ハーマンの孫娘がほぼ同時期にWOZに確保された。これを偶然として流せるだろうか。無理だろう。何らかの意図があるものと考えるはずだ。では、ディートリッヒはどう考えるだろうか?その思考傾向をリーは知らないが、情報大臣という肩書を思えばかなり飛躍した予測をするかもしれない。だからこそ行動が過激化した。それもこれもディートリッヒ個人がドースタンの黒幕であると考えれば納得できる。これはロガート自身も言う通り単なる推論だろう。しかしリアリティがある。
なるほど、面白くなってきたな。
リーは既にロガートの推論をほぼ受け入れて思考を進めていたがギガンティアの方はまだ慎重だった。思索を切り上げると再度ロガートに向き直る。
「いくつか確認したい」
ロガートは黙ったまま続きを待った。
「まず相手の目的がただの奪還・救助だった可能性はないのか」
「規模、また作戦の杜撰さから言っても抹殺と考えるべきでしょう。どれだけ重要な人物を奪還するにしてもテロ紛いの陽動が必要なようには思えません。どちらかと言えばどさくさに紛れて抹殺することも考慮した陽動と我々は考えております」
「誤魔化せれば儲けもの、そうでなくても抹殺できればよし、ということか」
「もう一点付け加えるなら、投入された戦力の実戦テストという側面もあったかもしれません。もっとも、それは事件の本質とは無関係でしょう」
投入された戦力。同じ見た目をした暗殺者たちに関しては報告書にまとめてはあるものの触れてはいない。これらの暗殺者はティアフォルクらの協力もあって全て撃退することに成功し、いくらかは捕縛に近い状況にまで持って行けた。しかし、最終的にその全員が自決するという薄気味の悪い結末を迎えたと報告書は記す。この暗殺者が何者であるかからディートリッヒに辿り着く可能性はあるが現時点では考慮する必要はないとロガートは考えていた。
ギガンティアはふんと鼻を鳴らすだけで満足したようにもしていないようにも見えず次の確認を行った。
「お前はアマンダ何某の企みと言ったが、火星自身が企てた可能性は?」
「その点に関しては否定できません。ですが考えるにしても材料が少なすぎます」
ロガート自身はディートリッヒの独断だろうと考えている。事後に総統府から消極的な同意を得た、というのがディートリッヒらしい流れと見ている。とはいえ、大部分は推測に過ぎない。
要点はああまでして地球連合大統領を暗殺しようとした理由である。少なくとも総統府には大統領暗殺を強行する理由がない。もちろん、敵対者の首領を狩ることは戦術的には有効な策ではあるが、それは総統府が考え、まして実行するようなこととは思えない。しかしロガートはそこまで悩まなかった。言った通りこの疑問に関しては材料が少なく、現時点で考えてもしょうがないし、知ったところで大した問題とも思えないのだ。
「少なくとも事が公になれば火星総統府はディートリッヒの独断として処断しようとするでしょう。我々に必要なのはそれだけで十分に思います」
今度はギガンティアも頷いて納得した。真実がどうであれ、表向きはそう処理されるのであれば誰が考え付いたかなど今は考えてもしょうがない。
確認を終えたギガンティアは腕を組み不敵に笑う。
「それで、ディートリッヒの被害妄想は、本当に妄想なのか?」
この発言にはさすがのロガートも意表を突かれたらしく言葉を詰まらせた。しかし辣腕をならしてきた男は即座に精神を立て直すと不敵に笑ってみせた。
「それは、お考え次第かと」
「だ、そうだ。ニジョウ」
そうして出番はリーに回ってきた。とんでもないキラーパスにリーは苦笑を隠さない。ギガンティアの意向を咀嚼してリーは切り出した。
「なるほど。確かにこの2枚の手札があれば真実がどうであれ、アマンダ・ディートリッヒをドースタン会談の黒幕として演出することができるでしょうね。ディートリッヒが同じ思考にたどり着いたのであれば今回の凶行も納得できます」
恐らく、この考えは正しい。ディートリッヒはそれを恐れて強引な手段に出たのだ。ロガートの言う通り、ドースタンの件は立証が不可能なのだが、不可能であるからこそ如何様にも演出できる。情報と言う武器に真実という組成は必ずしも必要ないのだ。
とはいえ、それは魅力的な手段とは言い難い。
「残念ながら我々には利点を見出せませんね。それをやってもディートリッヒが切り捨てられるだけの話でしょう」
スケープゴートがハーマンからディートリッヒに代わるだけのことだ。火星との関係を悪くするわりに大したダメージにもならない。それに既にロバート・ローズに関してはマウラに引き渡すことが決定しているのだ。あまり勝手なことはできない。
もちろん、だからと言ってグレイス・ハーマンに価値がないとは言えない。この先もディートリッヒは火星の主要人物として居座るだろう。そのディートリッヒの急所を突ける手を持っている、そう思わせるだけでもディートリッヒに対しては優位に立てる。
リーの表情があれこれと打算をしているのを見てギガンティアはニヤニヤと笑う。
「使いこなせるか?」
意地の悪いことを言うのでリーは困った顔を浮かべて首を振った。ギガンティアの所望は解りきっていた。
「そうですねぇ。相手のリアクション次第なところもありますが使いどころはありそうです。軍務局が許すのであれば、お預かりしましょう」
グレイス・ハーマンは対ディートリッヒとして確保しておくだけでも価値がある。結局のところリーは手札の価値を認めてグレイス・ハーマンをもらい受けることにした。
「どうだ、ロガート」
「コウサカ代表にお伝えします」
問われたロガートは恭しく礼をしたがこの場での返答は避けた。これは単に彼にその判断ができないというだけの話である。とはいえギガンティアが望むのであればこの件に関しては外務局に移管されることは間違いない。そもそも軍務局のコウサカではこの手札は効果的に扱えないし、ディートリッヒも対峙すべき相手ではない。コウサカは最初からリーに売る算段だったはずである。
「失礼します。よろしいでしょうか」
しばらく席を外していたキャシーが戻ってくるなり話を切り出し、驚きで皆の注目が向いた。従士の中では筆頭格であるキャシーであっても騎士とギガンティアの話に割り込むことは不敬に当たる。もちろんそれを承知していないキャシーではない。それは騎士たちも承知している。つまりそれだけ重要な話だと言うことだった。
キャシーは一つ呼吸を挟んでから皮肉に表情を歪める演出を交えた。
「火星共和連邦外務大臣のアマンダ・ディートリッヒからコンタクトが入りました。就任の挨拶、とのことです」
殊更に外務大臣という部分が強調された。ディートリッヒはハーマンの後任となったのだ。顔を見合わせて皆がキャシーと同じ表情を浮かべた。
「痺れを切らしたようで」
ロガートが陰気に笑う。ギガンティアは不敵に笑いニジョウに指示した。
「よろしい。ニジョウ、話を聞いてやれ」
「ニジョウ代表」
円卓での話を終えてディートリッヒとの対峙に意識を向けていたリーを不意に呼び止めたのはロガートだった。あまり2人で話をする相手ではなく、リーは驚いた。
「一つお耳に入れておくとよいと思うことがあったので手短に」
つまり、円卓では伏せていた情報ということになる。リーは頷くとロガートと庭園のあぜ道を歩き出した。
「先の事件で投入された火星側のエージェントですが。大方は射殺、もしくは自決と報告しました」
「そう聞いている」
「実は一人だけ拘束しており、うちで確保しております」
リーは仰天して足を止めた。
「なぜ報告をしない?」
ロガートは珍しく苦笑という表情を見せた。
「これがなかなか奇妙な話でして、詳しい話は実のところ私も聞いておりません。ともかくコウサカ代表のご指示で伏せておくようにと。とはいえ、生きた実行犯がいるというのは駆け引きの材料になりうるかと思いまして」
なるほど。ディートリッヒが差し向けたのであればそれが生きていることを仄めかせば隙を見せるかもしれない。しかしこの話、俄かに信じがたい。藪蛇にもなりかねない情報だろう。
「コウサカ君のやることだ。その話を信用することは構わない。しかし手札にはし難いところだな」
「もちろん、その点はニジョウ代表のご裁量かと」
「やれやれ、またもやキラーパスか」
リーの嘆きにロガートは陰気な笑いに一礼を沿えてその場を去った。
やれやれ、何を考えている?敵方エージェントを捕縛したところで大したことはできないだろう。ディートリッヒを牽制するのに必須の要素とも言えない。
そこまで考えてリーは頭の中のホワイトボードをリセットした。これはリーの思考でコウサカのものではない。コウサカは軍事に身を置く人間であり、その思考はリーとは異なる。案外とそのエージェントそのものに価値を見出しているとしてもおかしくはないだろう。
ギガンティアでのタスクを全て終えたロガートは宮殿を後にするなりその進捗を直属の上司であるオガサワラ・ナガトキに報告した。
「あのような場所で喋るのは私の職務に含まれていないと思っていましたが」
報告の最後にロガートは憎まれ口を付け加えた。通信の向こうでオガサワラの苦笑が漏れ聞こえる。
ロガートは自身の役割を裏方と認識している。本来なら公的な場に出てくるようなことはするべきではないのだ。しかしその役割を為すべきオガサワラはコウサカらと同様にウォルシュタットにいなかったため代役として出席することになった。事態を招いてしまったこともあって断り切れなかったのだ。
「ご苦労でした。ニジョウ代表に捕虜の件も?」
「はい。しかしその件に関しては蛇足に思えますが」
「同感です。しかし全く報告しないというわけにもいかない」
「予め巻き込んでおいたと言うわけですな。そこまでする理由が解りません。お聞きしてもよろしいですか?」
「こちらも話せることは多くないんですが」
そう念を押してから少しの間を置いてオガサワラは話始めた。
「まず件の暗殺者ですが、調べたところでは正真正銘の人間と結論されました」
「ほう」
この情報にロガートは意外さを感じた。軍事諜報機関の人間であるロガートには世界中で研究されている強化人間計画が念頭にあった。人間をハードウェア的な部分から改良する共同体のネピリム計画がその代表的な事例である。件の暗殺者もその手の強化人間であろうとロガートは予測していたのである。オガサワラもそう考えていただろう。純粋な人間である、というのは予測を外している。もっとも、だからといって真っ当な人間であるとも思っていないが。
「確認された24体のエージェントはそれぞれ同一のDNAを持っていました。人為的に作られた存在であることは間違いありません」
クローン。技術的には可能である。クローン兵という発想も昔からある。しかしこの発想は実現した例がない。いくつもの難点があるのだ。一番は人間を大量生産する意味がないことだ。現状、世界の人口は飽和状態にある。ようするに人間は余っているわけだ。わざわざ軍部で生産して育成するのはコストの無駄となる。もちろん人道的な問題、そして使えなくなった後の処理など運用上の問題も非常に多い。少数の使い捨てとしてなら使えないわけでもないが、それなら強化してしまう方がいい。つまり強化もされていないクローンなど作る必要がないのだ。
「何のためにそんなものを作ったのかが解らない。ということですね」
「その通りです。純粋に道具としての人間を作りたいならネピリムのように強化する方が効率的です」
ネピリム機関の強化兵士は現時点でもっとも現実的な強化兵プランとロガートらは評価していた。素体として優秀と見做せる子供に強化改造を施した後に訓練を行う。子供の適応能力を逆用した忌むべき方法ではあるが安定的で効率的な方法だった。もっとも、それですらコストと不安定性に見合うだけのメリットが得られるのか懐疑的なところがある。
「それで、連中が何を作ろうとしているのか探ろう、というわけですか」
「理屈の上では」
「理屈?」
つまり、ここまでの話は建前ということか。話が妙な方を向いてロガートは興味をそそられた。
「一番の理由はその捕虜の投降動機です」
「そうか、投降でしたな。考えてみればおかしなことだ」
他のエージェントは自決したとの報告を受けている。そのように教育されているのだろう。そこにロガートは大した違和感を覚えなかった。機密保持の観点から望ましい処置であるからだ。
しかし、その一人だけが投降した。拘束された、と言うのはその後のことだ。考えてみればおかしな行動だった。その性質から考えてもそのクローンエージェントは何らかの手段で自由意志をはく奪されているはずである。その一体が示した行動は矛盾している。
最初に浮かんだのは罠であるが、作戦そのものの目的と稚拙さを見ればそこまで複雑なことが仕込まれているとは思えない。考え過ぎだろう。
では、その行動の意味とは何なのか?
それこそバイオソルジャーが持つ不安定性の一例ともとれるのだが、それはそれとして動機があるというなら興味深い。
「で、その動機と言うのは?」
ロガートは知的好奇心でその答えを待ち望んだがオガサワラの方はそれに全く答えられないことを承知していたので苦笑することになる。
「彼女は、自由意思による亡命を希望しています」
「は?」
ロガートは耳を疑った。クローン兵が亡命を希望するだと?つまりそのエージェントは個人意思を持っていて、自身の境遇からの脱却を志向しているということか。
それではまるで。人間ではないか。
ロガートは自身の思考を異常とは思わなかった。クローン兵に個の存在証明を認める法制などどこの国にも存在しない。そもそもそのような思考を持たせることも異常だ。デメリットだらけだ。
一体全体何を考えてそんなものを作り上げたのか。
「不可解ですな」
ロガートの言葉にオガサワラも同意しつつも続ける。
「何をどこまで信用すべきなのか。彼女をどうするのか。これの正解を導くなら何にせよ彼女を生み出した計画の全容を明らかにする必要があるでしょう」
「それが次のタスクなわけですね」
ロガートはそのタスクに遣り甲斐を感じた。
ネピリム計画とは異なるアプローチで人間を作り出す計画。道具として割り切ってはっきりとした目的を与えているだけネピリムはまだ純粋だろう。ただの人間を作り上げて、あまつさえ何を目的としているのか解らない謎の計画。まともな神経ではない。そのような人間の闇を覗き込むことほどロガートの知的探求心を満たすものはない。
「優先度は高めでお願いします」
「1週間以内に最初の報告をします」
いつになくやる気のロガートに内心危うさを感じながらもオガサワラは通信を切った。
ロガートの知的探求心は闇が深ければ深いほど強くなる。その結果、暴き出される真実は触れる者を必ずしも愉快にはしない。ロガートが嬉々とし報告してきた情報に吐き気を催したことはオガサワラですら一度や二度のことではないのである。
実はオガサワラはこの件に関して一つだけ黙っていたことがある。それは件の捕虜のもう一つの投降動機なのだが、あまりにも馬鹿々々しくて信用する気にならないものだった。話したところでロガートも馬鹿々々しいと考えるだろう。しかしこの一つこそがもっとも重要なキーだった。この同機によって件の捕虜に関する扱いはとんでもないアクロバットをすることになるのだが、この時のオガサワラは知る由もない。
WOZ外務局に火星からのコンタクトがあったのはその翌日だった。非公式な電話会談は外務代表ニジョウ・リー・マハルと火星情報大臣兼外務大臣となったアマンダ・ディートリッヒの2人で行われた。表向きは外務大臣就任の挨拶という体ではあったが過去火星側からそのような挨拶がされたことはない。大戦に関わる懸案。もしくは恫喝が目的と推測できる。もっともそれは建前で実際にはディートリッヒの個人的な目的が裏に隠されているだろう。
「火星共和連邦外務大臣のアマンダ・ディートリッヒです。お初にお目にかかります。ニジョウ代表」
「WOZ外務局代表ニジョウ・リー・マハルです」
リーは普段の柔らかい笑みを潜めて相手を歓迎していない態度を示した。ギガンティアの意としてWOZは火星側には加担しないことが確認されている。それを解っていない相手でもないだろう。先の事件もあってこの会談の内容が好意的なものだとリーは考えていない。
「では早速ですが要件をお聞きしましょう。我が国は他国の争議、一切願い下げる。このことを念押した上で」
リーの露骨な対応はディートリッヒの持つ情報とは乖離しており、多少の困惑をもたらした。もちろんその原因には心当たりがあるが、ディートリッヒの感覚ではそういった感情は隠されるものだった。この感覚のズレはディートリッヒに不快さを与え、心にささくれを生じさせた。
「もちろん、WOZの方針は存じ上げております。しかし、聞くところによればWOZは先のドースタンにおける地球連合の敗残兵を救助したとか。ご存じのことと思いますが火星共和連邦と地球連合は係争の最中。もしそれが真実であるなら、我々もWOZに対する考え方を改めねばならないでしょう」
その口調に少量の敵意が含まれた。リーの方は僅かに首を傾げディートリッヒの詰問の狙いを理解できていないように振る舞った。
「それを聞いてどうするのですか?」
「言っていることとやっていることの違う相手を信用はできませんわ」
ああ、なるほど。と表面上の納得を見せたがリーは内心で冷笑した。WOZにとって火星側からの信用などどうでもいいことだったし、それを正直に話したところで火星からの信頼など得られるわけもない。WOZ側には答える必要がまるでない。それは火星も同じはずだ。
火星には現時点でWOZとの関係を悪化させることには何のメリットもないはずだった。同盟相手の共同体はいずれWOZとの対決を指向して火星に協力を頼んでくる可能性はあるが、地球連合との対決が済むまでは相手にするわけがない。情勢が不安定なときにWOZに旗色をはっきりさせられては困るはずである。地球連合の敗残兵に便宜を図る程度のことで関係を悪化させるのはバカげている。
ではなぜこの女はそれをつついてくるのか。もちろんロバート・ローズの存在は無視しかねる要素かもしれないが火星からローズに対して積極的なアクションを起こすことは蛇足にしかならないはずだった。
この女は何を知りたいのだろうか?解っていながらリーは付き合うことにした。
「確かに、人道的な配慮によって地球連合軍の艦艇を保護しております。彼らは追い詰められており、何をしでかすか解りませんでしたからね」
リーは嘘をついていないという確信があったので表情を作るのに苦労しなかった。ただ、一部が欠けているだけのことだ。もちろん、この説明にディートリッヒは納得しなかった。その顔にイラつきがチラつく。
「人道的ですか。そのような方が一方で無垢の民間人を拉致されるはずもないと思いますが?」
瞬間、リーの中でピースがはまった。やはりこの女が実際に探りたがっているのは参謀調査室の確保したグレイス・ハーマンの方なのだ。公的にはグレイスは火星にとってはただの民間人に過ぎない。いちいち外交トップの話として話題になることの方がおかしい。
「民間人の拉致?さて、あなたの口からでるのですからそれは火星共和連邦の方のようだ。しかし我々WOZには望み、望まれた者のみが踏み込めます。亡命などであればそういう方もいるかもしれませんが。拉致などという話は聞いたことがありませんね。具体的な身元を提示していただければこちらで確認して報告させていただきますが?」
「いいえ、結構です。ただし我々火星共和連邦は同じ火星人に対するあらゆる脅威を排除するであろうことは覚えていただきましょう」
おっと、脅しにかかるには早くないか?リーは内心で苦笑した。
「ご存じの通り、我々火星共和連邦は共同体と同盟を結んでおります。現時点ではその同盟は対地球に限定されたものですが、この先もそうであるという保証はございません。互いの利益となる振る舞いをWOZには期待しますわ」
ディートリッヒからの一撃にリーは顔色を変えなかった。ディートリッヒにしてみれば釘を刺したつもりなのだろうが、元よりWOZは火星側に与するつもりはないし、共同体と結託した時点でそうなることは覚悟している。それを既にリーは態度で示しているのであるが、どうやら足りなかったようだ。
「我々WOZは他国の争議一切願い下げる。これは日和見に靡く相手を選んでいるわけではありません。我らWOZは自身の領域を犯すものあらばこれを実力によって排除するということです。何者かが争議にこちらを巻き込むというのであれば、その甘い見込みをその血と誇りで贖っていただくことになる。これは国家であろうと、個人であろうと同じです。お判りいただけましたか?」
リーは意図的に侮蔑の色を表情に加えた。振り回されるのはこちらではない。そちら側であるとはっきりと布告したのである。これは一国の外交責任者としては極めて大胆な発言だった。しかしリーはこの会談が外交責任者同士の会談ではなく、一人の陰謀家とのさや当てに過ぎないことを看過している。この女は敵である。それを相手に表明しておくことは悪いことではない。
「そして、そのための牙を研ぐことを我々は怠ったことはありません」
この脅しがはったりではないことはカナンの戦いによって歴史にはっきりと刻まれている。ディートリッヒは鼻白んだ表情で黙りこんだ。ディートリッヒ個人の都合の為に火星とWOZで戦争を始めるわけにもいかないが、相手はいざとならばそれも厭わないことを突きつけてきたのである。
いくらかの人間はカナンの戦いが宇宙戦争黎明期のまぐれ当たりと考えている。酷いものでは宇宙戦争の形が出来上がった現代なら国力に勝る共同体・火星ならWOZを押しつぶせると考えている。軍事に明るい者はこれに失笑する。現実にはWOZ軍は常に宇宙戦争における先頭ランナーであり、これを譲り渡したことなど一度もないのである。
WOZ軍は現代宇宙戦争にもっとも適応した軍隊である。それは技術的な話だけでなく、組織体系やイデオロギーなど多岐に渡る。さらに言うならWOZ軍は過去最高レベルの状態にある。コウサカの名を存命のまま襲名した男、コウサカ・レオノール・ホロクによって編成されたWOZ軍は他国のような複数の思惑によって動く組織ではなく、一つの意思を共有した群体として完成されている。軍だけではない、WOZは軍も外交も内政も最終的に全てが一つの意思に帰結するのである。国家としてこれほどの強みをリーは知らない。
WOZ軍が宇宙戦争において常に先頭ランナーであることをこの女はどこまで認識できているだろうか。個人の問題を国家の権勢を使って解決しようと滑稽なまでの不用意さで噛みついてきた女にリーは軽蔑を隠さない。
この時、リーの脳裏にある種の悪戯心が芽生えていた。捕縛された暗殺者がいることを仄めかせばこの女はどのようなリアクションを示すだろうか。話の展開次第でリーはこの情報を漏らしてしまう誘惑に抗えなくなりそうだった。
幸いと言うべきか、この話はこれ以上続かなかった。後はお定まりの連絡強化などの話がされニジョウとディートリッヒの最初で最後の会談は僅か15分で終わりを告げたのだった。
会談を終えたディートリッヒは表向き平静を取り繕えていた。激怒するよりやらねばならないことがあり、それが憤怒のやり場にもつながっていたのである。
ディートリッヒの心証ではWOZはグレイス・ハーマンとロバート・ローズを用いてディートリッヒを貶めようとしていると断定されていた。客観的に見ればそのような行動にメリットはないと考えることもできるはずである。ディートリッヒのこのような心理は自分自身がその手の企みを駆使することに由来していた。
何かを、何かをせねばならない。ディートリッヒはぐるぐると部屋を歩きまわっていた。目標の達成は不可能であるにしてもこのまま侮られていたのでは主導権は向こうのままである。WOZに釘を刺してそのような行動をとれば手痛いしっぺ返しが起こることを知らしめる必要がある。決して思惑通りにならない、させないということを相手に示さねばならない。
ディートリッヒはそう考えるがこれは次に自分がとる行動を正当化するための方便に近い。
しばらくするとディートリッヒはひらめいて今度は共同体のモールに工作を命じた。
その一手はディートリッヒに利益をもたらすような手ではなかった。単に自分を蔑ろにする相手に泥を喰らわせてやりたいというディートリッヒの内面的な満足感を得るための一手であり、傍から見れば嫌がらせに分類されるようなものだった。
失敗したところでこちらには何の不利益にもならない。ディートリッヒはそう考えていたし、実際にディートリッヒの想定を外したような不利益は発生しなかった。しかしこの時、アマンダ・ディートリッヒは自身でも気づくことのない錆を抱えてしまうのである。
遠く離れた地で火星とWOZの会談結果にほくそ笑んだのはディニヴァス・シュターゼンである。結果そのものは予想通りだった。共同体と手を結んだ時点でWOZと火星の関係が上手くいくはずはないのだ。ディニヴァスを愉快にさせたのはディートリッヒの滑稽極まる対応である。WOZに自身の急所となりうる材料を握られたと見るや否や手駒を送り込んで強引に抹消を計り、失敗するとこれを包み隠すために脅しをかけようとした。順序が違えばこの脅しもそれなりに響いただろうが今回の場合は苦し紛れにしか映らない。
あの女は墓穴を掘った。その気性とプライド、虚栄心が完全に裏目に出たのである。その醜態にジェンスの送り込んだロバート・ローズがスパイスとなったことは彼に愉悦をもたらした。
手間も省けた。ジェンス社としてはディートリッヒの動きを抑制するために主敵を用意する腹積もりがあったのだが期せずしてWOZがその役割を引き受けてくれたのである。この先、ディートリッヒはWOZを睨み、WOZから睨まれながら動かなければならないのだ。
ざまあみろである。
「しかしこれで火星とWOZが相争うのは問題ではありませんか?共同体にとっては望ましい展開かもしれませんが、火星にそこまで余裕ある状態とも思えません」
ディニヴァスの秘書官であり、同時にWOZのモールでもあるアユミ・エナレスはさり気なくジェンス社の思惑を計ろうとしてきた。ディニヴァスは承知の上で快くこの問いに答える。
「何の問題もない。いま現在WOZと火星の間に懸案など存在しないのだ。何せ今回の件はディートリッヒの個人的な問題でしかないんだからな」
WOZ側はそれを見抜いているから動じないし、火星総統府は知らんぷりを決め込むはずだ。要するに今回の件はディートリッヒ一人が藪蛇に噛みつかれて七転八倒しているだけなのだ。益々愉快ではないか。
「今回の件で火星総統府とディートリッヒの間に溝が生じる、もしくは生じさせる手ができたわけだ。WOZがそれをどう扱うのか。興味深いところだな」
この会話はこのモールを通じてWOZの知るところとなるのをディニヴァスは承知している。
ディニヴァスは情勢の変化に伴ってWOZとの付き合い方を見直すべき時期に来ていると考えている。変化させるつもりがある、というよりは互いに認識を確認しておかねばならないということである。ローズの件もその一環となる。過去の感情的な問題を抜きにすれば今のところWOZとジェンス社の方向性に衝突するところはなさそうである。互いにその認識を共有できれば少なくとも不可侵の関係はこれまで通り維持できるだろう。その先となれば感情的な問題も解決する必要があるが、それはあちら次第だ。
ここまでのメッセージにエナレスは頷いたが一つだけ大袈裟な懸念を提示した。
「しかし、ディートリッヒが共同体を操ってWOZと火星が衝突せざるえない状況を作り出すことはありえませんか」
明らかなやりすぎ、暴走と言えるケースである。普通なら笑い飛ばすところだがエナレスのこの進言にはWOZ側の慎重さも垣間見える。
「なるほど、全く0ではないな。方法としてはありえる。そうできる、という脅しにもなる。
しかしディートリッヒがそれをやるとなると総統府を手中にするくらいでないとな。あの女にそれだけの度量があるかどうかと言えば、疑わしいがね」
火星総統府もディートリッヒが危うい人材であることは充分解っているはずだ。よもやあの女が権力の中央に座ることなどないはずである。
この言い草はジェンス社がディートリッヒに肩入れする気がないことを伝えている。ディニヴァス個人としてもディートリッヒにはその資格がないと捉えている。WOZの好きにしてくれて結構だ。ジェンス社としても火星とWOZが争ってもらいたいわけではない。これは間接的にであってもジェンス社がWOZに不利益を与える意識がないことも伝えている。それどころかWOZが火星に不利益を与えかねないことを許容していた。
十分な情報を得たと判断したのか、エナレスは引き下がった。その姿を見送ってディニヴァスは仮面の下で自嘲気味に笑う。
まどろっこしいことをやっているものだ。形式上の対立関係が維持されているとはいえ、実際にはジェンスとWOZは明文化されていない同盟関係に近いとディニヴァスは見做している。WOZが本気でジェンス社を敵対視しているのなら、今すぐこの首を跳ねてしまえばいいのである。
結局のところギガンティアもギガンティアで分厚い面の皮を仮面にしているのである。誰も彼も同じこと、珍しくもない。




