6/1「とある真実の死」
グラハム・D・マッキンリーの歴史講義「ドースタン大会戦その2」
第一次星間大戦及び第二次星間大戦という呼び名は度々議論を提起される。
その根拠は第一次星間大戦が妥結を見ることなく第二次星間大戦へと雪崩れ込んだことにある。
何せ250年も続いた第一次に対して第二次は僅か5年程度の争乱に過ぎない。つまり第二次星間大戦は第一次星間大戦に含まれる戦役の一つと見做すべきであり、星間大戦に一次も二次もないだろうということだ。
これは理屈の上では一理ある。さっきも言ったように第一次星間大戦には妥結はなく309年時点では休戦状態だったわけだからな。これが再開されただけとすることもできるだろう。
ただしこれは後世の我々の理屈だ。私はこの考え方は好きではないし、真っ向から反対したい。
その最大の根拠は、当時の人間がまさにこの戦いを第二次星間大戦と呼んだからだ。
余談だが地球連合では“大戦“という呼称も当初は好まれなかった。名目上は国家間紛争ではなかったからな。ただ規模の大きさから世間では大戦の名で定着したようだ。
さて、ではなぜ当時の人間たちにとってこの戦役が第二次星間大戦と呼ばれるようになったかだ。それは戦いの様相が一変したことに由来する。
第一次星間大戦とはつまり火星の独立戦争と呼ぶべき性質のものであるのに対して、第二次星間大戦は地球と火星の覇権争いと呼ぶべきものとなった。地球が攻め、火星が守るという構図は消え去り、コロニー国家共同体・月と言った第三国家勢力も絡んだこの戦役は第一次大戦の性質とは全く異なるものになった。当時の人間ですら新しい戦いと映ったんだろう。
そしてもう一つ。その戦いの終わり方も第二次星間大戦を一つの戦いとして記録しようとした理由になったのではないかと私は考えている。
さて、その第二次星間大戦の始まりは二つの意見に分かれる。一つはピレネー事変を起点とする説とドースタン大会戦を起点とする説の2種だ。
実際にピレネーの件も軍事衝突であるため起点として説得力はあるのだが私はドースタンを推したい。なぜならピレネーの時点では先ほど言った大戦そのものの性質が変わったとは思えないためだ。ピレネーの時点では両国ともに様々なオプションを検討する余地はあったはずだ。実際、ここからドースタンまでの間に多くの動きがあった。
309年の後半、ドースタンでの会談はまさにその帰結と言えるだろう。
大戦の様相を変える転機となったのはドースタン大会戦における地球連合大統領ルーサー・ゴールドバーグと火星共和連邦外務大臣ジョセフ・ハーマンの会談とするべきだろうと私は考える。
この会談には謎が多い。それは結末以外のあらゆるところに散見される。発端・過程いずれも不可解なことだらけだ。
多くの作家がこの会談の顛末に想像を馳せてきたが私はそのいずれにも確実な信を置くことはできない。この歴史の闇は君たちそれぞれの想像に任せ、私はただ事実のみを語ることにしよう。
6/1「とある真実の死」
ドースタンとフランクリンベルトの中間にある宙域において両軍は相対した。両者の間にはジェンス社の誇るグレートウォールが互いの防壁、あるいは障害として居座って牽制する。このグレートウォールの戦力それ自体も両軍にとっては無視できないだけの力を持っていた。
地球連合軍は前哨戦の戦力に第七艦隊を加え、火星共和軍はサンティアゴ兵団を加え、双方の持ちうる最大の戦力で事に当たっている。
かつてこれだけの軍事力が一堂に会し、睨み合うという状況が存在しただろうか?艦船の数だけであればそれが一個の戦闘単位であった宇宙戦争初期の方が多いだろう。しかし艦船がHVの移送手段と化した現代では1個艦辺りの運用人数は大きく違う。戦力として見れば最大級の会敵と見て間違いはない。
ローマ師団第八大隊旗艦アイアスの窓からの壮大な光景を見ながらカリートリーは一個人の小ささを実感していた。
「大佐。大統領閣下から通信です」
意識を引き戻されたカリートリーは通信画面に立って珍しく身だしなみを気にした。彼とて一国の首長を相手にすることはなく、大統領警護という役割は実体はともかくとして名の上では存外の栄誉と言えるのである。
通信越しとは言え連合大統領の姿を見たカリートリーは緊張した。
その姿は明らかにくたびれていたが目には腹を括った男の狂気に近い覚悟が見える。クリスティアーノの洞察通り、彼は全てを信じておらず、自ら決着をつけようとしている。
「第14特殊戦略師団第八大隊のトロギール・カリートリー大佐であります。閣下の警護をさせていただきます」
ゴールドバーグはカリートリーの名乗りを無感動に受け取っていたがしばらくするとその背後の繋がりに思い至ったようだった。
「マウラか。どういう思惑かは知らんが、あまり首を突っ込まない方がいい」
「そのつもりです。閣下。我々は全てを見届けるためにおります」
「そうか」
どこか安堵したようにゴールドバーグは頷いた。それは邪魔を恐れるというよりは巻き添えを増やすことを心配しているようにカリートリーには映った。
「知っているだろうが私はジェンスの連中と行動している。会談場所もここになるだろう」
思い切ったな、とカリートリーは思った。しかしかえってその方が安全と大統領は考えたのだろう。ここで大統領に何かあればジェンス社にとっては大迷惑となる。
「では、我々の仕事は会談終了後ということになりますな。成功を祈っております」
「本当に?」
思わぬところに食いつかれてカリートリーは動揺を隠すのに苦労した。
「もちろんです閣下。戦争など避けられるなら避けた方が賢明です」
なるべく感情を付与せずに淡々と答える裏で白々しい言葉を口にする羽目になったと心の中で悪態をついた。
もちろん、実際に成功するかどうかについては触れなかった。火星がドースタンを引き渡すなど考えられない。そんなことになればピレネーからの一連の流れはマルスの手の勇み足に終わる。そうなればマルスの手は支持を失う。急激に得たものほど急激に失われる。恐らく、マルスの手による政権は壊滅的なダメージを負うだろう。
もっとも、その方が火星にとってはマシなことになるかもしれない。
カリートリーは一瞬そんなことを考えた。その考えに興味をそそられはしたが、すぐに自分の領分ではないと思い直し頭の片隅にしまい込んでしまった。
地球連合の大統領であるゴールドバーグはグレートウォールの中心たるミストレスにあった。単純にそこが会談の場となるという理由もある。本当のところは地球連合の誰とも接触するのを避けるためだった。カリートリーの推測通り、ここに至っては身内よりもジェンス社の方がよほど信用できると彼は考えていたのだ。
それでも安心のできる環境ではない。大統領という職責柄、睡眠を奪われることは珍しくもないことだったが、今は彼自身の手でそれを抑制せねばならなかった。
外部との連絡を請け負うローズが貴賓用の部屋に入ってきた。
「相手はジョセフ・ハーマン外務大臣です。大物ですよ」
「かつての、だがな」
会談相手を知ったローズの無邪気さに呆れながらゴールドバーグは重要な前置詞を付け足した。それほど驚く相手ではない、むしろ想定通りだった。
力を失った旧支配勢力の重鎮。箔はあるが力はない。火星の警戒感の裏返しとゴールドバーグは考えた。しかし、当のハーマンは何を考えているだろう、政権に課せられたタスクをただ粛々と果たすのか。
さて、この老人は火星の何を背負って現れるのかな?ゴールドバーグは自らの賭けに必要な条件が整ったことを確信した。
「さて、改めて質問だ」
ローズの表情がこわばった。彼はゴールドバーグに連れられて暗中を歩かされている心持ちだった。
「火星はドースタンを引き渡すかな?」
「無理でしょう」
ローズは解りきったことを言った後に少し考え、さらに一言を付け加えた。
「特に、マルスの手にとっては」
ゴールドバーグはこの補佐官の知性に満足して頷いた。
「だろうな。だが、ハーマンはマルスの手ではない」
「それは確かにそうですが、彼にそんな権限ありますかね?」
あるはずがない。むしろ勝手なことをしないように二重三重に対処をされているだろう。その上で煮るなり焼くなり好きにしろ、とマルスの手は考えているはずだ。
「ないな。つまり、彼は俺と境遇が似ているということだ」
「なんとまぁ」
ローズは小さく嘆息し、大統領をまじまじと見つめた。ゴールドバーグならではの発想だった。
「つまり、一人の人間の良心に訴えかけて勝手な判断をさせるということですか」
ゴールドバーグは複雑な笑みを浮かべた。ローズはどうやら自分の動力を良心か何かだとでも思っているらしい。ない、とは言い切れないにしても、いまゴールドバーグを動かすエネルギーとしてそれはあまり役には立っていない。
「それなりの打算はしてあるつもりだ。もっとも狂気の沙汰であることに違いはないと思うが」
根拠というには薄弱であるが、ゴールドバーグはちょっとした期待を抱いていた。ただそれを地球連合大統領という男が頼ることに皮肉を感じずにはいられない。
「お前の言うようにドースタンを無条件で引き渡すなどということは火星にとっては受け入れがたい。特にマルスの手にとっては。そうなれば火星の政権は壊滅的なダメージを負うだろう。だが、これはマルスの手以外にとってはどうだろう」
ローズは息を呑んだ。
「ハーマンは…火星共和党です」
つまり反主流派だった。彼が地球よりも火星の内側の敵に重きを置くならば隙は生じるかもしれない。
さらにゴールドバーグは付け加える。
「火星共和党であり、マルスの手を生み出した主犯の一員であり、そして…老人だ」
最後の一言に忌々しさが込められた。
火星共和党の捲土重来を期すにせよ、政権の暴走を止めるにせよ、実現した暁には別の問題を残す。ただ、その問題こそ時代の敗北者たちの渇望するものでもあるはずだ。それは老人に身を挺させる理由付けとなるかもしれない。
火星共和党の凋落は老いと腐敗を避けられるものはないと天に突き付けられた布告だった。全ては破壊と創造を繰り返す。このスパンは微妙に食い違っており、この綾こそ時代に大きな波をもたらす。名宰相の余命があと数年あれば、天災の発生がわずかでもズレていれば、そういった事例は数多い。
振り返れば、火星共和党の崩壊こそが全ての始まりだったのだ。ハーマンにはその責任を背負っていただく。
ゴールドバーグは自らの無責任極まる行動を棚に上げながら相手の使命感と矜持を煽ろうというのだ。
なんと破廉恥な考え方か。
言ってみればこの賭けは地球と火星において歴史の敗北者となった者のディスタンスであってそのロマン性こそがゴールドバーグのベットの根拠であった。こればっかりは誰にも言えない。
そこまで考えたところでゴールドバーグは思索を切り上げて顔を横に振った。
「もちろん、こいつは分の悪い賭けだ。論理的でもない。仮に成功したところで喜ぶのは何も知らない一部の自称平和主義者くらいのものだろう」
もちろん、ゴールドバーグはその中に含まれないし、そんな連中のために賭けをしているわけでもない。
ゴールドバーグにとってこの賭けは成功するか、しないかの問題ではなかった。それどころか彼は自分自身の行動の展望を何一つ用意していなかった。
それで一体、どうなるんです?
聡明なローズは口に出かかるこの一言を呑み込み続けている。ゴールドバーグはこの青年に感謝しなければならなかった。
「こんなことに巻き込んでしまって申し訳ないと思っている」
「いえ。確かに混乱はしてますし、ついてこなければよかったと思っていますけど。逆でもやっぱり後悔してたと思います」
率直な言葉にゴールドバーグは久しぶりに笑いを声に出した。
できればローズに報いてやりたかったが、この賭けの展望を予測することは不可能であるし、先を見通せてしまえば身動きが取れなくなることは明白だった。
どちらに転ぶ結果になっても正しく報われるとは限らない。無責任極まる賭けに展望を述べることもまた無責任だとゴールドバーグは考えていた。
「悪いがもう少しばかり付き合ってもらいたい。その後は、好きにしてくれ」
時間が迫っていた。ゴールドバーグは立ち上がった。ローズも肩をすくめてゴールドバーグに付き従う。
さて、その好きにできる状況にはどれだけの選択肢が残されているのだろうか。ローズにはどう考えても悲観的な予測しか浮かばない。
「ねぇ大統領閣下。思うんですが、今からでも遅くないのでみんな家に帰ってミルクを飲んで寝ませんか?たぶん、そいつが一番幸せですよ」
ここに至っては不要なものと判断したのか。礼儀を金繰り捨ててローズは言った。もちろんこれは本心でも何でもなく、ただの皮肉である。この皮肉に笑って頷き、理解を示しながらもゴールドバーグは付き合うことはなかった。
「決着はもうほとんどついている」
どういう意味であるにしてもゴールドバーグの言葉は正しいだろうとローズは直感した。同時に自分の皮肉にあるような状況は得られないだろうことも。
如何なる形で状況が変化したところで、それは今日までの世界とは異なる理屈によって構成されることになるだろう。
事変。
とんでもない場に立ち会わされている。そう思い至ってローズは身体を震わせた。
通常、大国の要人が会談を行うとなればその準備は数か月を要し、配置される人員も大規模になる。後に歴史に名を残すことになるドースタン会談はあらゆる通例の外にあった。
会談のホストにあたるジェンス社は会談の参加者を3名と定めてきた。これまでの極秘裏会談でも同様のことだったので驚くには値しない。
両国ともに大々的に準備をする時間はなかったし、注目をされることも嫌っている。互いに今回の会談は結果に応じて公表する腹積もりだったこともあってジェンス社の要求は受け入れられた。そもそもジェンス社を通じなければ両国の会談は調整すら時間がかかっただろう。
「さて、大統領閣下は初めてのことなので改めて説明させていただく」
会談の直前現れた仮面の男にローズは思わず後ずさった。
「我々ジェンス社は会談の警護を行うがそれはあくまで会談の警護。内部での一切の争議はこれに関わらないので悪しからず」
ジェンス社はあくまで中立の体裁を保つ。会談の外は守るが内で起こることには関知しない。ジェンスがマルスの手に肩入れしていると推測しているローズにはよくない想像を掻き立てる言葉だった。
「例えば、僕がハーマン代表を暗殺したとしたら、どうなります?」
ローズの問いに仮面の男はそこで初めてローズの存在を認識したかのようにコミカルに驚いて見せた。表情の見えない仮面に笑顔が透けるように思えてローズはゾッとした。
「そいつは恐ろしい発想だ。しかしどちらかと言えばハーマンが君たちを、という方が説得力はあるように思える。ま、気の利いた聞き方をしてくれたことには感謝しよう」
仮面の男は全てを見透かしているとでも言いたげにローズの言葉の裏をつついた。
「もちろん、そのような事態は我々にとっては困る。我々はどちらにも加担したくはないのでそうならないよう務めるが、そちらも精々刺激しないようにしてもらいたい。外はともかく、中で殴り合いをされても我々は止められない」
どちらにも加担したくない。果たしてそうだろうか。穿った味方をすればしたくないというのは気持ちの問題だけで実際にはそうせざるをえないということは考えられる。
納得しかねているローズに仮面の男は見えもしない笑顔を維持した。
「大事を起こそうしているのはむしろそちらの方だろう。何事か企んでいる時、その相手も企んでいるものだ」
「少なくとも、そう思えるし、思われているだろう」
仮面の男の言を補強するようにゴールドバーグがつないだ。この話はもう十分だと言っている。
結局のところ、信頼の問題である。疑いだせばキリがないのだ。どこかで呑み込まないと話は進まない。
虎穴に入らずんば、というやつだ。もっともゴールドバーグには然したる持ち込みはないし、踏み込もうとしている洞穴にいるのも虎児ではなく年老いてガリガリの老虎だ。得るものなどなにもなく、案外と何事も起こらず徒労に終わるかもしれない。
歴史的な場としてはその議場は極めて簡素だった。ほぼ正方形に近い部屋は10人もいれば狭く感じるほどのスペースしかなく、室内を照らす照明と椅子、テーブル以外の物は置かれていない。尋問室だと言われても納得する者はいるだろう。
この部屋は二つの入り口があり、二つの勢力の待機部屋に繋がっている。
地球側はゴールドバーグ、ローズ、そして身辺護衛のためのSP1名と人類史上でも最大国家の長とは思えぬ頼りなさである。加えて、このSPは2人の出立直前に無作為に選びだした者で決して選び抜かれた精鋭というわけではなかった。連合大統領はほとんど裸同然でこの場に立ったと言える。
待機室を素通りしてそのまま議場に入ったゴールドバーグは不思議な気分になった。彼にとって会談とは多くの人間に見守られて行われるものであり恐ろしいほど周到な打ち合わせを得て挑むものだった。今回のそれはほとんど密談と呼ばれるべきものだ。しかしその内容が国家どころか、人類全体に影響を及ぼしかねないのである。
ゴールドバーグは密かな満足感を覚えた。
どのような結果になろうが、歴史の端に追いやられた男によって歴史は急カーブを描くことになる。歴史はこの事実をどう記すだろうか。あるいはこれこそがゴールドバーグへの報酬であるかもしれなかった。当の本人がそれを受け取るわけではなかったが。
そう待つこともなく、火星側の3人は現れた。口を出す立場にないローズは自身を含む6人を熱心に観察した。
最後の舞台と腹を括っているルーサー・ゴールドバーグはにわかに鋭気を取り戻したかのように見える。対するジョセフ・ハーマンはむき出しの警戒感の裏に嫌気を滲ませている。ある種の怯えがあるように見える。
ハーマン以外の2人は如何にも屈強な男たちでその筋の訓練を受けた強者であることを容易に想像させた。正直なところローズと間に合わせのSP2人では太刀打ちできそうになさそうだった。とはいえ、これはこっちの問題で文句を言う筋合いはない。その時はその時と諦めるしかない。
そもそも、ここで何らかの行動をすることは自分の役割ではないだろう。ローズは心の中で溜息をつきながらもここで起こる全てを記録しようと集中した。
切り出したのはゴールドバーグだった。
「他に見ている者もいないことです。儀礼的なやり取りは抜きにして単刀直入にいきましょう」
黙っているハーマンを了承と受け止めてゴールドバーグは続ける。
「お判りと思うがこの会談の目的は先のピレネーの件の収拾にあります。列強は怒り狂っており、このままいけばルクレール戦役以来の軍事衝突となるのは間違いない。私は、これを止めたいと願っています」
ゴールドバーグは言いたいことはあるかと促した。返ってきたのは沈黙だった。
感銘を期待したわけではないにしてもハーマンの沈黙はゴールドバーグにとって期待外れの反応だった。彼は穏健派ではなかったのだろうか。
ハーマンは何も語らず、ゴールドバーグはハーマンを観察したためしばらく場は沈黙に支配された。沈黙は思考ではなく、拒絶であると認めたゴールドバーグは咳ばらいの後に話を続けた。
「私はこれを転じてチャンスではないかと思っています。つまり、両国の和平の」
老人の眉の動きをゴールドバーグは見逃さず、結論を提示した。
「そちらにとって認めがたいことを承知で提言させていただくが、この戦争の最終的な終結とは、火星共和連邦の従属化、あるいは友好国化、このどちらかをおいて他にないでしょう」
もちろん、前者は受け入れ難いだろう。後者とて難しいと感じるはずだ。再びハーマンの表情が硬化したのを感じた。ゴールドバーグもそれは計算の内だった。ここで彼は核心に踏み込んだ。
「後者を選択していただきたい。それが唯一の道です。同じ人類が未来永劫敵同士であるのは悲劇だ。残念ながら一度にそれを解決する策を見出すことはできません。ならば、後に託せばいい。我々は次代のための犠牲となるべきなのです。そのために必要なのは」
ゴールドバーグは一度口を閉じた。その必要なものを相手は当の昔に無くしている。そしてゴールドバーグ自身も。そもそも一個人の持ちうるものでは到底足りないものだった。それを承知の上でゴールバーグは語る。
「時間です。それこそが重要なのです。一気にことを進める必要はないのです。250年続いた戦争です。同じだけの時間をかけて終わらせるくらいの気持ちでもいい。戦争を起こさないラインでの譲歩をじっくりと繰り返し、互いに利益を与え合う。その果てにいずれ地球と火星は互いを友とすることを目指すのです。月のように。その一歩をこの会談で踏み出したい」
歯の浮くような感触をゴールドバーグは覚えた。人間はそんな先のことまで考えてはいられない。それより前のことの方がよほど気になるものだ。誰よりこの論を信じていなかったのはゴールドバーグ自身だったかもしれない。しかし時には自身でも信じていないことをあたかも実現可能なように振る舞うことも人の上に立つ者の手段だった。
戦争を回避しつつの友好国化、ハーマンにとって無視できる論ではないはずである、無視する権限がないと言うべきか。
しかしハーマンの表情は硬化したままであった。
「利益とは?我々は常にあなた方の搾取に対して抗ってきたにすぎません。これまでに失われたものを無視しての和解などあり得るのでしょうか」
お前たちは奪い続けてきた側でないか。そう叩きつけるように感じた。これを覆す言葉をゴールドバーグは用意していなかった。その必要を感じなかったのだ。
これからの問題とこれまでの問題。この2つは長らく争いの解決において障害となってきた。これまでの問題は感情によって成り立ち、取り戻すことのできない傷跡として残り続け、時に争いを続けたいものの方便とすらなる。これを解決する術を見出した者はいない。争いの解決とはこの問題をどう覆い隠すかにかかっていると言っても過言ではない。少なくともゴールドバーグの結論はそれであった。
落ち着き払ったゴールドバーグの態度はいっそ冷厳だった。彼はハーマンの投げかけを、過去の問題を完全に無視したのだ。
「それに対して責任を持つべきなのは過去の人間であって、今、そして未来の人間ではありません。いっそ故人に背負わせてしまえばいいではありませんか。始めたのは彼らだ。終わらせるのにも責任を持ってもらいましょう」
ゴールドバーグの言葉に対するリアクションは絶句であった。ハーマンだけでなくローズも地球連合という巨大国家を預かる者の言葉とは思えぬ発言をどう受け止めるべきか判断がつかなかった。
完全なる責任の放棄。しかしそれこそが権利と責任、自由と義務に翻弄されてきたゴールドバーグの出した結論でもあった。ただこれは理解の得られるはずもない結論だとゴールドバーグは考えていた。なので彼はハーマンの思考を待たずに切り口を変えた。
「まぁ、どちらにしてもそう長くはありません。火星の経済は計画経済となっている。これは地球に対抗する上では効率的であり、政治を回すものにとっても都合がよろしかったでしょう。しかしそれゆえに経済発展の上では足かせとなってしまっている。火星が資源的な優位にありながら国力の差を縮められないのもそこに原因がありましょう。火星の国家としての発展は頭打ちになっていると言ってもいい。決して遠くない未来、火星の国力は相対的な弱化を免れない。その時になって地球に従属するなら、それもよいでしょう」
ハーマンは意表を突かれ考えこんだ。確かに火星建国以来の国家体制は単に地球に対抗するためのもので、これが火星の発展にとって大きな枷になっていることは事実だった。しかしそれは長らく火星を支配してきた火星共和党にとって都合のいい形でもある。この分析はハーマンたち火星共和党のやり方に対する痛烈な嫌味だった。そしてこの手法はマルスの手によってより極化されることになる。
この先、火星だけが発展に取り残される。つまり火星の防衛戦略は永遠不滅のものではない。やがて火星は軍事負担に耐えかねて弱体化し、負ける。これがゴールドバーグの主張であった。
この話はかなり先の話であるがハーマンの善性はそれを預かり知らぬことと切り捨てることはできなかった。ゴールドバーグは尚も畳みかける。
「しかし戦争による負担が取り去られればどうでしょう。火星はそれまでの軍事リソースをどう使いますか?」
火星は潤沢な資源を元に強い立場を得られるかもしれないとゴールドバーグは示唆する。
都合が良すぎるだろう。ハーマンは表情を変えずに心内で頭を振った。地球はそうならないように手を尽くすだろうし、先鋭化した今の火星の若い世代がそれを上手く躱せるとも思えない。
結局、ゴールドバーグの主張はハーマンの心には刺さらなかった。論に隙があったわけではない。ハーマンには既に別の道筋が提示されていた。いつかも解らないはるか未来ではなく、そう遠くはない5年という先の道が現実的に見えていたのである。
「要求をお聞きしましょう」
ゴールドバーグは不意に突き離されたような感触を覚えたが表面上は姿勢を維持して突き付けた。
「ドースタンを引き渡してもらいたい。当然、その周辺にある縦深拠点は破棄していただく」
この要求はハーマンの予測をそこまで外したものではなかったが総統府に受け入れられる範疇ではなかった。この要求は持ち帰ったところで蹴られるだろう。
「ドースタンはもっともこちら側に近い拠点で心理的な衝撃も測り知れない。受け入れられないでしょう。せめてレスティオではどうですか」
今度はゴールドバーグの方が突き放す場面だった。表情を微塵も動かさずに淡々と宣告した。
「残念だが外務大臣。これは交渉ではないのです。言ってはなんだが、この状況はあなた方が招いたものだ。ピレネーの件。これに対して責任はとってもらう。ドースタンは頂く、頂かねばならない。そうでなければ列強は納得しません。つまり、戦って奪われるか、引き渡すかの二択。この要求は、我々の、そして貴方たちの被害を最小に留めるための処置でしかない」
深くため息をついたハーマンは次の言葉を探した。
ドースタンを無条件で引き渡すとなれば総統府は重篤なダメージを負う羽目になるだろう。そして現実的な側面としてもいま現在の火星を担うマルスの手には5年という戦争計画を持っている。だから総統府は絶対に受け入れない。
結論は明白だったがハーマンはそれを口にすることを躊躇った。その結論を告げることはつまり戦争の開幕を意味しているのである。
「無理でしょう。政府は戦わずしてドースタンを明け渡すことを認めません。例え政治的判断でそうしようとしても民衆が、火星人がそれを認めない」
ゴールドバーグは何かを確かめるようにハーマンを見つめている。くたびれた男の双眸は冷たさとは異なる別種の何かで淀んでいた。
ハーマンはその眼に見覚えがあった。鏡の前でよく見るものだ。その眼を淀ませているものも解る。
諦観。彼はその行動とは裏腹に何にも期待していない。
この会談はただの物別れに終わるだろう。そうハーマンが思った時、枯れた男は動き出した。
「本当に?」
長い沈黙の後に呟かれた一言。このゴールドバーグの切り口はハーマンの動揺を誘った。
「どういう意味でしょうか」
「あまり明け透けに言うのは避けさせていただくが。私があなたに問いたいのは、民衆、つまり火星人とはいったいどのような人間を差すのかということです。それをよくお考えいただきたい」
この時ハーマンを揺り動かしたのは自身の理念だった。ハーマンは火星人だったが先ほどまでの彼は火星人の外務大臣でなく、マルスの手の外交官だった。
火星人とは何者であるのか。マルスの手はその一部でしかないはずであった。むしろそのたった一部の声を全体のものかのように演出し、煽動し火星を戦争に導く根源でもある。その病巣を打ち倒すためにハーマンは恥を忍んでいたのではなかったか。
ゴールドバーグのいう言葉はハーマンにとって最高の、そしてマルスの手にとって最悪のシナリオを想起させる。確かにハーマンたち火星共和党ら反主流派にとっては戦争を回避しつつマルスの手の信頼を失墜させる願ってもない展開である。それはまさにハーマンたちが地球に対して仕掛けようとしていることそのものでありその効果をハーマンはありありと描くことができた。
「ハーマン卿。あなたのご立場は理解している。お苦しいでしょうな。長らく、火星人の代表であった火星共和党の凋落を許し、マルスの手の台頭を手助けした」
この言葉はハーマンの古傷を抉った。しかし去来したのはゴールドバーグへの嫌悪とは異なる感情だった。
「もちろん、そうならぬように努力はしたでしょう。今こうやってこの場にいるのも決して権力に迎合したからではない」
話の確信に迫りながらゴールドバーグはハーマンの背後に控える2人の護衛の身じろぎに注意を払っていた。この2人のどちらか、あるいは両方はハーマンの子飼いではないだろう。この話にハーマンが乗るとするなら彼の次の一手は一つしか思い浮かばない。
「一度休憩を挟みたい」
「ええ、もちろん」
「では10分。いただきます」
ハーマンは席を立つと待機室に姿を消した。護衛の1人が後に続き、1人は残った。
ローズのこっちは戻らないのか?という視線を無視してゴールドバーグ動かなかった。疲れるほど長く喋ってはいないし、ゴールドバーグの方に考えるべきことはあまりなかった。実際、ゴールドバーグの思考は大して意味のないことを考えていた。
どうやらハーマンの護衛は2人ともマルスの手らしい。彼は孤立している。これは想定を外したものではない。むしろそうでない方が誤算だし、厄介だろう。だからと言って喜べるような気分ではない。
気の毒だな。というのがハーマンに対する率直な感想だった。彼は多くのものに縛り付けられている。もっとも全てを放り捨てた上で好き勝手をやっている自分の同情を彼は有難がらないだろう。
「さて、彼はどうでるかな?」
この呟きはほとんど独り言に近いものだったがローズともう1人のSPは顔を見合わせた。SPは顔を勢いよく横に振って拒否した、当然である。ローズは自身の思考を封印して状況の記憶に徹していたがその情報を引き出して意見を述べた。
「正直なところ、上手くいったようには思えませんね」
ローズから見てもゴールドバーグの論は矛盾したところがあるわけではなかった。物は言い様である。長期的に見れば火星の国力は戦争によって封殺されていると捉えることはできる。あくまでこのままの状況が続けば火星の国力は相対的に弱化する時期がくる。あくまで、今の状況が続けば、であるが。
「どうも火星には別の道筋があるようですね」
「そうだな」
ゴールドバーグはまるでスポーツの結果でも予想しているような口ぶりだった。どうなろうが関係ないとでも言うようである。
「ま、このまま解散だな。で、私は失脚。引退して隠居生活だな」
どこかさっぱりしたような口調でゴールドバーグは言う。
「まだ終わってませんよ。正式な会談ってことになるんですから覚書程度はしときませんと」
呆れ口調でローズは言う。自分たちの行動の保証としても必要である。
「それもそうだな。さて、内容はどうしたものか」
気のなさげに言うとゴールドバーグは不意に表情を変えてローズを見た。怪訝な顔をしてローズが見返すと地球連合大統領はバツの悪そうな顔をして頭を掻いた。
この瞬間、大統領補佐官ロバート・ローズは数奇な運命のジェットコースターから放り出されることになったのだった。
待機室のカウチに身を降ろしたハーマンは顔を伏せた。10分という時間は考えをまとめるにはあまりにも短かった。考えるべきはもちろんゴールドバーグの奸計だった。
確かにマルスの手を引きずり下ろし、今回の騒動はマルスの手の暴走ということにすれば論としては立つだろう。時が立っているとはいえ、まだ火星共和党には政権運営をするだけの能力は残っている。むしろ今を逃せばその能力はどんどん下がっていくだろう。今ならば火星共和党は復権し、火星は正常さを取り戻す。
しかしその結果は火星にとって望んだものであるのだろうか。確かにマルスの手は火星人の一部でしかない。しかしそれはハーマンにも突き付けられる真実である。ハーマンら火星共和党もまた火星人の一部でしかないのだ。
火星共和党が運営する火星こそ正常という考えも思い上がりではないか。そう考えたところでハーマンは悄然とした。
その思い上がりこそが火星共和党を腐敗させたのだ。
それまで部屋の一角で彫像のように立っていた男がハーマンの正面に座った。
「どのようなことをお考えになられているか、お聞かせくださいませんか?」
ディートリッヒから派遣されたエージェント。恐らくは専門の訓練を受けているだろうエージェントはカウンセラーのような極穏やかな口調で語りかけてきた。しかしハーマンの心中は穏やかでいられるはずもなかった。当然、この男たちの仕事にはハーマンの監視も含まれているはずだった。
その男の投げかけにハーマンは困惑した。彼らの職務遂行にハーマンと語らう意味はないように思われる。数刻の躊躇いを見せた後にハーマンは慎重に言葉を紡いだ。
「どうも、ルーサー・ゴールドバーグという男は底の知れない男だ。彼の言うことは仮に実現すれば火星にとって致命的なダメージとなるだろう。それこそ、戦争どころの話ではなくなるだろう」
事実だけを述べたハーマンの言葉はエージェントを納得させるようなものでないはずだった。しかし男は深く頷いてハーマンの言葉に理解を示す。
「ああ、安心しました。私もそう思います」
相手の不可解な応対に顔を上げたハーマンに思ってもいないものが目に入った。
「これをご覧ください」
エージェントが懐から取り出した物にハーマンは目を剥いた。銃だった。極秘裏に持ち込めるように特殊な細工を施された極小型化されたものである。とはいえ、気づかれることなく持ち込めるものなのか?
「なぜそんなものを」
「持っていけとのご指示でしたので持ってきました。ご承知の通り、ここへの武器の持ち込みは禁じられております。にも関わらずジェンス社の警備はこの銃を見過ごしました。この意味を大臣はどのようにお考えになりますか?」
つまり見て見ぬ振りをしたのか。寒気がハーマンの全身を駆け巡った。マルスの手とジェンス社の繋がりはこれまでも感じてはいた。しかしこれほどまでに深入りしているのはハーマンの想像の範囲外だった。
「ディートリッヒ、彼女の命令は何だ。それで何をするつもりだ」
「私に与えられた命令は2つ。一つはあなたの監視。場合によっては殺害です」
相手は淡々と答えた。もっともこれはハーマンにとっても織り込み済みのことだった。二つ目に関しても大体想像はつく。
「二つは連合大統領ルーサー・ゴールドバーグを必要なら殺害することになります。この銃はこちらの方に重点を置いたものだと私は考えています」
ハーマンは大きなため息をついた。ディートリッヒはそこまでゴールドバーグを危険視していたのか。とはいえ、実際に彼の奸計を聞かされた今となってはその危惧も理解できなくはない。
「勘違いなされないように念を押しておきますが、これはあくまでオプションです。この銃に役割を果たす機会が与えられないケースもあるでしょう。ともかく、手段として存在しているという点だけは」
思いもがけないルートの存在にハーマンは考えこんだ。
連合大統領の暗殺。
彼はあくまで名目上の地球元首でしかないかもしれない。彼は地球の代弁者ではない。しかしだからこそ恐ろしい相手かもしれない。改めて考える必要があった。
彼の策謀はハーマンにとって、いや火星にとって脅威だった。
仮にマルスの手が失墜し、火星共和党が復権したとして、それだけで済むだろうか。そんなはずはない。火星の政情は弱体化し、地球連合は要衝たるドースタンを手に入れる。そこを策源地にさらなる侵攻をしないと誰が言えるのだろうか。例えゴールドバーグにその気がなくともチャンスを目の前にして大人しくしている連合列強ではないはずだった。
一度の譲歩が際限のない要求を生み出し、やがては理念諸共に呑み込んでいくだろう。それこそ火星が地球に目論んでいたことでもある。
もう一点、恐ろしい想定はゴールドバーグが策の成功によって力を得ることである。火星共和党にとって最大の協力者となる彼は火星と地球双方に影響力を持ち、これを活用することでより強大な存在になっていくかもしれない。ハーマンにはそれはかなり現実的なシナリオに思えた。
いずれにしてもハーマンにとって受け入れるべき手ではないのは間違いない。しかし、恐ろしいのはこの手は何も今でなくとも、そしてハーマンでなくとも成立するという点にある。
地球連合は火星に、マルスの手に打撃を与えさえすればいい。そうすればマルスの手に対して不信を募らせるものは必ず現れる。その勢力を相手取ればいいのである。これは火星共和党の一強であった時代であれば不可能であったが、成立したばかりで風呂敷を広げ過ぎたマルスの手であれば充分に通用する。
またしても、である。ここでも火星共和党の敗北が顔を出す。まるでハーマンにその責任を取れと迫るかのようだった。実際にはハーマンの想像は悲観的に過ぎたのだが、これを客観的に諫める相手をハーマンは伴っていなかった。むしろディートリッヒにそれを煽られてハーマンは悲観思考に拍車をかけていた。
そうしてハーマンは改めて自分の手にある選択肢を見渡すことになった。ディートリッヒの撃ち込んだ楔が彼にとって思ってもない道筋に光を差し、願ってもない手段をほのめかす。
ゴールドバーグは地球の元首ではない。しかし、そうなる資質はある。これが過大評価であったとしても地球連合の政体に激震を走らせるのには充分である。本来なら連合の反主流派にやらせようとした事変を自らの手で起こせるチャンスということでもある。
未来の勝利を勝ち取るためにも、未来の敗北を取り除くためにも。理屈は十分にあった。
エージェントは銃のグリップを向けると恭しくそれを差し出した。ハーマンが驚いたように身じろぐと首を傾ける。
「私には決断する権限がありません。もちろん、何らかの手筈をお決めになるのであればそれでも結構です。私が預かりましょうか?」
なるほどな。ディートリッヒが自分を選んだ理由をハーマンは察した。結果の内容に関わらずあの女は全てをハーマン一人に押し付けるつもりなのだ。
老人、最後に火星のために死ね。
ハーマンはディートリッヒにそう言われたように感じた。
あの女は気に入らない。自らの目的のために理念をも利用し、状況を動かそうとしている。しかし、そのようなマキャベリズムこそがこの難局に必要なものかもしれない。現実問題としてハーマンはゴールドバーグに対抗する術を持っていなかった。
そう、自分と火星共和党には戦う資格がないのだ。
ハーマンはここに至って自らを歴史の敗北者であると認めた。
再び現れたハーマンの顔にゴールドバーグは覚悟をみた。その覚悟がどのような結末を導くのか、ゴールドバーグには解らなかった。敢えて考えることはしなかった。それを知るのに然したる時間は必要なかった。席に着くなりハーマンは毅然と表明した。
「要求は受け入れられないでしょう。あなたの主張に関しては聞かなかったことにさせていただきます」
「そうですか」
事実上の戦争開幕を意味するこの言葉をハーマンは相応の覚悟で放ったつもりだった。対するゴールドバーグの反応は素気のないものでハーマンにそれを織り込み済みであると思わせた。
ハーマンにとっては現在進行形の問題で、ゴールドバーグにとっては過ぎた話題であった。ハーマンはゴールドバーグには次の悪辣な一手があると思った。ゴールドバーグにはそんなものはなかった。
2人の敗者はこの時、この場に限ってはどうしようもないほどにすれ違っていた。
そうして破断は訪れた。
不意に突き付けられた銃口にゴールドバーグは大した反応をしなかった。隣にいたSPの方が仰天したくらいである。彼は即座に2人のSPと相対したが実際には封じ込められた。
誰もがハーマンの次の行動を待った。その時間、実際には数秒であったが部屋の中の時は停止したかのようだった。
開戦こそ止む無しとは思っていたがハーマンは決して大統領の暗殺を覚悟したわけではなかった。しかしゴールドバーグの素気のない態度がハーマンの敵愾心を刺激した。結局のところゴールドバーグの無責任さ、不誠実がハーマンの激発を誘い、彼の命脈を絶ったと言える。歴史には記されることはなかったが。
引き金は弾かれていないが弾かれたも同然だった。理論上は止めようもある。ハーマンが銃を降ろす。ただそれだけのことである。たったそれだけのことがあまりにも遠い。後世の人間にしてみればなんとバカな行動と言われるだろう。しかし当事者たちの誰一人、この結果を回避する手立てなどないと確信してそれぞれ別のことを考えていた。
ハーマンは自身の所業を思い出していた。自らのしてきたことに責任を負わなければならないと考えていた。彼は火星人であって火星の独立を勝ち取ることを宿願とする者である。決して火星に鎖を繋げる者ではない。
しかし現実はどうだっただろう。火星共和党の腐敗を見て見ぬ振りをし、マルスの手という新たな勢力に敗北した。そこまではよかっただろう。しかしその後の老人たちの意識は火星人のそれではなかった。彼らは自分たちが失ったものを取り戻そうと躍起になった。その相手は火星人であった。
ハーマンもかつてはそういった手合いを相手にしたことがあったはずだった。若い者に取って代わられるを避けようと無様に足掻く老害たちを苦々しく見送ったことは一度や二度のことではない。まさにその老人たちこそ今の自分であった。
恥ずべき行為ではないか。この男はそれを利用しようとしたのだ。そんな相手を信用などできるはずがない。
ジョセフ・ハーマンは火星人である。それこそ彼が最後に縋った理念だった。信じるべきは地球人などでなく、火星人であるべきなのだ。
一方でゴールドバーグの胸に去来したものはちょっとした失望程度のものでしかなかった。彼の人生においてこれまで経験してきたものに比べたら取るに足らない躓きとでも言うようだった。
最初から上手くいくとは思っていなかったのだ。予想外の幕切れではあるが。ジョセフ・ハーマンは個人の理念よりも火星人の理念を選択した。それがゴールドバーグの解釈だった。となると、かなりの無礼だったかもしれないな。と自身の死を目の前にして彼はそんなことを考えた。
突き付けられた銃口とハーマンを交互に見やった。
「まぁ、何というか」
動揺して言葉を詰まらせるのでなく、あくまで整然と。ゴールドバーグは手短に簡潔に自分の考えを伝えられる言葉を探していた。それが恐らく最後の言葉になるだろう。色々と考えたいことはあったが彼にはその時間は与えられない。
別の方法、あるいは理屈であればハーマンを説得できただろうか。まぁ考えてもしょうがないか。実は最初から正解はなかったということも十分に考えられる。人生というものはそんなものだ。そう思った時に言葉は自然と出てきた。
「とても残念だ」
それが最後の言葉だった。他に言うことはないと彼は口を結び、ハーマンの番だと言うようにまっすぐに彼を見据えた。
とても残念だ。その言葉がハーマンに響く。
全てを諦観しながら、ゴールドバーグは心底そう思っているようだった。ハーマンは考えずにいられない。
地球連合国大統領。この男は敵だったのだろうか。そのはずだ。そうであるべきだった。
ハーマンの思考は枯死していたのかもしれない。火星共和党という枠組みの中で生きてきた彼にとって地球とは敵でなければいけなかった。実際にはその脅威を利用する共依存の関係にあっても最終的には打ち倒すべき敵であるべきだ。
待て、誰がそれを定義したのだ?
そもそも火星人などという人種は存在しない。火星人も地球人も同じ人間である。地球から入植してきただけの300年ごときの歴史しか持たない。ただナショナリズムの異なるだけの存在ではないのか。
それ以上は考えることができなかった。彼の思考はぐちゃぐちゃになっていた。個人の理念と火星人としての理念が衝突して出鱈目に思考を紡ぐ。そのどれもハーマン自身の行動とは矛盾しており、水に弾かれる油のように拒絶された。
引き金は既に弾かれている。行動が思考を阻む。選択が人格を否定する。
最終的にハーマンが選んだ選択はやはり火星人たる自分を守ることだった。彼は結局のところ敵と味方、その枠組みの真意からは目を背けた。彼は火星人としての名誉を取り戻そうとし、その名誉は永遠に汚されたのである。
歴史は彼らに未来を用意しなかった。片方はそのことを覚悟していた。片方はそうではなかった。その事が後の歴史に大きく作用することになる。当然、2人には知る由もないことだった。
ハーマンは引き金を弾いた。その引き金は役割を大きく逸脱した。ハーマンがエージェントによって手渡されたそれは銃ではなく起爆装置と名付けられるべき役割をもっていた。目の前の連合大統領だけでなく、その部屋にいる者全ての命と真実を奪い去る引き金だったのである。
次の瞬間、誰の予測にもない爆発が生じ、誰の予測にもない結末が訪れた。それを理解できた者もいなかった。




