僕が嫌いなこの『世界』を、君は愛してやまない
『転移』
場所や状態が移り変わること。それを移し変えること。
この世界では、未来なのか過去なのか、それとも異世界なのか、そんなところから意図せず送られてくる人間がいる。
彼女もまた、その1人だ。
ある日、突如僕の前に現れた彼女は汚らしいローブを身を纏い地に倒れた。
ローブも顔も、この辺りでは見ない金の長髪にも泥や煤がついていた。
「焼け焦げた匂いに、これは血の匂いか……?」
それがいわゆる『転移者』の特徴だと僕は知っていた。
現れるのは稀なことだが、この『転移者』のせいで世界がどうこうなることはない。
『転移者』に特別な魔法の力があったり、神から命を受けてきていることがないからだ。
ただ悪戯に送られてきただけ。
この世界の『転移者』とは、不運なだけの存在なのだ。
❇︎
山間の集落から少し登ったところに、僕の住む山小屋がある。
山羊の放牧と、絞った乳を集落に持っていくことで僕は生計を立てていた。
と言っても、小さな集落で自給自足の暮らしをしている彼らにとっては助け合うのが当たり前。
山羊乳がなくても、面倒見の良い彼らは僕を助けてくれるだろう。
そんな、平和な集落なのだ。
「(僕は嫌いだけど)」
『転移者』である彼女、リーサはこの集落をずいぶんと気に入ったらしい。
突然現れた彼女にも声をかけ、気にかける彼らに心を開かないはずがない。
集落の彼ら、特に女性陣はとにかくおせっかいだ。
「新しくスカートを仕立てたわ。リーサ、持っていって」
「わぁ、素敵。ありがとう!」
最初のうちこそ警戒して僕を睨みつけていた彼女だが、この世界を目の当たりにした途端に毒気を抜かれたかのように放心した。
本来の性格がそうだったのだろう、素直で明るい彼女が現れるのに時間はかからなかった。
おせっかいを素直に受けて喜ぶ彼女に、おせっかいなおばちゃん達は大喜びだ。
そして、艶やかな金の髪をなびかせてとびきりの笑顔を振りまく彼女に、集落の男達は鼻の下を伸ばした。
先にも言ったが、金の髪はここらじゃ見ない。
黒髪しかいない中では、金髪というだけで存在が映える。
「行くぞ、リーサ」
「待ってよ、セド」
荷引きのロバを連れて、僕と彼女は山小屋への道を登る。
集落よりもさらに下、眼下に見えるのは城下町だ。
戦いのための不穏な煙は一度も上がったことがない。
庶民も貴族も王族も、皆が豊かに暮らしている。
遠くにいてもそれが手に取るようにわかる、この平和な『世界』を僕は嫌いで仕方ない。
「ねぇ、セド。この花は何?」
あおあおと茂る麦畑の中に点在して咲く花に、彼女は釘付けになった。
「……ヤグルマギク」
爽やかな青紫色が綺麗な花だ。
リーサの瞳の色と似ている。
紫の瞳もまた、この辺りでは見ない色だ。
「綺麗ね。麦畑も、城下町も……この世界は何もかもが豊かだわ」
ヤグルマギクと同じ色の瞳は、遠い城下町を見据えた。
普段は明るく振る舞う彼女だが、ふとした瞬間に触れ難い雰囲気を出すことがある。
集落では出さない。僕の前でだけ。
寂しげなのに、どこか冷めている。そんな表情をするのだ。
僕はその理由を知っているが、彼女は気づいていない。
「リーサ、行こう。山羊を戻さないと」
「うん」
振り返った彼女は、いつも通りの彼女に戻っていた。
❇︎
麦畑が黄金色に染まるまでの時間は、あっという間だ。
もらったスカートは濃い藍色に、裾に細かい刺繍をあしらった上品なものだった。
白のブラウスと合わせ、金の髪の彼女によく似合っている。
気に入った彼女はよくそれを履くようになり、一層美しさを引き立てた。
「セド、見て。夕日が綺麗」
放牧していた山羊を戻していると、彼女は空の彼方を指差した。
夕映えは城下町を黄金色に照らし、空を茜色に染め上げる。
風が吹けば麦畑が波打ち、夕映えとは違う黄金色がキラキラと光った。
心地良い、初夏の夕暮れ時。
「(嫌になるほど、綺麗な景色だ)」
彼女の金の髪が風に流されて、それがまた光る。
顔にかかる髪を耳にかけた彼女の横顔は言葉とは裏腹に、あの時と同じ寂しげな表情だった。
絵になる景色に、それに見劣りしない彼女。
だけど、不思議と彼女にだけは嫌な感情は湧かなかった。
「帰ろう、リーサ」
僕は自然と彼女に手を差し出していた。
彼女は僕の瞳をじっと見つめ、寂しげな表情のまま微笑みを浮かべてつぶやく。
「そっか。セドもだったのね」
彼女のつぶやきに僕は返事することなく、手を引っ込めた。
僕の瞳は普段は黒く見えるが、光が差し込むと紫に見える。
元々、黒紫色なのだ。
彼女はそれに気づいたのだろう。
黄金色に照らされた道を、僕と彼女は無言で歩いた。
夕映えはあっという間に黄昏に変わる。
今日ほど見事な空は、地平線に鮮やかな赤を残すかもしれない。
幻想的な空の移り変わりを、僕も彼女も見ていたいとは思わなかった。
赤は、見慣れた色だったから。
❇︎
リーサは自分の元いた『世界』の話をしない。
でも、僕は彼女がどんな『世界』にいたか知っている。
纏うローブに、肌や髪をも汚すその『世界』。
空は薄暗く、地上の戦火を反射していつも赤黒い。
「空が、こんなにも青いなんて」
そう言って、今の『世界』で涙を流した彼女は戦火から逃げ惑う犠牲者に他ならない。
国と国が争い、人と人が殺しあう。
無差別に焼き尽くし、どこにいても鼻に付くのは焦げた匂い。
そして、その現実から逃げるために自ら命を絶つ。心中する。
血の匂いもまた、そこら中に漂っていた。
国と国の争いは、いつまでも終わることなく続いていた。
リーサはそんな『世界』から、なんの悪戯か『転移』された。
彼女にとっては幸運だったのかもしれない。
空の青さを知り、人々の優しさに触れ、大地の恵みに生かされる。
当たり前のことが当たり前じゃなかった彼女の人生は、この『世界』で当たり前な人生を歩もうとしている。
彼女は迷うことなく、それを受け入れるだろう。
「(リーサは、それでいいんだ)」
彼女は僕とは違う。
この『世界』で幸せになるべきだ。
国のために命を捧げ、戦いの中で生きてきた僕とは命の重さが違うのだ。
「(なぜ、僕はここにいるんだろう)」
第一線で数え切れないほどの命を奪った。
恐怖心はとっくに麻痺し、どこまでも突き進んで最後は殺される。
僕の人生はそう決まっていた。
決まっていたはずだった。
「僕はこんな平和な世界で、生きていていい人間じゃないんだ」
僕はこの『世界』が嫌いだ。
空は青く、人々は優しい。国は豊かで争いもない。
大地も人も、僕を生かそうとする。
僕が嫌いな、僕自身を。
だから僕は、この『世界』が嫌いなんだ。
❇︎
空は今日も青い。
山の上から見ているのに、どこまでも高く透き通っている。
不穏な赤など、吸い込んで消してしまいそうなほどに。
「リーサ。集落に行くよ」
山羊を見ている彼女は、今日も濃い藍色のスカートを履いていた。
足元には昨日生まれたばかりの子山羊。
まだおぼつかない足取りだが、その小さな足はしっかりと大地を踏んでいた。
「うん、セド。ちょっと待ってね。ちょっとだけ」
急いで拭うのは、頰を伝う涙の雫。
涙を含んだ青紫色の瞳も、空と同じく透き通って見えた。
「今度は何に感動したの?」
空を見た時も、集落で彼らに優しくされた時も。
彼女は初めて触れるものに感動し涙を流していた。
純粋で偽りのない、綺麗な涙だった。
「昨日はあんなに頼りなく生まれてきたのに、今はこんなに力強く生きている。命って、こんなに強いものだったんだね」
「……そうだね」
無意識に彼女の頰に伸ばしかけていた手を、僕は引っ込めた。
この血に汚れた手で、彼女に触れていいはずがない。
涙を拭ってやることすら僕にはできない。
母山羊が子山羊を呼ぶ。
子山羊は足元の草を避け、ぴょんぴょんと跳んで愛らしく駆けていく。
彼女は涙を拭って、微笑ましく子山羊を見守った。
「待ってくれてありがとう。セド、行きましょ」
そう言うと、彼女は躊躇することなく僕の手を握った。
とっさに離そうとしたが、華奢な手を振りほどくことはできなかった。
「もう、この手を引っ込めないで」
握る手に力が入った。
彼女はいつも、僕の差し出した手を握ろうとしてくれていた。
僕はそれに気づかないふりをして、逃げていた。
彼女に触れると、彼女まで穢してしまいそうだったから。
それでも、彼女は僕の手を握ろうとしてくれていた。
「わかった?」
「……わかった」
頰を桃色に染めてはにかまれると、僕はそう答えるしかなかった。
繋がれた手は僕の手よりずっと小さいのに、大きな安心感があった。
ほんのりとした温かさが伝わって、僕の気持ちを溶かしていく。
この手に触れるまいと思っていたのに、この手は僕に触れたがる。
僕に、この『世界』に居場所を与えようとするかのように。
❇︎
僕はまだ、この『世界』が嫌いだ。
僕が僕自身を嫌っている限り、嫌い続けるだろう。
でも、もし彼女の隣にいることが許されるなら。
この『世界』を好きな彼女の流す涙を拭い、小さく温かい手に触れることができるなら。
僕も少し、この『世界』を好きになれるかもしれない。
彼女の隣にいられるこの『世界』を、愛おしく思えるかもしれない。
いつか、『転移』して良かったと思えるかもしれない。