4日目のカレー
夜の8時ごろ、ケンイチが住むアパートの部屋に姉の娘で中学生のサトミが訪ねてきた。彼女が一人で、しかも家にいるときのようなジャージ姿で電車に小一時間乗って徒歩でこんな時間にやってきたことで、ケンイチは目を丸くして見つめた。
「どうしたんだ?」
「うん、ちょっと」
ケンイチは30代後半。40才も目前だが独身でこのアパートに一人で住んでいる。自分のほうから姉の家に遊びに行くことはあったが、向こうから誰か来たことは無い。姪が一人で来るなんてことは想像もできないことだった。ケンイチはただ頷いて顎で部屋の中へサトミを促した。
「おじゃまします」
ケンイチは夕食の最中だった。畳の部屋の中央にちゃぶ台。カレーライスの皿に500ミリの発泡酒が一缶。
「ごはん食べてたんだ」
「ああ。おまえも喰うか?カレー」
「ケンちゃんが自分で作ったの?食べる食べる」サトミの母親がケンイチのことをそう呼ぶから、サトミも彼をそう呼んでいた。
「そうだよ」
「家のおとうさん、料理とか一切しないから、なんか不思議」
「そうか」
ケンイチはすぐ目の前の台所で、皿に飯を盛り、カレーを掛けてレンジで温めた。レンジがウォ~ンと低周波でうなる。ケンイチは、レジンのタイマーのカウントダウンを見つめながら前で立ったまま待っている。サトミはちゃぶ台の前に台所に背を向けて座っている。ケンイチは冷蔵庫の上のレンジの前でサトミに背中を向けて立っている。
「父さんと母さん。別れるんだって。離婚するって。いま話してる、まだたぶん」
「……そうか」ケンイチは姉夫婦の関係が芳しくないというのは気づいていたが別れるところまで具体的に進んでいるのは知らなかった。
「どっちと暮らすとか、決めなくちゃいけないの」
「そうだな」レンジのカウントダウンがゼロになってベルが鳴り、ケンイチは扉を開けてカレーライスの皿を出した。
「あおっちっち」ケンイチは熱い皿を両手でつまむように持って、急いでサトミの前まで持っていった。
「ありがと」サトミは、そこで初めてケンイチのほうを向いた。ケンイチはスプーンを出し、コップにペットボトルの水を注いでそれもまたサトミの前に置いた。サトミはまた「ありがと」といった。
「いただきます」
「おぅ」ケンイチは自分の皿がある場所にまた座り直し、発泡酒を一口飲んだ。
「おいしい。上手だねカレー」
「そうか」ケンイチは笑った。
「うん」
食事中は静かにとか、そんな家訓は無い家だが、二人ともほとんど黙ってカレーを食べた。テレビでバラエティ番組をやっている。けれど、気もそぞろでおもしろいのかどうかさえ分からなかった。
「おいしいよ、このカレー。ホント」
「そうか。4日目のカレーだからな。熟成してる」
「え、4日目?!」
「ああ。だいじょうぶ、毎日火は通してる。そんで毎日喰ってるし」
「そんなに作ったの?」
「たくさん作った方が旨いからナァ、鍋に一杯作った」
「それで4日間食べ続けてるんだ。1日おいたカレーがおいしいっていうのはよく聞くけど。4日目なんだ」
「飯は2日目だ」
「2日目のごはんに4日目のカレーを掛けて食べてるんだ」
「小せえことにはこだわんなヨ」ケンイチはカレーを一口食べて発泡酒を一口飲んだ。
カレーを食べ終わって、食器も片付けて、あとはやることが無かった。サトミは一人でとりとめの無い話をしていた。ケンイチは相づちを打ったり「そうか」といったり、そればかりだった。
「こういうときは、親友の家とか行ったりするんだろうけど、アタシそういう友達がいないから」
「そうか」ケンイチは座いすに少しのけぞるようにもたれかかってテレビのほうを向いていて、サトミは座いすを勧められたが傍らにヒザを抱えて体育座りのような姿勢でテレビの方向とケンイチの方向と、ちょうどその中間辺りに向いて、テレビの横のサッシの向こうに広がる窓辺の暗闇を見ながら、思いつく限りのことをずっと話していた。1時間か2時間か。
「ケンちゃん、きょうはあんまり話さないね。『そうか』ばっかり言ってる」
「そうか……なんか言われたいのか」
「ううん。そうじゃないけど」
「そうか。じゃあきょうは、聞くだけにしておいてやる」
「……うん」
サトミはまだまだそれからもずっと話していた。サトミの母親がケンイチに電話をよこすまで。