第92話
わずかに鼓動が速まった。
わずかに吐息が震えていた。
気のせいかもしれない。そんな、些細な程度に。
セスが実際に泣いているという確証を、得られるほどでもないくらいの。
ただ、心は確実に泣いているように感じた。
だから言った。一緒に泣こう、と。
その言葉で彼は、取り繕っていたものを破り捨てた。
彼は教えてくれた。
嘱託依頼が果たされる前日、お母さんに会いに行ったのに扉を叩く勇気が出なかったことを。
それをとてつもなく後悔していることを。
泣きながら、教えてくれた。
だからセスはエスタにリンクスたちが来たあの時、会うかどうかを悩んでいた私の背中を押したのだ。
私が両親の元に行くと決めた時に見せたあの悲しそうな表情は、きっとそのことを思い出していたに違いない。
そんな彼に、私は言葉を返せなかった。
私なんかの言葉では、彼を余計に傷つけてしまいそうで。
ただ彼を抱きしめて、一緒に泣いて、泣いて、泣いて、そして眠りに落ちる彼を見届けた。
あぁ、この人は一体どれほどの苦しみを抱えているのだろう。
どうやったらその傷を癒せるのだろう。
白み始めた部屋の中で、私を抱きしめるように眠る彼の重みを刻み込んで考える。彼の体温を刻み込んで考える。
シアがお母さんの秘石をカミューに渡してしまったことを聞いた時、どんな気持ちだっただろう。
"そこまでは俺の範疇じゃない"と紡いだ言葉の裏で、どれほど嘆いていたのだろう。
その秘石を誰よりも欲しかったのは、きっとセスなのに。
分からない。
そんなセスにどんな言葉をかけてあげればいいのか、分からない。
ただ抱きしめるしかできない。ただ一緒に泣くしかできない。ただ……隣で眠るしかできない。
こんなにも救われてきたのに、彼を救うこともできずに。
私はなんて無力なのだろう。
◇ ◇ ◇
眠い。
体を包み込むような温かさが心地よく、浮かんだ意識が沈んでいく。
「…………」
――――起きなければ。でも瞼が重い。
髪を撫でられる感触が気持ちよく、もっと、と身を寄せれば強く引き寄せられた。
縋るように抱き返すと、小さく笑う声が耳に届く。
それに安心して私は、再び意識を手放した。
「……いま、なんじ?」
それからどれくらいの時間が経ったのだろう。
よく分からないまま、重い瞼をこじ開けて重い口を動かした。
「昼を少し過ぎたところじゃないかな」
はっきりしたセスの声に、急速に意識が覚醒していく。
「……昼?」
「うん。さっき鐘が鳴ったから」
正午を知らす鐘の音。どこの街でも聞こえるそれは、当たり前になりすぎて目覚ましにすらならない。
夜通し起きていた反動が大きすぎた。
「起きないと」
「なんで? 別にこのままでもいいよ」
起こそうとした体は、セスに強く抱き留められて再びベッドに沈み込んだ。
「……お腹空いた」
「はは、じゃあ起きようか」
気の抜けた私の言葉にセスは笑ってそう返し、私の顔の横に右手をついて、するりと私の頭の下から左腕を抜いた。
その拍子に彼が首から下げている黄色い宝石が顔を掠める。
――――クルスの調べの扉。
初めて体を重ねたあの日、闇の中でも確かな存在感を持ったそれは、すぐに扉であると思い当たった。
自分の胸で壊れたのを最後に、もう存在しないと思っていたのに。
すべてを光に帰す、聖なる槍の道標。
残酷なる救済を与える黄金の扉。
それが、彼の首から下げられている。
それに気づいた瞬間、体が一瞬で冷えていくような気がした。
"どうしてまたこれが"
手に取ってそう呟けば、"また作ったから"と掠れた声が返ってきた。
いくらでも作れるようなものなのか。セスが作れるものなのか。
いつから。いつからこれを下げていた?
私に出会う前からずっと?
エスタで一度押し倒されたあの時、彼はこれを身に着けていたか?
怖い。
怖い。
彼が口笛を吹いたら、今度は私が置いて行かれる。今度は私が見届けることになる。
それは、怖い。
置いて行った私が何を言う。
見届けさせてしまった私が何を言う。
そんなことは分かっている。
自分勝手は百も承知だ。
それでも、怖いものは怖いのだ。
"お願い、外して。怖い"
扉を手にしたまま震える声で懇願すると、
"大丈夫だよ。次にこれを使う時はちゃんと君も連れて行くから"
彼はそう答えて、それ以上の言葉を封じ込めるように口づけをした。
私が紡いだ"怖い"の意味を履き違えることもなく。
憎しみさえ滲み出ているほどに低く真剣な声色で。
私を1人で逝かせてしまったあの日の自分を、赦さないとでも言うように。




