第91話 Side-セス
「…………」
自分でもどうかしているのではないかと思うほどの時間をかけて、何とか扉の前まで来ることができた。
でもここからまた、体が動かない。
ただ扉を2回ほど叩けばいいだけなのに。
そもそも会って何を話すつもりだ?
俺は今まで何回母を拒絶してきた?
母がそんな俺を待っていると思うか?
「……っ」
無意識に、足が一歩下がる。
引き返すことなら、簡単にできそうだ。
むしろ今までにない速度で走れるかもしれない。
いや、何を考えている。何をしている。
お前は何のためにここまで来た。
明日には母はいなくなる。もう二度と会えなくなるんだぞ。
「…………」
なのにどうして手が動かない……っ!
どうして扉を叩けない!!
「……ぅ……っ」
泣くな。
泣くくらいなら扉を叩け。
膝をつくな。
膝をつくくらいなら立って扉を叩け。
このまま帰ったら絶対に後悔する。
分かってる。分かってるのに。
「…………」
……母さん。
◇ ◇ ◇
「……セスあんた、何で最期まで会いに来なかったのよ!!」
「……っ」
「やめるんだ、シアちゃん!」
俺に掴みかかってきたシアを、グレゴリオが引き離す。
「貴女に……貴女に何が分かる!!」
「……っ!」
その瞬間、今度は俺がシアに掴みかかった。衝動的だった。
シアの怯えた目に一瞬力が抜けたが、掴んだ胸倉をまた強く握りしめる。
「ちょっ……セス、やめろ! ……っ!」
止めようと俺の腕を掴んだグレゴリオを空いている腕で突き飛ばす。これもまた衝動的だった。
「貴女はずっと母さんの近くにいたくせに!! ずっと愛されてきたくせに!!」
ぐん、と強い力でシアの体を押し、手を離す。
シアの体はよろめいて、そのまま尻もちをついた。
「俺はっ……俺は、母さんの手を取ることすら怖かったのに……っ!」
声が震え、涙が溢れる。
シアの前でなど泣きたくなかったのに、抑えられなかった。
「俺が憎いなら殺せよ! 今すぐ……殺せよ……っ!」
「…………」
シアは何も言わない。
ただ静かに涙を流して俺を見上げている。
お前も泣くのか。俺の前で。
それは何の涙なんだ。同情か? 軽蔑か?
「落ち着け、セス。墓前で姉弟げんかするんじゃないよ。お母さんが……眠れないだろ」
「…………」
「大丈夫かい? シアちゃん」
俺からの返事は来ないと踏んでいたのか、グレゴリオはすぐに俺に背を向けて尻もちをついたままのシアに手を差し出した。その手を躊躇いがちに握って、シアが立ち上がる。
「セス、もう戻れ。僕から声をかけるまで仕事は休んでいい。シアちゃんも。もう帰って休むんだ。ほら、これ、お母さんの秘石。特例だからね」
「…………」
目をきつく閉じ、溜まっていた涙を押し出して、俺はその場を後にした。
◇ ◇ ◇
もしあの時扉を叩けていたら、何かが変わっただろうか。
こんな後悔を抱えることもなく、俺たち姉弟の関係も違うものになっていたのだろうか。
――――いや、そもそも、施設から出たあの日に俺は間違えたのだ。
あの日に俺は、家族に戻る資格を自ら捨てたのだ。
赦されるなんて思うな。
ユイの涙に――――甘えるな。
「ユイ、ありがとう。俺のために泣いてくれて」
彼女の背をそっと擦ると、華奢な体がピクリと震えた。
「でももう、泣かないで。君が心を痛める必要はない。俺が弱かっただけなんだ」
「心を痛めたらだめなの? 一緒に泣いたら、だめなの?」
「…………」
――――あぁ、どうして。君にはこの闇で見えないはずなのに。声だって震わせないよう気を付けていたのに。
どうして君は……俺が泣いていることに気づいてしまったんだろう。
「一緒に泣こう、セス。もう1人にはしないよ。1人で泣かせたり……しないから」
「……っ、ありがとう……ユイ……」
母さん、赦してくれますか。
貴女の手を振り払ってしまったあの日の俺を。
扉を叩けず逃げ帰ったあの日の俺を。
―――貴女は赦してくれますか。




