第90話 Side-セス
ユイが泣いている。
この話をすればそうなるであろうことは予想していた。
彼女は優しいから。
俺は――――その涙で自分勝手にも赦される気がして、彼女に甘えたんだ。
思い出すのはあの時のこと。
何十年経っても忘れられない、深い後悔の記憶。
◇ ◇ ◇
「…………」
手元にあるのは1枚の紙。
何枚も、何百枚も見てきた、いつもの依頼書。
なのにこの日に限っては、杭に打たれたような衝撃をもたらした。
「リシェ・フォルジュ、お前の母親だね?」
「…………」
ジェシスに配属されてから長い期間付き合ってきた上司、グレゴリオの問いかけを前に俺は閉口する。
母が嘱託依頼を出した。そしてその依頼書が、俺の手元にある。そのことがすぐに理解できなかった。
「……俺にやれと言うんですか?」
「違う! お前は何十年ジェシスにいるんだい。いい加減オルシスの腐った考え方を改めろ!」
やっとの思いで絞り出した言葉は、即座にグレゴリオによって切り捨てられた。
「……じゃあ、何で」
「何でってお前……母親と会ってないんだろ、ずっと。いいのかい?」
「……いいのか、とは……」
「お前ふざけてるのか」
「…………」
普段比較的温厚なグレゴリオが、珍しく怒った顔をしている。
少年のような見た目のまま成長が止まったらしい彼は、そうしていると本当に子供のようだ。
そんなどうでもいいことを考えながら、俺は依頼書を机に置いた。
「……今さら会う資格もないので……」
「資格も何もあるか。お前はリシェの息子だろう。この依頼はすでに受理されている。もう時間がないよ」
「…………」
この男はいつもこうしていらない世話を焼いてくる。
俺のことなんて放っておいてほしいのに。
◇ ◇ ◇
「いよいよ明日か。ちゃんと会いに行ったんだろうね?」
「…………」
「おい、セス」
「…………」
甲高いグレゴリオの声が、いつになく煩く聞こえた。
話しかけるな、という雰囲気を出しているはずなのに、この男は微塵もそれを気にしない。
周りにいる他の人間の方がまだ、剣呑な雰囲気を察してくれているようだ。
「お前、分かってるのか!? 明日だぞ! 明日にはもう……っ」
「……っ」
グレゴリオが俺の胸倉を掴んで引き寄せる。
背の低い彼に引きずられ、危うく体勢を崩すところだった。
「離してください!」
彼の手を振り払って引き離す。
思いのほか力を入れてしまい、彼の小柄な体がよろめく。
あぁ、上司に対して許される態度ではなかった。元より、彼はそれを気にするような男でもないが。
「今日は休みだ、セス。手に持っている依頼書を全部置いて、今すぐ会いに行ってこい」
「はぁ!? いきなり何を言ってるんです!? この予定は全部貴方が組んだものでしょうが!」
グレゴリオの突飛な言葉に大声が出てしまい、ハッとして周りを見渡すとその場にいる全員がこちらを見ている。
あぁ、もう、頼むから放っておいてくれ。そんな目を向けるとみんな察して視線を逸らしてくれた。
ただ1人、グレゴリオを除いては。
「黙れ! いいから行け!」
グレゴリオが俺の手から依頼書を無理やりもぎ取る。
「…………」
行き場をなくした手は、隠しきれないほどに震えていた。
◇ ◇ ◇
手に持つ紙から視線を移し、遠目に見える家を眺める。
何十年前だかに引っ越したとかで、「母さんから預かった」とシアから渡された新しい住所が書かれた紙だ。
新しいも何も、自分が生まれたはずの家すら覚えていないわけで、目に映る全く見たことのない家に特別な感情など何一つ沸きはしない。
逆にこの紙をよく今まで大事に持っていたものだと自分でも感心してしまうほどだ。
受け取った際にシアに告げた「律儀にどうも」という言葉は、もらったところで行くことはないと同義だったのに。
あそこに母はいるのだろうか。
死を明日に控えて、一体何を思っているのだろうか。
もうここに立ってだいぶ時間が経つ。
なのに俺の重い足は一歩たりとも動かない。
あぁ、来るべきではなかった。
もう何度も心の中で呟いた言葉を、俺はもう一度心の中で呟いた。




