第87話
「……なんてね」
壁からスッと手を離し、セスが笑う。
いたずらを仕掛けた子供のようなその表情に少し安堵して、息を落ち着ける。
「君はどうして俺が一緒の部屋にしようと言ったのか聞きたいんだろう?」
そのままセスは私から離れ、窓の方へと歩いて行く。
「……うん、まぁ。前にセスは"お互い1人の時間が必要だ"って言ってたし」
昔その話をされたことは、今でもよく覚えている。私たちの間ではいつしかそれが当たり前になって、関係が変わってもなお、夜だけはお互いに干渉しあわない自分だけの時間を過ごしていた。
「俺ね、人殺しの素質があったんだよ」
「……?」
窓の外を見ながら突如紡がれたその言葉は、何の脈絡もなくて私を混乱させた。
「何を以て素質があったと判断されたのか今でもよく分からないんだけど、とにかく一族からそう判断されて、物心ついたころには親元から離されて特別な育成施設で訓練を受けていた。君が過ごしてきた環境と、近いかもしれないね」
「…………」
セスはこちらを見ることもなく淡々と語る。
そこで行われていた恐ろしい訓練内容を。まるで人ごとのように。
4人1組になって訓練を受けていた「人殺しの素質」がある子供たち。彼らには常に通常の訓練に交じって、ある訓練が課せられていた。
それは、4人の内誰か1人に結晶を渡され、決められた期日にそれを持っていた人間が勝者となる訓練。
誰が結晶を持っているのかは知らされないため、結晶を渡されなかった3人は誰が結晶を持っているのか探るところから、結晶を渡された1人は、いかにそれを悟らせずに期日まで守り通せるかが鍵となる。数日、あるいは数十日に渡って期日が設定されることから、結晶を手にしている人間は1秒たりとも気を抜くことはできない。そう、夜すらも。
なぜなら敗者となった3人には――――拷問耐久訓練を兼ねた過酷なる体罰が与えられるからだ。
「日中の訓練が疎かになればそこでも罰が与えられるから、結晶を奪い合う時間は夜がメインだ。奪う側であっても、守る側であっても深く眠ることなんてできない。あの施設にいた10年間、俺がまともに眠ったのは拷問で意識を失った時だけだ」
「…………」
「だから施設を出て……初めて与えられた1人の時間を俺は手放せなくなった。その間だけなら、俺は眠れる。安心できる。どれだけ年を重ねても、その時間だけは俺にとって必要なものだった」
「…………」
私が過ごしてきた環境と近いかもしれない、だって?
私なんて、恵まれた環境にいたとすら思えるよ。
拷問で意識を失った時だけしかまともに眠っていないなんて……どれだけ狂った世界なんだ。意識を失うことは、眠ることと同義ではないのに。
「お互いのために、なんて体のいい言い訳だよ。結局俺は、自分のためにそうしたかっただけなんだ」
セスは自嘲気味に笑って目を伏せる。
窓から差し込む淡い光がそんな彼を儚げに照らしていて、まるでそのまま消えていってしまうのではないかという不安に駆られた。
「……じゃあ、どうして?」
「眠れたから」
スッと私の方に視線を向けて、セスが言う。
穏やかな笑みを浮かべているその奥に、確かな悲しみを滲ませて。
「君を腕に抱いて寝たあの日、初めて朝まで眠れたんだ。今まで誰かが傍にいる時にそこまで深く眠れたことはない。こんなことは初めてだった」
彼は言いながらこちらに歩いてくると、私の髪の毛を一房掬い上げ、そしてサラサラと零していった。
「あと夢を見たんだ。施設にいた時の俺が、今の君に助けを求める夢。俺はどうしようもなく……君を必要としている」
もう一度髪を掬い上げ、同じように零していく。
頬を撫でる髪がやけにくすぐったく、制止の意味も込めてセスの手を取り、握る。
「だからこれからは俺の隣で寝てよ。君の温もりだけは安心できるから」
そんな私の手を引き寄せ、セスはそっと唇を押し付けた。
愛おしいものを見るような目で。壊れ物を扱うかのように優しく。
あぁ――――なんて美しく、愛おしい。
「いいよ」
私だけのセス。




