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第85話

 闇に染まるげんのようなときの中で、ふと彼の顔を見たいと思った。


 熱の籠った息を吐きながら、切羽詰まった声色で私の名を呼ぶ彼の顔を。


 きっとそこにはいつもの余裕をなくした、私の知らない彼がいるのだろうから。


 自分をさらけ出す勇気なんてないくせに、自分勝手だな。






「……っ」


 苦しい。


 きつく回された腕が、息を詰まらせる。

 気道を確保しようとわずかに身じろぐと、それすら許さないとばかりに抱き直された。


 耳に届くセスの吐息が震えている。触れている場所から感じる彼の鼓動が、ずいぶんと速く感じる。


「セ、ス? どうした、の?」


「あ……ごめん……」


 苦しい息の元なんとか言葉を紡ぐと、彼はハッとしたように腕を緩めて数歩下がり、私から離れた。


「ごめん」


 そして泣きそうな顔で、もう一度。


「どうしたの? 何か、あった?」


「違う。違うんだ。大丈夫。ごめん」


 近づこうとした私を拒絶するように突き出された手。


 その手は少し、震えていた。


「……そっか。私はここにいるからね。いつでも手が届くところに」


 そう言って彼の震える手を取る。


 彼の中で何かがあったのは確かだ。でも、その何かが語られなかった以上、今それを聞いてはいけないのだろう。


「……ありがとう。ごめん、もう一度君を抱きしめてもいい?」


 セスは私の手を握り返して、縋るような目でそう聞いてくる。


「いいよ」


 答えながらセスの手を引く。

 強い力ではなく、糸を手繰り寄せるような優しい力で。

 こちらから踏み込むのではなく、迎え入れるように。


 彼は弱々しくも見える足取りで私の元に来て、そして先ほどよりは弱く、それでも強い力で私を抱きしめた。


 言葉はない。


 耳に届く息の震えが収まるまで、速く感じる彼の鼓動が落ち着くまで、私たちはただ静かに抱き合っていた。




 ◇ ◇ ◇




 1ヶ月半近い航海を終え、硬い地面を久しぶりに踏みしめる。

 もう揺れていないのに、自分の体はまだどこか漂っているような気がした。


「ここがネリス、ディエンタ……」


 初めて足を踏み入れるディエンタは、今まで訪れた街とはまた違う雰囲気を持っていた。


「ヴェネツィアみたい……」


 昔テレビで見たことがある、水の都ヴェネツィア。例えるならばそれが一番近い。


 道と道の真ん中を縦断する幅の広い水路がそこかしこに張り巡らされていて、どこか幻想的だ。


「あぁ、そうだな。俺も初めてここに来た時はそう思った。ネリスはここだけじゃなく、他の街もイタリアっぽいぞ」


「そうなんですか」


 隣を歩くヨハンが同意してくれたが、イタリアっぽいと言われてもいまいちピンと来ず、気の抜けた返事をしてしまった。元はと言えば、自分がヴェネツィアの名前を出したというのに。


「ここには何日滞在すんだ?」


 しかしそれ以上話を膨らませることもなく、ヨハンはセスに尋ねる。


「特に決めてないけど……ここからシャンディグラまでは結構かかるから、船旅の疲れはしっかりと癒したいところだね」


「じゃあ一週間くらいか? その間俺は別行動させてもらうぞ」


「別行動?」


 別行動をさせてもらう、というヨハンの言葉に、思わず口を挟んでしまった。


「ここには知り合いがいるんだ。ちとそいつのところに行こうと思ってな」


「……じゃあ迷宮まで一緒に来てくれるってことですよね?」


「どういうこと?」


 私とヨハンの会話に、今度はセスが口を挟んだ。

 船に乗ったばかりの時、ディエンタに着いたらすぐに別れると言ったことをヨハンもセスに話していないのだろう。

 それについての明確な返事はもらっていなかったが、”その間"と言うくらいなのだから来てくれるという意味でとって差し支えないように思える。


「シエルとちょっと話したことがあってな。ディエンタに着いたら別れるかって。まぁ、でも予定通りお前らがアルディナに渡るまでは一緒には行こうと思う。せっかくのお誘いだからな」


 穏やかに笑ってヨハンが言う。

 彼が本心で一緒に行きたいと思ってくれているようで、安堵する。


「……なるほど。じゃあ一週間後に待ち合わせる場所と時間を決めようか」


 そんなヨハンにそれ以上は言及せずに、セスはそう切り出した。

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