第83話
「これを読んだんだ」
手に持っていた診療記録を掲げると、セスの視線がそちらに移る。
「……今の君にそれが読めたの?」
そして表情を変えないまま、そう問うた。
そう聞くのも無理はない。セスは私の言語力を知り尽くしている。今の私では、ここに書かれている文章のすべてを読み解くことはできない。
「この記録書の内容をすべて覚えていたヨハンさんに手伝ってもらった」
「なんでヨハンに?」
「これを持ってデッキに出たら先にヨハンさんがいて。ごめん」
「……そう。まぁ、ヨハンがアルディナ語を話せるって聞いた時に、内容は把握されていると予想もしていたから別に構わないよ。そもそも大したことは書いてないしね」
と言いつつもセスは若干不機嫌そうだ。私がヨハンと共にこれを読み解いたことが気に食わないのだろう。
「それで、なんでこんな時間に来たの? それを読んだからと言って、急いで俺の元に来る理由はないと思うんだけど」
「苦しくなったから」
「…………」
セスは何も返さず、わずかに眉を顰めた。
意味が分からなかったに違いない。逆の立場なら私もそう思う。
「理由はよく分からない。でも苦しくなった。これを書いた時のセスが、エリックさんの死を別の誰かと重ねて苦しんでいるような気がしたからかな」
「…………」
セスは真剣な表情でまっすぐに私を見つめたまま、口を開かない。
天井から一つだけ吊り下げられた触媒が放つ仄かな光が、そんな彼を妖麗に照らしている。人間離れしたその美しさに、この空間だけ別次元に切り離されたような不思議な感覚に陥った。
「昔、エリックと同じような状況で父の死を見届けたんだ」
不意に、セスが言葉を紡いだ。
私から視線を逸らして、どこか自嘲気味な笑みを浮かべている。
「それまで一緒に仕事をしたことなんてなかったんだけど、その時は特別でね。ある組織を壊滅させるという難しい任務を一緒に担うことになったんだ。俺は組織を直接的に壊滅させる実行班の1人で、父は組織の動向を探って情報を流す潜入班の1人……いわゆるスパイだった」
「…………」
「でも、いざ作戦を実行するという時に突然父から連絡が途絶えたんだ。スパイだと気づかれた可能性を考えた俺たちは半ば無理やり作戦を決行したけれど……乗り込んだその時、父はまさしく組織の制裁を受けて命の灯が消えるところだった」
目を伏せてセスは淡々と語る。
想像を絶するその光景に、私の方が胸を締め付けられる思いだ。
「縋るような目を向ける父に、俺は"もう無理だ"と言い放って治癒術をかけることなく作戦の実行を優先した。だからエリックの時にヨハンから、"その思考がエリックを殺したんだ"って言われて……まるで父も俺が殺したんだと言われているように感じた。ただ、それだけの話だ」
「……ごめん」
謝りながらセスに抱き着く。
滲んだ涙を隠すように、セスの胸に顔を埋める。
「…………」
「思い出させてごめん。苦しめてごめん。この診療記録はもう二度と開かないから、どうかこれ以上傷を抉らないで」
軽率に聞いたのは自分のくせに。傷を抉ったのは自分のくせに。私はまたエゴで人を傷つける。
「……別に傷なんてないし、痛くも苦しくもないよ。でなければ君にそれを渡したりしない。だからこんな話、もうどうでもいいだろ?」
感情の籠っていない声が降り注いだ。
それが虚勢なのか真実なのか分からない。
分からないけれど、どちらであっても嫌だ。
「どうでもよくない……」
「どうでもいいよ。俺、親元から離されてたから家族とは一緒に過ごしてなくてね。父と言っても特別な何かがあるわけじゃない」
そう返すセスの言葉はやはり抑揚がなく、感情を読み取ることができない。
「でも――」
「いいからもう黙って」
「……っ」
私の言葉を遮るように、セスが唇を重ねる。
突然のことに心臓が大きく跳ね、思わず驚愕の瞳でセスを見つめ返す。
「何を驚いてるの? 引き返すための時間ならあげたはずだ。そんなつもりはなかった、なんて……言わせないよ」
セスはそんな私にそう告げながら触媒に手を伸ばし、視界から一瞬で光を奪った――――。




