第81話
エスタの近くに位置するエルナーンとは違い、ネリスのディエンタまでは、船で1ヶ月半かかる。その後何事もなかったかのように接してくれたヨハンのおかげで、3週間経った今現在、私の心は落ち着きを取り戻していた。
「よしっ」
最近は、デッキに出て海を眺めるくらいしかやることがない船旅を少しでも有意義にするために、精力的にアルディナ語の勉強に励んでいる。
アルディナ語は難しい。英語で言うところの"アルファベット"的なものは覚えたのだが、いざセスの読み上げた言葉を文字に起こすとなると話は全く別物になる。これとこれが合わさった場合には通常とは異なり、このような法則を取る、というようなことが多々あるので、一筋縄ではいかないのだ。アルディナ語が流暢に喋れるようになったからと言って、それをすぐに文字に置き換えることができない。
それでも勉強を重ねるうちに、それとなくできるようになってきた。あとは単語の綴りを徹底的に覚えていけば、近い将来読み書きが完璧になりそうな気がしている。
「だいぶできるようになってきたね」
何度も手直しされた練習帳を覗き込んで、セスが言う。
「セスのおかげだよ、ありがとう」
セスは私の実力に合わせて問題集を作ってくれたり、宿題を出してくれたりするので、まるで学生になった気分だ。学生であった頃は勉強など嫌いだったが、今は意欲があるからか思いの外楽しさも感じる。
「俺にとってもいい時間つぶしになってるよ」
私の言葉にセスは首を振って苦い笑みを見せた。旅に慣れているセスでも長い船旅は退屈のようだ。
◇ ◇ ◇
デッキには、誰でも自由に使える休憩スペースが用意されている。
風が気持ちいいので日が高い時にはよく行くのだが、今日は何だか夜風に当たりたい気分になって、珍しくその場所に行ってみれば、すでに先客がいた。
「よぉ。こんな遅い時間に珍しいな」
「ヨハンさん。ここいいですか?」
「ああ」
あれからさらに1週間、ヨハンにすべてを打ち明けてからは1か月。彼と話すことに不安がなくなった私は、気軽な気持ちで彼の向かいへと腰かけ、持ってきたセスの診療記録をテーブルに置いた。
「それ、セスの書いた診療記録か?」
忘却のないヨハンにはすぐ思い当たったのだろう。ちらりと見ただけでそう言い当ててきた。
「はい。ここ最近セスからアルディナ後の読み書きを教わってて。そろそろここに書かれている文も読めるのかなと思って持ってきました」
「読み書きまではできなかったのか」
「そうですね。シアはそこまでは教えてくれなかったので。ヨハンさんは読み書きもできるんですか?」
「ああ。読み書きに関しては独学だけどな」
「そうなんですか」
独学とはすごい。
でも頭のいい人だし、それに加えて忘却がないのだから習得速度はとんでもなく速そうだな。
「じゃあヨハンさんはここに書かれている内容を全部把握していたんですね」
「あいつは俺に分からないと思ってたみたいだけどな。俺にとってはあいつの本音を知るいい機会だったぜ」
苦い笑みを浮かべてヨハンが言う。
適当なページを開いてみれば、"薬の追加は必要ないと言われたがまだ必要だと思う。納得ができない"というような内容がアルディナ語で書かれている。ペラペラとめくっていっても同じような感じなので、以前聞いていた通り、主に書かれているのは診療方針の違いについてのようだ。
例の長文のページを開く。
"6/25 エリックが死んだ"という一文から始まっている。
「このエリックというのは……」
「そいつはな、Sランクの冒険者だったんだよ。以前から来ていたやつなんだが、この時、かなり難しい仕事を請け負ったと言って出て行った後、重傷を負ってうちに駆け込んできた」
「なるほど……」
「正直、よく診療所まで来れたと思うほどに厳しい状態だった。だから俺はセスにすぐ治癒術をかけるよう指示したんだが……あいつは……この状態じゃもう無理だと言って指示に従わなかったんだ」
テーブルの上に置いていた右手を力いっぱい握りしめて、ヨハンが絞り出したような声で言う。
ヨハンにとって、それは昨日のことのように思い出されるのだろう。怒りと悔しさが滲むようなその声色に、聞いている私の胸が締め付けられた。




