第80話
「ひとつ、わがままを言ってもいいですか? どうしようもなく身勝手なことなんですが……貴方にしか言えないんです。聞いてくれますか?」
ヨハンが"本当は嫌でした"という言葉を待っていたのなら。"本心ではないんだろう"と言いたいのなら。
それならば、私は彼に言いたいことがある。
ずっと思っていたことを。
口にしてはいけないと思っていたことを。
「……なんだ?」
深く刻まれた眉間のしわはそのままに、ヨハンは静かに先を促す。
あぁ、体が震える。
こんなことを口にしようとしている自分が醜すぎて。
それでも今じゃないと言えない。
今ここで言わなかったら、もう二度と口にはできない。
だから、言う。
勇気を絞り出して。
「……あの時すべてを見てしまったら、私はたぶん私でいられなかったと思うんです。だから……貴方が眠らせてくれたから私は今セスと共にいられる。貴方が痛みを背負ってくれたから私は私でいられる。そう……思ってもいいですか?」
「…………」
ヨハンが驚愕の表情を浮かべている。
驚きすぎて言葉が出てこない。そんな様子も見て取れる。
「ねぇ、ヨハンさん、私は貴方に"眠らせてくれてありがとうございました”って言ってもいいですか? 見届けなければならなかったと言いながらこうやって逃げる私を、貴方は赦してくれますか?」
そんなヨハンに構わず捲し立て、彼の服の裾を掴む。
胸に縋りつきたいほどの衝動に駆られたが、さすがにそれをしてもいい関係性ではないので必死に踏みとどまった。
「私は……貴方の優しさに甘えてもいいですか?」
「……シエル」
こんな自分勝手なことを言う私を、彼はどう思うだろうか。
ヨハンの顔を見る勇気がなくて、下を向く。
ぽろぽろと、涙が零れて床を濡らした。
「ああ、いいぞ。俺が赦す」
驚くほど真剣な声。
その言葉に涙を拭って顔を上げると、彼は同じように真剣な表情で私を見つめていた。
「……ヨハンさん」
「お前は逃げてもいい。甘えてもいい。俺がちゃんと見届けたから。大丈夫だ」
「…………」
その言葉にまた涙が溢れた。
医者である彼はどんなに辛かっただろう。
誰よりも命の重さを知っている彼は、どんなに辛かっただろう。
「やっと本音を言ってくれたな」
それなのに、そう言って優しく笑ってくれる。
待っていたのはあんな言葉じゃなくて、これなんだと言うように。
逃げた私を赦してくれる。
「……すみません。私、」
「泣くな。謝るな。いいんだ。俺の背中は空いてるからな。少しくらい俺にもお前らの痛みを背負わせろよ」
私の言葉を遮り、ヨハンがポンポンと私の頭を叩く。
「ううぅぅ……」
その温かい手にまた涙が止めどなく流れたが、彼は落ち着くまでただ静かに傍で見守っていてくれた。
◇ ◇ ◇
「ユイ、ここにいたのか」
背後から不意にかけられた言葉に、ビクリと体が震える。
見つめていた海から視線を外して振り返ると、なびく髪を押さえて立つ、セスの姿があった。
「セス……」
「おはよう」
「おはよう」
いつの間にか、もうすっかり日が昇っている。
ヨハンがもう大丈夫だな、と言って去ってからずいぶん時間が経ってしまっていたようだ。
「海を見ていたの?」
「……うん」
隣に来たセスから、風に乗ってふわりと香水の香りが漂ってくる。
エリー。それが彼が着けている香水の名。まるで女性の名前のようだが、れっきとした柑橘系の果物の名前だ。
「何かあった?」
「…………」
抽象的な質問。
しかしそれは、何よりも的確な質問だ。
「何かあったように……見える?」
「うん。だって、泣いていたみたいだから」
セスの指が私の目じりをなぞる。
もう涙は乾いてだいぶ時間が経ったと思ったのに。
「ヨハンさんと話をした。でもごめん、何を話したのかは聞かないでほしい」
「…………」
なんて勝手なお願い。私がセスなら納得できないかもしれない。
でもセスには言えない話だ。他の誰にバレようとも、セスにだけは言えない話だ。
「……分かった」
しばらく間を空けてから、セスは何も言わずに頷いてくれた。
「でも俺は、いつでも君の力になりたいと思ってる。それだけは忘れないで」
「うん、ありがとう。ごめんね」
そんな優しさが今はとても痛い。
あぁ、本当に、私はなんて身勝手なんだろう。




