Side-1
セスの優しい表情を思い出せない。
シエルの口から出たその言葉に、俺は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
忘却のない俺には理解し得ない言葉だった。理解し得ないことに、どうしようもない怒りが湧き上がった。これは、俺が軽々しく触れていいことじゃなかった。
シエルの体には、腹部の刺傷を治療した際に見えた範囲だけでも、相当数の傷痕があった。おそらく全身に刻まれているそれは、その数だけ、いや、それ以上に彼女から希望を奪っていったのだろう。15年という、シエルにとっては決して短くない期間、肉体も精神も支配されていればセスとの記憶が塗り替えられてしまうのも当然のことなのかもしれない。
それでも……それでも俺はあの2人なら以前と同じような関係性に戻れるんじゃないかと思っていた。あの少女がかつて愛したシエルだと、セスに再び会うためだけに辛い日々を耐えてきたのだと知れば、セスの死んだ心も蘇るだろう。そんなセスを見ればシエルだって心からの安息を得られるんじゃないかと、そう思っていた。
だから、あの2人があんな邂逅を遂げたことは想定外だった。
もしセスに会ってシアのような冷たい目を向けられたら生きていけない。シエルがセスに剣を向けた理由は、以前言っていたその言葉の通りであろうことは想像に難くない。あの少女が誰だか分からないセスは、彼女との出会いに心を揺り動かされることなどなかったのだろうから。
よくできたストーリーだ。こんな偶然が実際に起こり得るとは恐れ入った。
さらに驚いたのが、そんな偶然にこれまた偶然、自分が居合わせてしまったことだ。
しかしながら、最悪の結末を阻止しようと咄嗟にかけた声は、逆に悪化の一途を辿らせてしまった。
まさか"シエル"という名1つだけで、セスがあんなに動揺を見せるなんて思っていなかったのだ。シエルがルーチェを呼んでくると去ってからもしきりに彼女のことを問いただす様は、憐れみさえ覚えた。
外出する際には常に持ち歩いている睡眠薬で俺はセスを無理矢理眠らせ診療所へと運び、シエルが連れてきたルーチェから血液を採取し2人を見送って、今に至る。
シアに見つかったらどうなるか、そんな会話をしていたあの2人を素直に見送ることは正直、得策とは言えなかったかもしれない。
だがシエルがルーチェを連れてくるか確証がなかった俺は、セスをかなり深く眠らせてしまった。そんな状態であの2人をここに匿ってシアが現れでもしたら、それこそ最悪のシナリオを辿ってしまう。素直に血液を提供してくれたルーチェを人質にとるなど俺にもできないし、シエルにもできなかっただろう。
何事もなくシエルが戻ってきてくれるのを祈りながら、俺はルーチェの血液をセスに接種した。
「ヨ、ハン……」
元の世界では決してあり得なかった傷口が目に見えて治っていく光景を眺めていたら、弱々しく俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
クビト族の血液は経口接種をしても速効性がある。今回のように静脈に注入をすればなおさらだろう。それは予測していた。予測していたが、まさか麻酔の効果すらも打ち消してすぐ目を覚ますことは、さすがに想定外だった。
「……あぁ」
なら、あの2人を行かせるべきじゃなかった。そう考えを巡らせつつ返事を返す。
「俺は、どうなって……」
セスが困惑した様子で上体を起こした。
傷口は跡形もなく治癒されたので痛みはもちろんないだろう。健康体そのものなのだから、それを俺が咎める理由もない。
「あの少女は!? ヨハン、彼女は一体何なんだ!?」
ハッとした様子で俺の肩を掴み、セスが詰め寄る。
この20年見ることもなかったセスの慌てた様子に、胸が痛む。
セスの心は死んでなんかいなかった。ただ凍っていただけだった。シエルに会うことで溶ける氷で覆われていただけだった。
本当に心が死んでいるのは……溶けない氷で覆われているのは、シエルの方だったんだ。




