第36話
「ひっ」
引きつった声を上げて、私は尻餅をついた。
心臓が飛び出るほど驚いた。
恐怖で体が震えている。
そんな私を、シアは嘲笑うかのような瞳で見下ろしている。
「どこに行くのかな? シエル」
「…………」
自分の鼓動が煩い。
呼吸が苦しい。
嫌な汗が止まらない。
どこから後をついて来ていたのか。
どこまで把握しているのか。
必死に考えを巡らせても答えは見つからない。
「今、面白い話してたね」
「うっ……!」
シアが私の髪の毛を掴んで無理矢理立たせた。
痛みに思わず呻き声が漏れる。
「シア、やめて! あっ……!」
仲裁に入ろうとしたルーチェをシアが強く突き飛ばし、彼女はバランスを崩して床に倒れこんだ。
「ルーチェ様……っ」
「ルーチェ、シエルに騙されて利用されたんだね。可哀想に」
思いもよらないことを言いながらシアは懐から小瓶を取り出し、中身を口に含んだ。
そしてその様子を驚愕の瞳で見つめていたルーチェに近づき、口づけをした。
「……!」
驚いて後ずさろうとしたルーチェの頭を押さえ込み、シアはルーチェに小瓶の中身を口移しで流し込む。
やがてルーチェの体が力を失って崩れ落ち、シアが口元を拭って立ち上がった。
おそらくユパの種とエピオスの薬草を混ぜた睡眠薬だ。私が材料を調達するはずだったもの。
「ちょっと別の場所で話をしようか、シエル。誰も傷つけたくない優しいお前はもちろんついてきてくれるよね?」
シアがどこからか取り出した封力の首輪を私に着けながら耳元で囁く。
首に手を回す仕草はまるで抱き付いてくるかのようで、その腕から逃れることはできないんだと思い知らされた。
「…………」
セス、ヨハンさん、戻れなくてごめんなさい。
◇ ◇ ◇
シアに連れられた場所は街外れにある、廃倉庫のようなところだった。
朽ちた資材や錆びた道具が乱雑に散らばり、長い間人が踏み入れていないことを知らしめている。
一体このような場所をどうやってシアが知ったのか教えてほしいくらいだ。
「使いを命じた後、お前は何をやっていたのかな?」
試すような口調でシアが問いかけた。
触媒の灯りもなく暗いはずの廃倉庫は、天井近くの壁に大きく空いた穴のお陰で何の支障もなくその全容を映し出している。
中を見渡した限り、出入り口は1つしかない。そしてその出入り口の前には、シアが立っている。逃げ場はない。
「ルーチェを連れ出して何をやらせたの?」
「…………」
「セスを助けてくれてありがとうございます。お前、ルーチェにそう言ってたね?」
「…………」
「答えろ!」
「ぐっ……!」
頭を払うように殴りつけられて、大きくよろめきながら地面へと倒れ込んだ。
頭が脈打つように痛むのと同時に、視界が揺れる。
「うあ……っ!」
蹲った私の腹部を、シアが強く蹴飛ばす。
地面を転がり、油臭い粘着性の泥のようなものが体を汚した。床に広がっていたのだろう。ベトベトして気持ちが悪い。
神力は封じられている。長剣も短剣も宿でシアに取り上げられて持っていない。
対抗する手段も、逃げる手段も私には失われた。
「ぐぅっ……あ……っ」
さらに蹴飛ばされる。胃液が逆流して喉を焼いた。
私が戻ってこないと悟ったヨハンは、どんな結論を出すだろうか。
逃げたと思うのか。シアに見つかったと思うのか。
しかしどちらにせよ、今の現状でここにヨハンなりセスなりが来ることはない。
だからもう、この物語の結末は決まっている。
ここに連れて来られたセスの目の前で殺される。それだけだ。
その結末を避けるためには今この場でどちらかが死ぬしかないが、そうするための手段も持ち合わせていない。
揺れる視界でシアを見上げると、凍りつくような恐ろしい表情で私に短剣を振り上げていた。
それがどこを狙い定めているのか、私には分からない。
分からないが、その剣以上に鋭く尖った憎しみの視線が私の体を刺し貫いていることだけは、嫌でも分かってしまった。




