第30話
「う……うぅ……」
レクシーの苦しそうな声が聞こえた。
レクシーは幼少より奴隷として捕えられていたために、戦闘能力は高くない。迫りくるシアを躱すことも、捕える腕から脱することもできないだろう。
ましてやこの3ヵ月、シアは本当に様子を見るだけで何もせず帰って行っていたのだから、こちら側としても油断していたのもあるかもしれない。
「そろそろシエルを返してもらおうかと思って」
ヨハンの鋭い視線を向けられてもシアは怯むことなく笑みを浮かべて言った。
「シエルは物じゃねぇって前にも言ったはずだが?」
「貴方が何と言おうと返してもらうよ。嫌なら止めれば? ただしその場合、レクシーの命は頂くけどね」
ヨハンの言葉にシアはさらに笑みを深めて、グッと剣をレクシーに押し付けた。
「……てめぇ……!」
ヨハンの顔に焦りが見て取れる。
これが脅しではなく本気であることを、ヨハンも分かっているのだろう。
しかし私に焦りはない。私がシアと共に行けばいい。ただそれだけの話なのだから。
「シ、エル……行っちゃ、ダメ……」
そんな私の思考を見透かしたように、レクシーが苦しい息を絞り出して言った。
こんな状況でもそう言ってくれるレクシーの想いに胸が締め付けられる。
「ねぇ、ヨハン。この子とシエル、どっちが大事? シエルの方が大事って言うなら、ここはレクシーの命だけで引いてあげてもいいよ」
ヨハンが私を選ぶことはないと分かっての質問だろう。
シアはヨハンにレクシーを選ばせることによって、それを目の当たりにした私を絶望に落としたいのだろうか。だからこの3ヵ月、何をするでもなく様子を見て、私に安心感を植え付けていたのだろうか。
そんなことをしても何の意味もないのに。ヨハンが私を選べないのは当然のことだし、そうされたからと言ってショックを受けることもない。むしろここで私を選ぶと言われたら困るくらいだ。
「…………下衆が」
ヨハンが唸るような低い声で言った。その拳はきつく握られている。
ヨハンにとって、レクシーは娘みたいなものだ。そのレクシーを人質に取られている今の状況は苦しいものだろう。
だからこそヨハンは今、考えを巡らせている。この状況をどうやって打破するか必死になっている。
シアもずいぶんと稚拙なやり方をするものだ。
200年生きて来た人間がすることだろうか。
でも力こそが全てであるこの世界ではそれがまかり通ってしまう。
ヨハンがいくら考えを巡らせたところで、レクシーと私が共に解放される道はあり得ない。
何とも理不尽な世の中だ。
「貴女と行きますので、レクシーを離してください」
その言葉で、ヨハンとレクシーが同時に私を見た。悲しみとも見て取れるような瞳で。
「ふふ、お利口さんね」
シアが満面の笑みで言う。気持ちの悪い笑みだと思った。
「ヨハン、なに、してるの……っ、止めて……っ!」
ヨハンの脇をすり抜けてシアに近づく私を見て、レクシーが苦しげな声を絞り出す。しかしヨハンは苦虫を噛み潰したような顔で見守るだけで、止めてはこなかった。
「ヨハン……っ!」
「いいんだよ、レクシー。これが誰も傷つかない方法だから。今できる最善のことだから」
「なに、言って……うあっ……!」
私がシアの傍まで行くと、シアが思いっきりレクシーを突き飛ばした。
大きくよろけた体をヨハンが険しい表情のまま受け止める。そしてそのまま、自分の背に隠すようにレクシーを押し退けた。
「ヨハン!!」
レクシーが強い口調でヨハンの名を呼びながら私の方へと来ようともがいた。それを、ヨハンが何も言わずに強い力で押さえつけている。
「い、いやだ……っ! 行かないでシエル!!」
「ヨハンさん、セスが来たら伝えてください」
「…………」
叫ぶようなレクシーの言葉を遮ると、静寂が訪れた。
2人は神妙な面持ちで私を見つめている。
「助けに来て、って」
「……ああ、分かった。助けてやれなくて悪い、シエル。レクシーを助けてくれたこと……感謝する」
笑顔さえも浮かべて告げた私に、ヨハンは苦しげな顔でそう返した。




