第26話
ヨハンにも聞こえているのではないかと思うほど、心臓が煩く鳴っている。
セスの目の前で私を殺す。セスにシアが味わったものと同じ痛みを与える。
その言葉が私の中の何かを滾らせた。
殺さなければ、と思った。
このままではシアの好きなようにされてしまう。私だけではなく、私の大切な人もすべて。
弱みを握られて強請られた人間が衝動的に人を殺してしまう時は、こんな気持ちになるのだろうか。
背後の短剣を引き抜くと同時に、道を塞いでいるヨハンを強く突き飛ばした。
「……っ!?」
いくら私が女で、いくらヨハンが男だと言えど、不意に背後から強い力で押されればその体は思いの外、簡単に崩れる。
床に手と膝を付いたヨハンの脇をすり抜けて、私は一気にシアとの距離を詰めた。
「シエル!!」
ヨハンが私の名を叫んだ。
それでも勢いは緩めない。
握った短剣に気を纏わせて、シアを狙い打つ。
シアは余裕とも見て取れる妖艶な笑みを湛えながら、背後から短剣を抜いた。
「やめろ――――!!」
ヨハンの叫び声と同時に私とシアは短剣を振った。
怒りに任せて振った未熟な剣は虚しくも空を切って、逆にシアの剣は吸い込まれるように私の腹部へと深く突き刺さる。
熱い。
痛い。
深く突き入れられたそれに押されたように、私の体が崩れ落ちていく。
短剣が引き抜かれた時に舞った赤い血潮の向こうで、シアは変わらず妖艶に笑っていた。
私は、ここに来てはいけなかった。
自由になどなれるはずがなかったのに。
エルナーンから出ずに死んでしまえばよかった。あの時、カミューが私を殺してくれればどんなによかったか。
そうしたら、ヨハンの優しさに触れることもなかった。一度温かさを知ってしまったら縋ってしまうのに。もう、手放せなくなってしまうのに。
それが許されないのなら、最初から知らない方がよかった。
◇ ◇ ◇
ルピアの香水の匂いがした。
誰かが私を覗き込んでいる。
未だぼんやりとした視界は、目に映る形をはっきりとは捉えない。
「シエル……」
その誰かが私の名を呼んだ。
懐かしい声が、私の意識を急速に覚醒させる。
「レク、シー……?」
夢で見た通り、美しい女性へと変貌を遂げたレクシーがそこにいた。
私はどうやらベッドに寝かされているようで、私を覗き込んでいるレクシーの横にガラス瓶に入れられた点滴も見える。
「シエル……っ」
レクシーが私の名を切なく呼ぶ。
その瞬間に20年前のあの時を思い出して、胸が締め付けられた。
「……レクシー、結婚したんだってね。おめでとう」
「そんなこと今どうでもいいよぉ……」
そんな思いを払うように告げた祝福の言葉は、震える声に流されてしまった。
レクシーの顔がくしゃりと歪んで、その瞳から涙がポタポタと流れ落ちている。その顔はあの時と変わらないな、とぼんやり思った。
「ヨハンからシエルのこと、全部聞いた。もう何から話せばいいのか分かんないよ」
「そっか……」
「とりあえず、ヨハン呼んでくるね」
涙をグッと拭って、私の返事も待たずにレクシーは部屋から出て行ってしまった。
「…………」
ヨハンが私を治療してくれたんだな。
シアはどうなったのだろう。あのまま素直に帰ったのだろうか?
あれから、どれくらい経っているのだろうか。
「……ぅ……っ」
体を動かすと、刺された場所がひどく痛んだ。
かなり深く刺された自覚はある。むしろあれでよく助かったものだとすら思う。
シアは私をセスの目の前で殺すと言っておきながら、ここで私が死んでもよかったのだろうか。そうとしか思えないくらい、容赦のない一撃だった。
だとしたら、こんな詰めの甘いことをしないで殺してほしかったのに。




