第133話
自分の痕跡をすべて消してほしい、と以前に願っていた通りに、ヨハン自身も彼の持ち物も、すべてが光となって消えていった。
死に場所を見つけるために旅に出ていたというだけあって、もともとヨハンの持ち物は多くない。旅に必要なだけの荷物と医療道具くらいだ。
しかし実は、コートの内側にはいろいろな道具を忍ばせていたのだという。
今セスの首にある封力の首輪もそうだし、毒が仕込まれていたメスもそうだ。あらゆる事態に対処できるよう、日ごろから備えていたらしい。
セスと対峙する際にヨハンがわざわざそのコートを着ていたのは、その場で何らかの不測の事態が起こる可能性を考えていたのではないかとセスは語る。
"セスの中にローレンスがいる"というところまでは突き止めていなくとも、"セスがミトスに帰還したのはローレンスの力によるもの"という確信は持っていたようだし、その話をした瞬間にローレンスが現れるかもしれないと警戒をしていたのだろう。
そして、そうなった時に私に危険が及ばないよう、ヨハンはセス1人だけを呼び出した。
後で知られる分には問題ない、今この場に私がいなければ――――彼はあの時そう言っていたから、この考えは間違っていないはずだ。
本当に……どこまで優しい人なのだろう。
◇ ◇ ◇
部屋に残された血の跡を綺麗に消してから、私とセスは自分たちの部屋へと帰ってきた。
応急処置をしよう、というセスの申し出を無理やり断って、アルディナへ渡るために急いで着替える。
正直、今アルディナに渡ったところで、行き着く先の未来が変わるわけではない。
それでもヨハンがアルディナに行くことを勧めたのは、私たちに時間が必要だと分かっていたからだろう。
覚悟を決めるための、時間が。
「セス、行こう。アルディナに」
セスの方に向き直ると、彼は痛みを耐えるような表情で私に転移石を差し出した。
陣が刻まれているものと、何も刻まれていない結晶の二つ。一つだけでは私の神力が足りないもんな。
それにしてもこの結晶は、20年前に天門の守護者を狩った時に天族から買ったものかな。確か名前は……クロエ。そう、クロエとアンジェリカ。今思えば、あの時彼女たちが"関わりたくない"と私を見放したのは、正しい選択だったんだな。セスもあの時そうしていれば、今こんなことには――――。
「行こうか」
「うん」
思考を遮るように告げられたセスの言葉に頷いて、彼に抱き着くように触れながら転移石を使った。
◇ ◇ ◇
天国と呼ばれる場所が存在するのなら、きっとこういう場所をいうのだろう。
色とりどりの花が所狭しと犇めく、空に浮かぶ小島。空中庭園、と言ってもいいかもしれない。
「……っ、ここが……アルディナ……」
眼前には同じように空に浮かぶ島がいくつも見える。
端が見えないほど大きいものもあれば、今自分がいるところと同じくらいの小さなものもある。およそ現実とは思えない幻想的なその光景は、状況が違えば胸を躍らせたことだろう。
「は……っ、はぁっ……はぁ……」
息が苦しい。
体に力が入らず、花の中に埋まるようにうずくまった。
崩れそうになる体を支えようと地面に手をついた瞬間、手の平に刺すような痛みが走り、思わず両手を開いて握りこんでいたものを払った。力を失って粉々になった結晶の欠片が、幻想的な光景を彩るようにきらきらと風に舞っていく。
ここが天国ならば、どれほどよかっただろう。
この手が血に塗れていなければ、どれほどよかっただろう。
うずくまる自分の傍らに立つセスを見上げると、彼は後悔と悲しみが入り混じったような表情で、遠くを見つめていた。
その姿は恐ろしいほど美しくて、この景色に溶けて行ってしまいそうなほど儚い。
あぁ――――覚悟なら、すぐに決まった。
目の前にいるこの美しい人を、永遠に自分のものにできるなら。
悩む必要など最初からなかった。
彼を手放せるはずなど、ないのだから。
力の入らない体を奮い立たせて、ヨロヨロと立ち上がる。
背に携えた短剣を引き抜き、傍らに立つセスへと切っ先を向けた。
私に残された道は二つしかない。
魂を神に囚われてミハイルのように永遠の刻を生かされるか、ここで魂を滅するか。
そのどちらかだ。
だから――――ここで魂を滅しよう。
美しい彼と共に、永遠の眠りへ。
「……一緒に死んで」
その言葉にセスはゆっくりこちらへと向き直り、泣きそうなほど切ない表情で私を見つめた。
どうしてそんな顔をするのだろう。
でもきっとセスがヨハンに問われた"覚悟"の意味も、同じことのはずだ。
誰がどう考えたって、他に道はないのだから。
「今度こそ、一緒に死んで」
「……嫌だ」
繰り返した私の言葉を、彼が震える声で拒絶する。
「嫌だ。これ以上、理不尽に振り回されてたまるか……!」
そして悲痛な叫びを上げて、短剣を握っていた私の手を掴んだ。
「……っ」
そのまま強く手を引かれ、もつれるようにして彼の体に倒れこんだ瞬間、唇が重なり私の口の中へ何かが押し込まれた――――。




