閑話 レクシー
――――終焉の旅に出ようと思う。
ヨハンからそう告げられた時、不思議とそこまで動揺はしなかった。
彼の中ですべてが完結したのだと、知っていたから。
来るべき時が来た。それが、一番最初に抱いた感想だった。
物心ついた時から気色の悪い貴族に"飼われていた"あたしが、隙をついて逃げ出したのは5歳の時。計画性なんてなかったがために追手に傷を負わされ力尽きたあたしは、死という事象の意味すら分からず、ただ漠然とこれからどこへ行くのだろうと考えた。
そんな時に見えた透き通るような金糸の髪は、今でも目に焼き付いて離れないほど記憶に残っている。
「だぁれ?」
診療所で目を覚ましたあたしが開口一番にそう聞くと、美しい髪の持ち主は何とも言えない神妙な表情で、「ヨハンだ」とただ一言口にした。
それがこの人の名前、ということは分かったけれど、じゃあその"ヨハン"はあたしにとって一体何なのかというのは、ずいぶん長いこと定まっていなかったように思う。
いろいろと雑用を言いつけてくるので新しい飼い主か、とも思ったけれど、事あるごとに生活に必要な知識や計算、言葉の読み書きを教えてくるので、どうやらそういうわけではないらしい。でも必要以上に優しくしたり、触れてくるわけでもないので、家族というわけでもなさそうで。こんな関係性を何というのか、幼いあたしには分からなかったのだ。
だからヨハンの元で暮らし始めて数年経った時、思い切ってヨハンに聞いてみた。
「ヨハンってあたしの何なの?」
すると彼はまた神妙な顔をして、「15年間限定の主だ」とただ一言口にした。
全く意味が分からなかったので詳しく聞いてみると、命を救ってもらった対価を15年間雑用をこなすことで払え、ということらしい。
それならあたしを売ればいいのに。15年かけて少しずつ対価を受け取るより、その方が一瞬で済んでいいのではないか。――――そう思ってヨハンにそれを言ってみると、彼はひどく怒った顔をして「二度とそんなこと言うんじゃねぇ」と声を荒上げた。
その時はやっぱり意味が分からなかったけれど、要するに彼は――――あたしに"居場所"をくれていたのだ。
1人で生きていけるようになるまで。そのために必要なことを教えながら。
偶然拾ったあたしのために、他人であるヨハンがなぜそこまでしてくれるのか。
その答えをヨハンから聞いたことはなかったが、聞くまでもなく分かる。
それが、ヨハンという人間だから。
答えになってないかもしれないけれど、そう言うしかないのだ。
彼にとって"人を救うこと"は当たり前のこと。ただ、それだけなのだから。
目の前に救うべき人がいたら救う。命だけではなく、心まで。そこまでして初めて彼の中で"その人を救った"ことになる。
だから――――シエルがもう一度この世界に帰ってきてセスとまた結ばれた時、彼の中ですべてが完結した。
あたしという荷が下り、セスという荷も下り、シエルという荷も下り、救うべき人間がすべて救われた瞬間。
その瞬間、彼の中ですべてが完結した。
それを感じ取っていたから、終焉の旅に出たいと告げたヨハンにあたしはただ一言、「分かった」と返したのだ。
だってそうしなければ終わらない。
あたしが嫌だと泣いて縋ったら、ヨハンの中での救いが完結しない。
彼自身が救われないから――――。
夢を見た。
幼かったあたしが、急に思い立って料理を始めた時の夢だ。
危ないからまだ駄目だと言われていたのに言いつけを破って。
でもそれでちゃんと作れたら、喜んでくれるんじゃないかと子供心に思ったのだ。
しかし現実はそう甘くなく、初めての料理は失敗し、あまつさえ包丁で怪我までする始末。ヨハンには当然雷を落とされ、あたしは泣きながら手当を受けることとなる。
"なんでいきなりこんなことしたんだ"と問うてきたヨハンに、あたしは"そうしたらヨハンに喜んでもらえるかと思った"と素直に答えた。
それを聞いた彼はとても驚いた顔をして――――それから少し、苦しそうな顔をした。
「…………」
ベッドから抜け出し、カーテンを少し開けた。
ほんの少し白み始めた空は、まだ眠る街を静かに見守っている。
まだヨハンも寝ている頃だろうか、と考えながら窓にそっと触れると、ふと手首にあるはずのものがないことに気づいた。
「あれ……」
黄色いミサンガ。
あたしが、ヨハンとお揃いに編んだもの。
シエルからもらった赤いミサンガはしっかり巻かれているのに、それだけがなかった。
急いでベッドの中を探り、見つけたそれらしきものを慌てて窓から差し込む光にかざしてみる――――と、それは不自然に千切れていた。
「…………」
ドクン、と心臓が大きく鳴り響く。
何かに引っ掛けて切ってしまったのだろうか。
それとも――――
「……ヨハン」
いつの間にか、あたしの目から涙が流れて落ちていた。




