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短編小説

また会いましょう、幽霊おじさん。


 トイレの蓋を開けたら、そこにおじさんの顔があった。おじさんは、私と目が合って、照れたように頬を赤くした。驚いた私の手から、もともとトイレに流すつもりだったポン太の糞が落ち、おじさんの頬に直撃した。


 ちなみに、ポン太というのは、うちのアホ犬の名前である。

 


「……あの、本当にすみません、その、僕、変態とかではなくって、その、一応、幽霊でして、その、ドン引きさせるというよりかは、えっと、普通に、怯えさせようと……いやその、あの、幽霊的な意味で怯えさせようとしただけでして――すみません」


 トイレから這い出してきたおじさんは、うちの家の廊下に額を擦り付け、土下座をして謝っている。うちのポン太の糞が瞬く間に消えていたり、トイレから出てきたわりには濡れていなかったりするあたり、というか、そもそもうちの家の小さな洋式トイレに入れていたあたり、本当に幽霊らしい。トイレから出てくるとき、一瞬浮いてたし。


 おじさんは、どこにでもいそうな人畜無害で地味な顔つきをしていて、服装はよれよれのスーツを着ていた。こうしてみると幽霊っぽくは見えない。何度も頭を下げるおじさんの周りを、ポン太が吠えながら走り回っている。


「いえ、あの、いいんです、変態じゃなくて、幽霊だってことはわかりましたから……」

「ごめんなさい……」

「あ、あの、もう頭上げてくださいよ。土下座され続けるのも気まずいんですけど……」

「すみません……」


 おじさんは頭を上げ、土下座から正座の姿勢へ切り替えたものの、それでもぺこぺこと軽く頭を下げた。ちら、と目が合った瞬間、恥ずかしそうに目が泳ぎ、ぺこぺこと意味のない会釈が返ってくる。


「あの……どうしてうちに?」

「え、ええ、ええとですね、あの、誰を怖がらせようかな、と、その、辺りをふわふわうろうろしていましたら、たまたま、この、可愛いマルチーズを散歩させているお嬢さんを見つけまして、その、犬好きですから、僕」


 そう言いながら、おじさんはポン太の頭を撫でる。ポン太は吠えるのを止め、千切れんばかりの勢いで尻尾を振り始めた。うちのアホ犬は撫でられると誰にでも懐く。


「散歩中に感じてた視線はあなただったんですね……。それで、その、どうして、トイレに?」

「幽霊が出るのは水場と決まってますから、でも、その、風呂に入るのは、ね? ちょっと、その、セクハラですから。特に未成年へのセクハラは最近大問題ですから。あなた女子高生でしょう? ね? なら、ほら、まだトイレの方がましかなって……便座を上げた時点で気付きますもんね、服脱ぐ前にね」

「そ、そうですか……。にしても、幽霊なのに、こんな夕方に出るんですね……」

「時間は関係ないんですよ。夜の方が効果的らしいですけど」

「じゃあ、夜まで待てば良かったんじゃないですか?」


 何気なくそう言えば、おじさんはハッとしたような顔で私を見た。そして、私とばっちり目が合うと、慌てて顔を逸らし、極端に俯きながら、ポン太の頭を激しく撫でた。


「確かにその通りです……」

「気付いてなかったんですか……」

「僕、幽霊としての才能ないんですよ」おじさんの声が妙に湿った。「かれこれ七十年近くも幽霊やってるんですけど、一度も怖がらせられたことがなくて……そろそろ幽霊パワーがなくなってきて、やばいんです、塔に入ることすら出来なくなりそうです」

「塔?」


 幽霊パワーとかいう訳の分からない単語も気になったが、唐突に出てきた『塔』という言葉が引っかかる。そんなことより、何でお前は幽霊のおっさんと平気で会話してるんだ! と冷静な私がどこか遠くの方からツッコんできたけれど、幽霊のおっさんを相手に冷静にビビってられるほど今の私は冷静ではなかった。つまるところ、混乱してる。


「えぇ、塔ですよ。死者はね、そこを昇って行くんですけど、昇れた階数によって、来世何になるか決まるんですよ。一階だったら微生物、百階だったら人間、みたいなね。で、その階段を昇っていくのに、現世で積んだ徳が必要なんですよ」


 おじさんは背中を丸めながら説明してくれる。その顔を、ポン太がぺろりと舐めた。

 ポン太、めちゃくちゃ興奮していて、さっきから尻尾を振りまくり暴れまくっているが、このまま放っておくと、満足したところで片足を上げて放尿する(うちの犬はアホだ!)。だから呼び止めたいのだが、おじさんがあまりにも悲痛そうに話を続けるので、私にはその話の腰を折ることは出来なかった。


「でも、僕、現世で積んだ徳、ほとんどなくって……それで、あの、悪魔と取引しましてね、幽霊になって人間を怖がらせることで『幽霊パワー』を溜めて、それを悪魔に『徳』と交換してもらうことになったんですけど……いや、そういう幽霊いっぱいいるんですよ? 騙されてはないんですけど……あれです、暗黙の公式なんで……えぇ、あんまりにも怖がらせられなくて、怖がらせるための『幽霊パワー』すらなくなってきてるんですよ。『幽霊パワー』って便利でしてね、浮いたり消えたり透けてみたり姿を変えてみたりとかも全部そのパワーなんですよ」

「それがなくなったらどうなるんですか?」

「僕、消えてなくなります。二度目の死みたいなものです」


 おじさんは言うなり、しくしくと泣き始める。ポン太がさらに興奮して、また吠え始めた。


 ――どうしてそんな身の上話を、たかだかトイレで出くわしただけの私にするんだろう、と嫌な予感がした時、おじさんは啜り泣きながら、甲高い声を絞り出した。


「お嬢さん、これも何かの縁でしょう! どうか僕を助けてください~~!」


 満足そうにわん! と鳴いたポン太が、満面の笑みで片足を上げ、おじさんの膝めがけて放尿した。

 ……結局、私はそのおわびということで、おじさんの『幽霊パワー』集めに協力することになったのだった。




 ――おやすみ、と母さんに告げて、私は自室に戻り、電気を消してから、ベッドにもぐりこんだ。布団はまだひんやりしていて、少し寒い。これが、じっとしていればどんどん温かくなっていくのだ。布団がじんわりと温かくなっていき、柔らかみを増していく感触が私は好きだ。寝る瞬間をこれ以上なく愛している。

 とはいえ、今日は少し違う。


 ――おじさん、どういう手で来るのかな。


 私は布団から顔を出し、月明かりでぼんやりと薄明るい部屋の中を見渡す。

 ポン太の放尿を散々謝り、おじさんに協力することを決めた後、私たちは作戦会議? をした。

 当然の流れかもしれないが、結局、私を怖がらせて、『幽霊パワー』をゲットすればいいのでは? という話になった。私一人を怖がらせることで溜まるパワーは限りがあるらしいけど、塔に戻れるくらいのパワーが溜まったら、もう腹を決めて塔を昇るらしい。微生物でも何でもいいからもう成仏したい、とおじさんは泣いてた。七十年の月日は重いな。





「お嬢さんを怖がらせるって、どうすればいいんですか? トイレから顔を出しても怖がらなかったじゃないですか」


 おじさんはポン太を抱きしめながら尋ねてきた。私は口の中がしょっぱくなるのを感じながら、嫌々答えた。


「そりゃ……夜、寝てる時に怖がらせるとかじゃないですか? ああいう時、壁の汚れとかさえ幽霊に見えて、ただでさえちょっと怖いし……」

「幽霊が出る、とわかってても怖いんですかね」

「そこは工夫してくださいよ。……おじさんって、その顔しか出来ないんですか? 姿変えられるんですよね?」

「ええ、ほんとは死んだ時の顔と姿なんですけど、みっともなくて恥ずかしいので、サラリーマンの格好してるんです。顔も地味なのにしてます。ちょっと優しそうに見えて、この顔好きなんですよねー」

「……」


 死んだ時の姿が恥ずかしい、という気持ちは……まぁ、わからないが、だからって、優しげなサラリーマンを選ぶところもわからない。貞子っぽい姿だとか、鬼っぽい姿だとか、色々あるだろうに。何でサラリーマンなんだ。何だか、そこをストレートに突っ込むと、おじさんは立ち直れないくらい凹みそうだったので、私はそっと口を閉ざし、とりあえずツッコミは忘れることにした。


「……じゃあ、出来るだけ怖い姿をして、私が寝てる時に出てきてください。今の優しい顔じゃ駄目ですよ。怖い顔にしてくださいね。あと、出てくる方法も工夫してください」

「わ、わかりました」


 おじさんは神妙な顔で頷き、しこたまポン太を撫でた後、すぅっと消えたのだった。

 





 ……。

 …………。

 ………………。

 ……………………来ない。


 幽霊が出るとわかっているので、ギンギンに目は冴えている。あのおじさんだとわかりきってはいるものの、それでも心臓はバクバクと高鳴り始めた。いったい、どんな姿で、どうやって、出てくるんだろう。寝返りを打って目の前にいたらどうしよう、とか、天井に張りついてたらどうしよう、とか、ベッドの下から手が伸びて来たらどうしよう、とか、普段から恐れていることが次から次へと頭をよぎっていく。最悪だ。こんなことなら安請け合いするんじゃなかった。うちの父親を怖がらせろとでも言っとけばよかった。そういえばそうじゃん。何で私にしたんだ。私のアホ!


 ――ん?

 そんな時、ふと、月光が差し込んでいる小窓に、影が見えた。ぱっ、と目を向ければ、涼やかな風が吹き込んでくる小窓の隙間から、二つの目玉がこちらを覗き込んでいる。じ、と見返してみれば、それは中年男である。普通の。至って普通の中年男である。


「…………ちょっと待って」


 私は布団を蹴飛ばし、跳ね起きた。


 ――それは確かに怖いけど、それ最早ただの変態じゃない!?

 やる気あんのか、おじさんは!


 むかついて思い切り床を蹴るようにしてベッドから飛び降りれば、おじさんはおろおろしたように窓から少し離れる。


「あのさぁ……」


 話しかけながら小窓に駆け寄ろうとした時、いきなり扉が開いた。廊下の眩しさに振り返れば、母さんがぎょっとした顔で私を見ている。


「どうしたの? 誰に話しかけてるの?」

「え……」


 ぱっ、と窓を見るが、おじさんは消えている。

 どっと疲れた心地がして、私は両肩を落とした。


「……何でもない」


 私はベッドに戻り、そのまま、寝た。




 

 

「おじさん、やる気あったの?」


 ――朝。目を覚ますと、昨日の優しげなサラリーマンの姿に戻っていたおじさんが、しょんぼりと正座をしながらベッドの脇に座っていた。


「いや、その……やる気は凄くあったんです。結構頑張ったんですよ」

「あれで……?」

「いや、まさか、あんなに怖がらないとは思いませんでしたけど……普通にすやすや眠っちゃってましたけど……怖くなかったですか? ほんと、結構頑張ったんですけど」

「おじさん、ほんとに、センス、ないよ……」


 思わずそう言えば、おじさんはかなりショックを受けたらしく、土下座するようなポーズで項垂れた。かと思いきや、そのまましくしくと泣き始める。


「まずいです。あとパワーが少ししかないんですよ。助けて下さい。死んでしまいます」

「そんなに少ししかないの?」

「私に許されているのは、具現化だけです。あと一回、具現化しちゃったら、パワーを使い切って死んじゃいます……」

「具現化って?」

「今の私は、お嬢さんだけにしか見えなくて、何も触れないんですけど、具現化っていうのは、誰からも見れて、触れる状態になることですね」

「あぁ、そうなの……」

「今までは犬が通るたびに具現化して撫でてたんですけど……」

「それがあと一回てことは……わりと少ししか残ってないんだね、パワー……」


 おじさんは項垂れている。次の具現化で死んでしまう、ということよりも、犬とすれ違っても何もできないことを悲しんでいるように見えるのは、私が寝起きでボケているからか。


 そこで、私はハッと時間を思い出す。まずい、仕度しなきゃ。


 とりあえずおじさんを部屋から追い出して、着替え、身支度を済まし、朝ご飯をかきこんで、私は高校へ行く為に家を飛びだした。


 すると、うちの家の扉をすり抜けて、おじさんが叫んだ。


「お嬢さん! お弁当忘れてますよ!」

「あぁ、どうも……」


 私は家に戻り、お弁当を鞄に詰めて、もう一度家を出た。その時点でいつもより十五分遅刻で、急いでも間に合いそうにない。諦めて、ゆっくり歩くことにした。

 隣を、おじさんがふよふよ浮きながら付いてくる。


「これから、僕、どうしたらいいんでしょう……」


 五分ほど無言で歩いていたが、いきなり、おじさんが沈痛な面持ちで言った。今まで無言だったのに、と思ったのだが、よくよく気が付いてみれば、ここは近所でも人通りが少ないところだ。私がおじさんに返事をしても、「うわ、あの子、一人で話してる」と思われずに済む。おじさん、気が利く。


「そうだね……」なるべく小声で私は返事をした。「今日の夜に、うちのお父さんを怖がらせるとかどう?」

「お嬢さんのお父さんですか?」

「うん。……おじさんに任せてると、やばそうだし、協力するよ。何が来ても怖がる自信あったのに、昨日の夜のおじさん、全然怖くなかったもん…」

「そういえば、起きてたんですね」

「何が」


 角の向こうに誰かがいるのが人影で分かった。一人で話してるヤバイ奴だと思われたくなくて、一層声音を落とせば、おじさんはきょとんとして首を傾げた。


「昨日の夜、僕が鬼に化けて部屋に入った時、お嬢さん、普通に寝てませんでした?」


 ――え?


 ぎょっ、として、思わず、大声が出た。


「おじさん、昨日の夜、窓の外から私のこと見てたでしょ……!?」


 おじさんが、えっ? と目を丸くする。

 えっ、と私も声を発せば――


「うん、見てたよ……」

 ――想定外の方向から返事が返ってきた。

 前を見れば、角の向こうから、ひょい、と人が顔を出す。それは、薄汚れたジャージを着た中年の男――昨夜(・・)私を見ていたあの中年(・・・・・・・・・・)男だった(・・・・)


 思わず足を止めた私の方へ、その男はにたにたと黄色い歯を見せて笑いながら近づいてくる。


「昨日の夜は、せっかく君が話しかけにきてくれたのに、君のママに邪魔されて、お話出来なかったね……。今日は大丈夫だよ。僕、部屋掃除してきたから、僕の部屋においで、ね、ゆっくり喋ろう……誰にも邪魔させないから……」

「――ひ」


 怖くて足が動かない。凍り付いた私の腕を、その男が掴む。意外にも強い力で、ゾッと全身の血の気が引いた。悲鳴が喉に絡む。怖い。怖い。怖い!


 ――その時、おじさんが動いた。


「やめろ!」


 そう叫んだおじさんの顔の肌が、スーツが、ぼろぼろと剥がれ落ちていく。優しく細められていた目が紙のようにべらりと剥がれ、真っ赤に充血して窪んだ眼がぎょろりと現れた。


「手を離せ」


 彼はそう言って、私の手を掴んでいる、中年男の腕を掴んだ。中年男のどよりとした目がぎょっと見開かれ、おじさんを見る。いや、おじさんではなく――そこにいたのは、兵士・・だった。しかも、頭からとめどなく血を噴射させ、泥だらけの軍服をべったりと血に濡らし、ぎょろりとした眼で男を睨みつける日本兵・・・だった。


「ひぃ、」

「きゃ、」


 あああああああ、と中年男と私の悲鳴が重なる。中年男は私と日本兵の腕を振り払って逃げ出し、私はその場に尻餅をついた。


 抉れた頭からどろどろと赤黒い血を流している日本兵が私を見下げる。完全に獲物を捉える目つきだったそれが、ふと、一瞬ぼやけて――そして、気付いたら、そこにいたのは、よれよれスーツの、おじさんだった。


「え……」

「パワーが! 溜まり! ました!」


 おじさんが、パァッと顔を輝かせる。


 ――とりあえず私は、泣いた。

 

 





「えぇ、僕、戦争で死んだんですよ。七十年間、どんどん平和になっていく日本を見ているだけでも幸せで、ずるずると幽霊やっちゃってました。あの汚い男を追い払おうと、具現化した時に、変身し続けるパワーもなくなってしまって、死んだ時の姿に戻ったんですよ……お恥ずかしい。公衆の目の前で全裸になった気分です」


 平凡なおじさんになったおじさんは、後頭部をかりかりと掻きながら、私の横で浮いている。私といえば、交番で、警察のお兄さんがあれこれ手続きするのを眺めていた。お兄さんが目の前にいる為、おじさんに話しかけられないので、私は手元のスマホに短い返事を打ち込む。


『そうなんだ』

「はい。もう、満足したので、微生物に生まれ変わるのでもいいかなって思ったんですけど……あの気持ち悪い男の分と、お嬢さんの分とで、幽霊パワー結構溜まりましたね。よくわかんないですけど、犬にくらいなら転生できるかもです。頑張ります」

『そっか』


 おじさんはウキウキしている。私はちょっと考えてから、そっと打ち込んだ。


『助けてくれてありがとう』


 おじさんはスマホの画面をノリノリで覗き込み、ぴたりと動きを止めてから、照れたように頬を赤くした。


「それはこちらこそ、ですよ。お嬢さんのおかげで、幽霊パワーが溜まりました」


 私は僅かに微笑んで、打ち込んだ文面を削除する。おじさんもにっこりと微笑んだ後、すっ、と私から身を離した。


「それでは、お嬢さんも忙しいでしょうし、僕はこれで失礼します」


 見上げれば、おじさんは穏やかに目を細めていた。


「もし、転生して犬になれたら、お嬢さんみたいな優しい人に飼ってもらいたいですね」


 優しいのは、おじさんの方だと思う。

 おじさんは、私を助けようとして、躊躇いもなく具現化してくれた。もしかしたら、パワーを失って死んじゃってたかもしれないのに。何も迷わずに、助けてくれたのだ。


「ありがとう」


 思わず、今度は声に出して言えば、おじさんはまた微笑む。ついでに、警察のお兄さんも微笑んで会釈してくれた。


 私はスマホのメール作成画面をもう一度開き、打ち込んで、おじさんにそっと見せた。


『また、会いましょう』


 おじさんは微笑んだまま、頷いてくれた。そして片手を振り、すぅっと、消えていった。私は少し悩んでから、その宛先のないメールを、保存した。

 



 ――私に声をかけてきたあの中年男は、そのあとすぐに捕まった。

 たくさんの女の子がストーカー被害にあっており、捕まるや否や、「私を悩ませた男はそいつだ」という被害報告がそこら中から集まって、かなりキツめの罰を受けることになったという。

 ちなみに、私に目を付けたのは、おじさんと出会った日、私がポン太の散歩をしているのをたまたま見つけたかららしい。ポン太の糞を回収している私を見て、優しい子だと思って……とか証言したと遠回しに聞いた。この事件以降、私はポン太の散歩の役目を禁止にされた。

 散歩の時間になる度、アホ犬ポン太に不思議そうな顔で追いかけまわされることを抜きにしたら、私の生活は緩やかに平穏へと戻っていった。


 ただ、私のスマホには、まだ、あのメールが、消せないまま、残っていた。

 




 

「ねぇねぇ、今度、肝試し行かない?」


 放課後。友達がオカルト雑誌を広げながら尋ねてくるのを、私は笑ってかわす。


「私は別にいいよ」

「なぁに、あんた、幽霊信じてんの?」

「信じてるというか……あはは」


 私は笑い、その追及から逃れるために、「ちょっとトイレ行ってくる」と陳腐な言葉を吐いた。


 信じてる、とかじゃないよね。

 幽霊は、いるんだもん。


 おじさんは、もう、犬になっただろうか。それとも、まだ赤ん坊として、母親犬のお腹の中にいるのだろうか。いつか、どこかで、誰かに散歩されているおじさんとすれ違ったりするのだろうか。いつか、おじさんをこの手に抱きしめたり、するのだろうか。


 ……いつかの、その時まで、あのメールは消さないでおこう。

 そう思いながら、私はトイレの個室に入り、鍵を閉める。

 

 そして、トイレの蓋を開けたら、そこにおじさんの顔があった。おじさんは、私と目が合って、照れたように頬を赤くした。


「…………あの、何してるんですか?」

「お久しぶりですね。……あ、やっぱり水場かなと思って。今度は学校にしてみました。どうですか?」

「……えっと、成仏したんじゃ……?」

「無理だったんです」


 おじさんは自らの頬をかりかりと掻く。


「七十年も地上にいたものですから、利子みたいなものが付きまくっていて。もっともっと幽霊パワーを溜めないと、悪魔との契約が解消出来なくなったんです。解消できないと、塔に昇れないんですよ」

「……あ、そうなんですか……」

「また会えましたねぇ」


 おじさんはにっこり笑う――いや、『また会いましょう』てそういう意味じゃない。絶対にそうじゃない。

 ツッコミを堪えていれば、おじさんは、トイレからずずずと上半身を這い上がらせ、そして深々と頭を下げた。


「あの、もしよかったら、また、」


 協力してください、と言われるのだと思った。そう思って、嬉しいようなそうでもないような不思議な気持ちになっていたら、おじさんは頭を下げたまま、言った。


「ポン太くんに会わせてください」


 私はその日の夕方、ポン太と遊ぶおじさんを見ながら、保存していたメールを消したのだった。


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