その9(柴谷・自転車・佐藤教諭・交通事故・深江診療所・公道自転車走行禁止)
小学校一年生の二学期、柴谷が転校してきて人気を集めた。光るべき個性がなかった俺ではあったが、背丈だけはクラスで一番だったのに、柴谷に抜かれた。背丈順に並んだら、俺は柴谷の前だ。その上奴は運動神経も秀でていた。
ケンかも強そうだ。気が弱い俺だが、一旦喧嘩になったら一応強かった。
毛嫌いしていた猿顔チビ前田、俺の嫌がることを平気でやる。柴谷の転校紹介のとき、俺を教壇まで出て来させ、みんなの前で互いに後ろ向きに立たせて背比べさせやがった。俺は取り柄を一つ奪い取られ非常に悔しい思いをする。これが教師か。
小学校一年生のとき、まだ自転車に乗れない者が多く居て、友廣もその内の一人だった。少なくとも俺は上手く乗れたし、当時少なかった小児用自転車も持っていた。この自転車は保育所時代に親父に買って貰っていた。
俺の家族は良く江迎町の隣の吉井町にある御橋観音に参詣した。その帰り、店頭に並んでいた自転車を欲しがって、聞かん坊の俺がいつもの如く泣き喚くものだから、仕方なく購入と相成った。
自転車に乗れることを自慢し捲っていた俺に、友廣がどうしても教えてくれと泣き付くので、仕方なく一端の先生気取りで得意になって、御堂住宅の前のボタのグランドで指導してやった。
小学校二年になって、上品な感じの女教師、佐藤先生が俺の担任になった。彼女は猪町工業高校学生寮を挟んで、御堂住宅より県道沿いの猪工職員住宅に住んでいたので、俺のお袋を見知っていた。必然、俺は学校生活を慎重に送らざるを得ない。
二年生になると今持っている自転車が小さくなったので、親父にせがんで、次男の賢二の自転車を買う序に買い替えて貰った。小さな子供用ではないちょっと大きめの自転車に俺は有頂天だった。4月・5月、毎日その自転車に乗って回った。
5月5日の金曜日、俺はテレビアニメ「遊星少年ソラン」を次男と仲良く見ていたが、途中、自転車に乗りたいという欲求に駆られる。その日はあまり自転車に乗ってなかったから。アニメにも後ろ髪を引かれる思いではあったが、振り切って玄関から真新しい自転車を引き出し、夕暮れのボタのグランドに乗り出す。
視界の中の、昼間と違う夕刻の物淋しい佇まいが俺の気分をウキウキさせる。グランドを数周乗り回したが、物足りなさを感じた俺はグランドと県道の段差を一気に下り下りた。左車線を走るつもりが、勢いで右車線に膨らむ。左側通行に修正しようと中央線に寄って出た瞬間、ガシャーンと衝撃音、俺は冷たいコンクリートに打ち付けられた。全身麻痺したが如く路上で蠢く。
俺は二人乗りの単車に追突された。事故現場に周囲の民家から人が集まって来る。意識はちゃんとあったから、県道のすぐ上の丘陵に新居を構えたばかりの、猪町小学校の三年生を受け持つガマ顔おばさん教師、永田の姿も認めた。
俺はすぐ救急車で深江診療所に運び込まれたが、不幸中の幸い、大した怪我ではなかった。単車は飲酒運転だったそうだが、俺にはそんなことどうでも良かった。タンデム走行の同乗者が死んだと聞かされた日には、罪の意識に恐れ慄く。俺は人殺しだ。後方を確認せずに中央線に寄って行ったのは俺だから。
黙っていれば知りようもない事実をどうして七歳の子供に教える必要がある。誰が俺に言ったかは忘れたが、2019年、もし俺が父親だったらそいつ殺してやるわ。
そんな俺に親父をはじめ、周囲の大人たちは元気づけようと、「飲酒運転で二人乗りしとった相手が悪かっちゃけん気にすんな」と何度も言い聞かせる。
――馬鹿か!なら箝口令布いて俺に情報が洩れんようにせんか。ほんと馬鹿な大人ばかりじゃ。
深江診療所の病室にはベッドが二床あったが、浅い眠りに就いていた俺の耳に、「 南無妙法蓮華経… 南無妙法蓮華経…」という念仏が聞こえてくる。目を開けて隣を見ると、小さな仏壇をベットの頭に置いて、キチンと正座したオヤジが懸命に唱えている。
「おんちゃん、何やそいは?」と訊くと、オヤジはあれやこれやと丁寧に教えてくれる。オヤジに言われるままに辿々しい口調で唱えてみる。
「南無妙法蓮華経… 南無妙法蓮華経…」
意味も分からないのに何も感じる訳がない。
入院は一週間の予定だったが、四日で退院した。入院二日目に、その頃まだ良く一緒に遊んでいた川添が城島と一緒に見舞いに来たが、正面玄関から入って来ず、病室の窓から顔を出すだけの訪問だった。俺は不意を突かれ若干焦る。
「木村、元気しとるか?事故に遭うたって聞いてびっくりしたぞ」
「大したことなかけん、直ぐ出らるるくさ」
「田んぼの中に太か鮒の居ったとばってん、わぁがが退院したら一緒に捕りに行こで」
人一人亡くなったと聞いて落ち込んでいた俺だが、川添とのこのちょっとした会話に気持ちが解れる。退院しても用心のため、数日休んでから登校した。親父は頭を打ったことによる後遺症を心配していた。
日本の最西端の地図からも消えようとしている小さな町のこと、俺の交通事故に関する件、特に死人が出たことはほとんどの生徒が知っていた。
俺の起こした事故による波紋、それは猪町小学生の生徒の公道への自転車乗り入れ禁止措置だ。歌ヶ浦小学校はどうだったかは知らない。
登校してこの新しい校則を知ったときの俺の驚愕、狼狽は言葉では言い表せない。俺は良い、事故ったのは自己責任だから。だが他の生徒への影響、迷惑は計り知れない。
猪町町は一本の県道で繋がっている。その県道が猪町小学校の深江部落、御堂部落、北猪町部落、南猪町部落を結んでいる。口の里部落は県道を外れて、町道の大屋ー口の里ー御堂を使うが。
友達の家に遊びに行くのにテクテク歩けとは。歩くのが嫌だったら、西肥バスを使えと。どうして高が友達の家に行くのにバス代を払わなければならない。
俺が他の生徒の立場だったら、事故を起こした奴を恨んで憎んでシカトして学校でイジメ抜いてやる。じゃなかったら、バス代カツアゲしたる。
ほとぼりが冷めるまで学校は針の筵だった。特に上級生の、「この野郎のせいで」という敵視、白眼視が痛くて辛くて堪らなかった。直に嫌味を言ってくる奴も居た。
現代のイジメ全盛時代だったら間違いなく俺はイジメ自殺のパターンだろう。ただ、現代は生徒が自転車で事故ったから、自転車公道禁止なんて暴挙をやる度胸は学校にはない。イジメの対象生徒になって死にでもされたら学校の責任になる。裁判沙汰だ。
何でも禁止すれば良いというものではない。事故る奴は事故る。死ぬ奴は死ぬ。不正があって法律・条令が厳格化されるのは別に良い。適用を受ける範囲が国、県、市と広いし、恨む奴がその原因を作った本人に会える可能性はないから、文句のつけようがない。
だが、小さな村、集落、生徒数360人の学校では困る。双方、初中、顔を合わせねばならないのだから。頭を抱えようがどうしようが、こうやって本人の意向など全く無視して、すぐ極端な方法を取るのは、戦前の連帯責任思想の悪い実例だ。
昭和40年代にはまだ軍国教育が残っていたのは、俺には救いだったかも知れない。イジメに教師の目が光っていた。下手なことでもしようものなら平気で体罰食らわせられるから。拳で殴られることはないだろうが、往復ビンタの嵐、その上、給食抜きで平気で一日中立たされる。
体罰に文句言う親なんかいない。子供が悪いことをしたのが事実だったら、煮て食おうが焼いて食おうが教師の自由だ。ただ、親からも学校からも強い権限を与えられていた猪町小学校の教師だが、愛の鞭という言葉もある、生徒を想う強い愛情から来ていることだけは確かだったから。悪用する変な教師だけは居なかった。