その8(前田教諭・学校給食・松本・スケッチ大会・優良賞)
猪町小学校の学童数は360人程で一クラス約30人、ほとんどの学年が二組で編成されていたが、川添・村上・吉田の御堂部落三ガキ大将の居る俺の一つ上の学年だけが生徒数が足らず、一組編成だった。
俺の小学校一年生の担任は猿顔の教師、前田だ。チビで歳は四十過ぎぐらい、いつも地味な年寄じみた服を着ていた。学年であまり目立たない俺は前田に期待もされてなかった。五段階評価のオール3で、お情け程度に4が一つ二つ通知表を飾る。小学校の成績なんて好い加減なものだ。テストの成績だけで小学校の通知表の評価が決まったとは俺は思わない。教師にアピールできるような強い個性が必要だ。
渡り廊下を挟んで一年生の教室の東側は給食室だ。おばさんが数人働いていた。北側校舎は南側校舎より一段高くなっており、中庭と北校舎の間の渡り廊下は、構造上、数段の階段だ。その段差と給食室の間のスペースに朽ちかけた老木が植わっており、大きな猿の腰掛けに寄生されていた。低学年の俺にはそのキノコがどうにも不思議な存在に思えて、屈んでじっと見惚れる。
猪町小学校では、渡り廊下の教室側の壁際にガラスケースに入れられて、その日の献立が展示される。昭和40年代、何度も言うが、総じて国も国民も貧しかった。
外食産業と言っても、個人経営の食堂が江迎猪町両町に二・三店あったくらいで、レストランと名の付く代物にお目に掛かれるのは、佐世保玉屋に連れて行って貰ったときぐらいだ。
物資もそう豊かではなく、個人商店の品揃えも貧相だった。飲料と言ったら瓶入り牛乳くらい、お袋に買って貰って飲んだことはない。初めて飲んだのは学校給食だ。話によると、ちょっと前までは脱脂粉乳だったそうだ。
製パン会社と言ったら知っているのはリョーユーだけ。滅多なことでは買って貰えない。当時の俺の小遣い銭が10円、大好きなリョーユーのバナナクリームパンが20円だった。小遣いを貯めて買おうという発想はなかった。街にはパン専門の店などない。
記憶を辿れば、パンなるモノを口にしたのは給食が初めてだった。日本をアメリカナイズしてしまうというGHQの策謀だったんだろうが、国民にパンが一般的になったのは給食のお蔭だ。当時の日本人には主食がパンなんて考えられなかったから。
安月給の国鉄職員でも一応、親方日の丸、特典は松浦線伊万里機関区にあったという国鉄物質部で、個人商店では手に入らない品物を安く手に入れられたこと。国全体が貧しかったんだから親父が国鉄職員だった俺は家が貧乏だと思ったことはないが、現代のモノが豊富な贅沢社会のように、ほとんど考えずにボンボン買うという感覚からは程遠い。買おうにもモノがないのだから。必然、夕食の献立も決まってくる。
牛肉は食ったことはない。肉はほとんど鯨、時折豚肉かマトンで、海辺の町だったから魚は豊富だ。特に平戸からは、毎日天秤棒を担いだ棒手売のオヤジが重い金属製の立方体の荷をぶら下げて行商にやって来ていた。
だから、夕食のおかずはほとんどアジかイワシかサバの煮付けが焼き魚だ。学校が休みのときの昼食は、当時一般的になりつつあったインスタント袋麺、うちではマルタイ棒ラーメンに丸天の細切りを入れて、一緒に煮込んで食卓に出てきた。
そんな貧しい食生活だから、学校給食は俺には夢のメニューだった。ミートスパゲッティー、ハンバーグ、大学芋、マカロニサラダ、クジラの竜田揚げ、コロッケに中華など、お袋が家では作ってくれないものばかりだ。特にバナナは嬉しかった。一本ではなくて半切れだけだったが。
時折、これ見よがしに御堂住宅の仰木店にぶら下がっていたが、物欲しそうな俺を尻目にお袋は目もくれない。俺が腹一杯バナナを食えたのは、重症事故で長期入院したときだった。
俺にとっては、米飯給食なんて嬉しくも何ともない。貴重なのはおやつ代わりのコッペパン。半分残して持って帰って、お袋が電気釜で飯を炊くとき、ちゃっかり中に入れてフカフカにし、砂糖を挟んで食った。
中学校はパンが二個付いてくると聞いた日には、差別だと学校に怒鳴り込みたい気分になったが、船の村のお袋の実家の従姉の富貴子がくれた中学校のパンを、小学校のパンと比べてみたら小さかったことに俺は留飲を下げる。
そんなだから、飢え児の俺は二時限目の休み時間になると毎日献立を見に行って食欲を掻き立てていた。別に取り立てて取り柄のない俺だったが、食い意地だけは張っていた。
保育所時代から仲の良かった友廣だが、小学校に入学したては組が違うこともあり、あまり遊ばなかった。良く遊んだのは松本だ。深江に住んでいて保育所も一緒で頭が良かった。一年で平戸に転校して行ったが。
特に図画が上手く、個性を大いに発揮していて羨ましかった。成績もオール5に近かった。俺とは違い、前田に期待されていた。小学生ながら、頭が良い奴と遊べば自分にも良い影響があるとか考えていたのかもしれない。
猪町小学校は年に一回、県主催のスケッチ大会が開催される。初秋のスケッチ大会、俺は親父に買って貰った真新しい画板を引っ提げて足取り軽く、松本と二人、蒸気機関車の写生に江迎駅に出掛けた。二人は仲良く並んで駅のホームに足を投げ出して座り、全く同じものを描いた。
松本の絵は誰が見ても蒸気機関車だと分かる真面なものだったが、俺のは直方体の箱を二個並べただけの全くお粗末な絵だった。その日の内に輪郭だけは描き終えて少し色も着けていた。後は学校の図画工作の時間に仕上げようと、画板に入れて家に持ち帰った。
夕方、画板から絵を抜き取って見ていた親父が、「康太、こりゃ蒸気機関車の絵には見えんぞ。まっと(もっと)形ばようとせんば」と、その辺にあった紙に簡単に機関車を描いてく見せてれる。俺はその週の図工の時間に、粗方色を着けていた蒸気機関車のつもりの箱形の部分を、上からクレパスで蒸気機関車の形に黒で塗り潰し、何とかそれらしく見えるようにした。
一ヶ月後、俺と松本のスケッチ画が優良賞を獲得したことを前田に聞かされ、俺は狂喜した。小学校に入学して何の才能も発揮できなかった俺が初めて図画で注目された。
俺は、「スケッチ大会で優良賞ば取ったってね」と感心される度に得意になり、当然二学期の図工の評価は5に違いないと確信して疑わなかったが、現実は甘くなかった。
渡された二学期の通知表の4という数字に俺は我が目を疑う。喉から手が出るように欲した5、俺のような凡人には全く縁のない数字だと思っていたが、今回のスケッチ大会の優良賞は千載一遇のチャンスだったのに。
他の教科で5と取れる機会なんて、太陽が西から昇っても無理だ。俺は心底、前田の猿顔を憎んだ。