その6(実家の果実・日の出山遠足・干し柿・ハゼ負け・口皹)
猪町小学校のすぐ傍、大野の親父の本家に孟宗竹の林があった。梅雨時になると、林のそこかしこに筍がにょきにょき顔を出し、学校帰りに時々、掘って持って帰った。その他、甘柿、渋柿、富有柿、ビワ、ナツメなどがあったが、たくさん実ったのは甘柿、高木で、登って実を千切るのには閉口した。
渋柿は採らずにずっと木に生ったままにしておく。ジュクジュクに熟して柔らかくなって渋味が取れてから食った。富有柿は生る年と生らない年があったが、生っても数個だ。
大きなビワの木があるにはあったが、実を付けたのを見たことがなかったような気がする。どうしてって親父の本家では食った記憶がないから。同じ猪町町内の船の村のお袋の本家には三本のビワの木があって、毎年どれか一本、たくさんの実を付けた。
親父の実家には俺より二つ下、俺の次男と同い年の貢と言う名前の従弟がいた。俺が小学校五年生のとき、俺と弟と貢の三人で、ナップサックを背負って、子供だけの初めての登山ごっこに挑んだ。遠足気分を味わってみたかった。
なけなしの小遣いを叩いて植松の駄菓子屋でお菓子を買い、それだけでは少なかったので、俺が高木に登って甘柿を獲っておやつにした。
行先の日の出山は猪町町を南北に貫く県道18号線の両脇に連なる山塊の一つだ。単に陽が登る山だから日の出山。猪町小学校の校歌にも歌われている。山の向こう側は、地図で見れば大屋・口の里で江迎湾が広がっているだけなのだが、小学生の俺にはそんな知識はないし、考えたくもない。
勝手に空想は膨らむ。高い山の頂上に登ったら、今まで見たことのない奇妙な風景が広がっているような気がした。コナン・ドイルが書いた「失われた世界」みたいな。
高いと言っても、日本の西の果ての忘れられた小さな町の地図にも載ってない山だ。現在でも標高は分からない。4・5百メートルくらいか。
北鹿町部落の土井ノ浦から入った。小学生の足では日の出山登山は結構辛かった。現実は幻想をいとも簡単に打ち砕く。頂上付近は身体が吹き飛ばされるくらい風が強く、遠足気分に浸る余裕もなく早々に引き揚げた。期待した景色も森林が広がっているだけで、「失われた世界」どころか海も望めなかったのにはがっかりした。
子供の頃に食い過ぎて、大人になったら食べる気もしなくなったもの、それは、干し柿だ。前にも述べたが、小学生の俺の一日の小遣いは10円だ。甘いものが食いたくてしょうがないとき、俺は自分で食い物を調達した。それが冬の味覚干し柿だ。
甘柿と渋柿の見分け方は簡単だ。実の表面を爪で削ってゴマがあったら甘柿、無かったら渋柿。俺には不思議だった。渋柿は毎年渋柿だが、甘柿は突如、渋柿になったりする。何度も痛い目にあった。甘柿だとかぶり付いたら口が痺れるほどの強烈な渋味が襲う。だから、甘柿の可能性が高い柿の木でも、一度実を爪で削る癖がついた。
田舎の正月、元旦にはお袋手作りのおせちと猪町雑煮、それと正月定番のお菓子が並ぶ。お菓子の名前は分からない。ゴマが表面に塗された平たい饅頭のようなお菓子だった。ネットで調べてみたが載ってない。作っていた製菓会社はもうないんだろう。それと干し柿、水分が抜けてしまって硬化している。これもお袋の手作りだ。俺はこの固い干し柿が好きではなかったからあまり食わなかった。
ある年、お袋の干し柿作りを手伝った。親戚から仕入れてきたたくさんの渋柿の皮を包丁で剥く。この手伝いで俺は皮剥きが上手になった。炭鉱住宅の庭側の軒下の物干し竿に棕櫚の葉を細く裂いた紐で吊るす。早く食べたかった俺は、干した柿をお袋に教えられた通りに両手で揉みながら、「まだ食ったらいけんの」と何度も訊ねたものだ。
数週間してお袋から、「柿が柔らかくなっとってしこりがなくなっとったら甘くなっとるよ」と言われて食ってみた俺は、その甘美な味に魅せられて虜になってしまった。正月の干し柿は好きではなかったが、この状態の干し柿ならいくらでも食べられる。小遣い銭なんか要らない。
別に親戚から貰って来なくても、山には渋柿の木が腐るほどあった。その土地の所有者は居るだろうが、渋柿など生るに任せて放置状態だ。
小学生の俺が面前で採っていたとしても、微笑ましい目で見てはくれても怒るオヤジなど居やしない。籠いっぱいに収獲して、上達した皮剥きの技を駆使して物干し竿に所狭しと吊り下げ、甘くなった柿から片っ端に口に入れた。だから、大人になった俺は干し柿を見ただけでうえっとえづいてしまう。
山から多大な恩恵を受けて少年時代を過ごした俺だが、ありがたくない送り物も貰った。ハゼ負けだ。俺は肌が弱かった。一緒に遊んだ城島や友廣はハゼに負けない。俺だけがハゼの木を選んだとは思えない。話によると弱い奴はハゼの木の下を潜っただけでも負けるとのことだったが、そこまではなかった。
俺は二度もハゼに負けて(ハゼノキ(櫨の木)などのウルシ科の植物に含まれるウルシオールという成分によって起こる接触性皮膚炎)しまった。一度目は小学校一年生のとき、城島の家の裏山に登って、灌木を肥後守(小刀)で切り、柄の部分の皮は残し、刃の部分の皮を剥いで刀らしきものを作って遊んでいたが、俺が刀を作ったのはハゼの木だった。手に付いた樹液で顔などを触ったのだろう、翌日身体中に赤い醜いブツブツが表れて腫れ上がった。特に顔が酷かった。痒い、兎に角痒い。ヒリヒリして熱も帯びている。俺は両親に泣き付く。
親父はすぐ分かったようで、「こりゃハゼ負けやな。昨日ハゼの木で何かしたか?」
俺は泣きながら、「城島たちと刀作って遊んだ。あいがハゼの木やったとね?」
「そうやろ」
ハゼ負けは炎症を起こした皮膚がべとべとして気持ち悪い。被れた部分から浸出液が滲みだすから、初中、赤ん坊のあせも・ただれの予防などに用いる天花粉を塗っておかねばならない。
余談だが、お袋は天花粉を確かに「テンカホン」と言っていた。漢字の読み間違いだろう。別に方言でも何でもない。だから俺もテンカホンと呼んでいた。
親父に連れて行って貰った深江の診療所ではピンク色の塗り薬を全体に塗ってくれた。薬品の名前は分からない。当時、ハゼ負けには例外なくこの薬を処方したようだ。
これだけ痛い目に遭えば、「羹に懲りて膾を吹く」だ。ハゼの木は猪町のそこらじゅうに自生していた。俺は教えて貰ったハゼの木の葉を瞼に焼き付け、学校の帰り道、ハゼらしき葉をつけた木があろうものなら、わざわざ回り道するくらいに十分注意したつもりだったのだが。小学校四年生のとき、またも、ハゼの木で刀を作るという離れ業を演じてしまった。
実は俺は小学校高学年辺りから唇のひびに苦しんだ。皮膚が弱かったから、手の甲・指などのひびわれ・あかぎれにも苛まれていた。手は薬を塗っても塗らなくても水場の作業で沁みて痛いだけだが、唇は薬を塗らないと乾燥して気持ち悪くてしょうがなかった。いつも唇の乾きを意識せざるを得ない。困ったのはその習慣性だ。
オロナイン軟膏はあったが、どうしてだか、うちではひび・あかぎれには使用しなかった。家庭薬として常備していたのは、御堂住宅の仰木店で調達した直径7・8センチ、高さ3・4センチ程の丸い容器に入った半透明な保湿剤だった。手と唇に塗っていたが、特に唇は乾く度に何度も何度も塗布した。
その内小さな軟膏ケースに移し替えて、学校でもどこでも唇が乾く度に塗り捲った。最初は見た目確かに唇に罅割れはあった。しかし、治っても習慣性がなくならなかった。癖になってしまった。春夏秋冬関系なく、乾いたら気持ち悪くて居ても立っても居られなくなる。外出時、持って行くのを忘れでもしたら大事だ。気持ち悪くて何も手に付かなくなって狂い捲る。
俺は子供心に将来が不安になる。
「大人になっても薬と離れられんやったらどげんしゅうか。こん薬はそがんどこにでもなかやろうし。仕事するごとなって遠方に出て行ったら、薬捜し捲らないかんで。そうせんと何もできん」
俺は本気で悩み、学校帰り、一緒に歩きながら、俺と同じく唇に皹を作っている友廣を横目で眺め、薬を塗る必要のない彼を心底羨ましく思った。
そんなだから今回のハゼ負けは前回にも増して重傷だった。その日もハゼの樹液が付いた手で唇を何度もゴシゴシとやったに違いない。その日、就寝した俺は唇に異様な感覚を覚え、夜中に目が覚める。何気なく唇に手をやって驚愕した。何と唇が倍に膨れ上がっている。俺は慌てて隣に寝ている親父を叩き起こす。
「おとさん、おいの口の腫れ上がってようと動かせん」
起きて蛍光灯を点けた親父は、「なんかそりゃ!豪い腫れとるやなかか」
俺は今にも泣き出し兼ねない様子で、「おとさん、はよ病院に連れて行ってくれっ」
夜が明けて、江迎の病院に着いてからの待合室の患者たちの物珍し気な視線。真面に口を開けて話すこともできない。飯を食うときは手で唇を抉じ開けて食物を入れ込む。
二・三日は休めた学校も、病気でもないし、そう続けて休む訳にもいかない。仕方なく、マスクをして登校した。顔を晒さない俺のマスク姿に級友たちが興味を持つ。訊かれる度に、「う~んちょっと風邪ひいてしもたっちゃん」と言葉を濁していたが、給食の時間になって窮地に立たされた。
「このまま食わんでおろうか。ばって、全部残すにゃ腹の減り過ぎとるし勿体なか」
俺はこそこそとみんなの目を盗んでは、マスクを引っ張って口に給食を少しずつ入れ込んだ。何とか自力で口は開けられるようになっていたから。その内、俺の斜め後ろの席の浅田が気付いた。
「おー、木村の口ば見てんない。土人の口のごとしとうやっか」
その囃子声を聞いて、好奇心を持ったクラスメイトが寄って来る。全くとんだ赤っ恥を掻いてしまった。