その5(鮒掬い・入江の兄貴・カブトガニ・友廣宅の井戸・ウベ・山桃・アケビ・木登り)
小さな池や用水路に小鮒を掬いに行くことも多かった。お袋の目を盗んでは台所の棚からてぼを持ち出して小鮒を掬い、ゴミだらけになったてぼを水洗いして元の棚に戻す。掬った小鮒は観賞用の水槽で泳がせて楽しむ。
まだ俺が一人で鮒を捕ったり掬ったりできなかった幼少の頃、同じ御堂住宅に住む入江の兄貴に良く鮒釣りに連れて行って貰った。その日、深江部落にある県道18号線沿いの御堂池は全く釣れなかった。兄貴は釣ったところを見せてやろうと、足場が悪い沈んだ朽木にも上がって果敢に攻めてくれたが、徒労に終わる。
俺があまりにもガッカリしているから申し訳なく思ったのだろう、数日後、何処かで四匹の鮒を釣って持ってきてくれた。俺は早速、自宅の炭鉱住宅の壁に吊るしてあった古いタライを下ろし、数個の石を入れて泉水に見立て、小さな鮒の楽園を完成させた。このとき初めて自分で何かを創造する楽しさが分かった。
江迎湾の泥土状の海岸線には天然記念物のカブトガニが生息している。猪町川河口から町道、大屋ー口の里ー御堂線の汽水域を注意深く歩くと、時折、泥土に身体半分埋もれたカブトガニのツガイを目にすることができる。
親父の古い知り合いもこの御堂住宅に居て、漁が好きで初中海に出ていた。ある日、家の前に甲羅に大きな裂傷を負ったカブトガニが放置されていた。たぶん、網に掛かったのだろう。
カブトガニは知っていたが、間近で見るのは初めてだったし、まだ生きているようようだったので、興味津々に、「こい、持って帰って飼うてよかや」とオヤジに強請ったが、「もうどうせ死ぬぞ」と諭されたのであっさり諦めて帰った。
その後、何度か海岸で見つけたツガイのカブトガニを持って帰っては無慈悲に死なせた。そのままそっとしておけば死なずに済んだものを。かわいそうに。興味を持ったら触れずにいられないガキは、本当に残酷な生き物だ。大人もそんなガキを目にしたら、ちゃんと言い聞かせて分からせねばならない。特に親は。
兎に角、海岸でカブトガニを見つけると燥ぎ捲って、仲間に見せびらかした。あの頃、俺はカブトガニをカブト亀と勘違いしていた。
親父が、「康太、そりゃカニの一種で亀とは違うぞ」と指摘してくれても信じようとしなかった。だから、川添が自分の飼っている亀と交換しようと言ってくれたときも、亀同士だから当然なことと納得した。だが、この願ってもない申し出は、数日放置したことでカブトガニが弱ってきたためオジャンになってしまった。
どうしたものかと悩んでいた俺に友廣から悪魔の囁きが。
「木村、俺のところに暫く預けんか。俺ん方の井戸で泳がせとったら元気になるぞ」
どうも友廣もカブトガニを亀と思い違いをしていて、俺のカブトガニが欲しかったようだ。海の生き物を陸上に放置して何もしないよりマシだろうと、俺は友廣の誘いに乗った。友廣がカブトガニをどうしたかは分からない。友廣には弱ったカブトガニを俺の家で渡したが、井戸に入れるところは見ていない。
カブトガニの様子を訊く度に、「心配するなって。オイ(俺)がちゃんと見とるけん」を繰り返す。その内、有耶無耶になって忘れてしまった。
猪町町は海と山に囲まれた環境だ。特に山には慣れ親しんだ。山は色んな食べ物で俺たちを呼び寄せる。山桃、ウベ(ムベ)、アケビ、柿、栗、椎の実、ビワ、イタビ(イヌビワ)、山葡萄、山芋などが豊富にあった。春夏秋、小遣い銭は一日10円、年中腹を空かせていた俺は、小遣い銭も無く俺以上に腹を空かせていた友廣と連れ立って、初中山深く分け入った。
秋の果物、俺の好物のウベ(ムベ)は山にはほとんど無く、多くは民家の庭木にその蔓を巻き付けていたから、黙って採る訳にはいかなかった。あるとき、二人で下校していて、土肥ノ浦の民家の敷地で熟したウベの実を見つけて盗んで食べた。運悪く学友に見られて告げ口され、翌朝学校でこってり油を絞られた。
俺には、ウベはお袋の実家の杉の木に大きな蔓が巻き付いていて、毎年豊富に実を付けていた身近な食い物だったが、ウベに目のない友廣に付き合って山を方々彷徨き回った。見つけたら、まだ青い実でも構わず齧る。
山桃については、俺が小学校一年の頃、入江の兄貴と友廣の四人で、親父の、「木村家の山には山桃の大木があるぞ」の言葉を信じて、三岳辺りの山林深く入り込んだ。子供心に気が遠くなるほど遠かった。親父の自信も何のその、山桃の木は中々見つからない。やっと辿り着いた山桃の木は、たった一個だけ実を付けていた。
結構大きな実だったような気がする。入江の兄貴と友廣には悪いが、俺だけ味見させて貰えた。その美味なること、今まで食べたどの山桃の実より美味かった。結局、口に入れたのはこの一個だけ。骨折り損の草臥れ儲けで終ってしまった。
身近な山桃の木は、江迎湾に注ぐ猪町川に架かる竜神橋の西側、植松に至る土肥ノ浦の町道に迫る山から突き出た、なだらかな崖の上にあった。それこそ食べ切れないほどに。友廣と二人、飽きるほど貪った。ただ、生らない年もあったのが残念だ。
全国的にはウベよりアケビの方が一般的なんだろう。学校の教科書にはアケビは載っていてもウベは載っていない。俺は小学校五年生までアケビを見たことがなかった。猪町には無いと思っていた。そんなとき、誰かが猪町の山にもアケビがあると聞きつけてきた。
俺に友廣、森田兄貴、俺の弟他数人でアケビ刈りに出掛けた。猪町川河口の友廣の家から町道・大屋ー口の里ー御堂線を五百メートルほど歩いたゴミ捨て場から山に入る。小さな沢に沿って山の中腹まで登る。足元にはゼンマイが深い森のあちこちに人知れず繁っている。天日があまり差し込まず、薄暗く、何だか気味の悪いところだ。
斜面は結構急だった。両手で灌木を掴みながらみんなに付いて登る。時折、思いついたように地面からにょっきり生え出すゼンマイに目を落とす。茎を覆う深い綿毛とクルクル巻きの頭が魔物の目のようにも思えて、小学生の俺にはおどろおどろしい雰囲気を醸し出す。
数十分歩いてやっとアケビの蔓を見つけ、一同見上げる。そこにはパックリ口を開け、握り寿司のシャリ大のたくさんのアケビの果実が淡紫色の殻に包まれていた。
――あぁ、これがアケビかぁ――
収獲が多いのは嬉しかったが、深い薄暗い森の蔓の巻き付く太い木々の様態が異様だ。悪霊の住む森を彷彿させる。袋一杯実を詰めたら、早いとこズラかりたい気分になる。そそくさと退散してゴミ捨て場まで下り、公平に分配した。初めて口にしたアケビの味はウベより不味かった。
俺と友廣に関してはここのゴミ捨て場から別の恩恵も受けていた。腐敗土に投棄された空の一升瓶が埋まっていて、それを掘り出して海岸で良く洗浄し、酒屋に持って行って換金していた。一本10円だ。
他にも、俺たちはアカと言っていたが、道端で銅線を拾って屑鉄屋に持って行って金に換える。小学校三年のとき、俺は御堂住宅の中にある小売店、仰木店に飾ってあったゴム仕掛けの戦車がどうしても欲しくて、遊び友達の城島に持ち掛けた。彼は俺より年上で猪町小学校の特修学級だったが、ガキの俺らに差別意識など微塵もない。
城島は俺にアカを拾いに行って金に換えようと提案する。俺は二つ返事で乗った。猪町町から隣町の江迎町まで練り歩き、やっと五十円相当のアカを採集して屑鉄屋に持ち込んだ。女主人は怪訝な顔はしたが、ちゃんと買い取ってくれた。
当時の猪町小学校は今の所在地よりちょっと下ったところのグランドになっている場所に建っていた。現体育館の部分に猪町中学校、現小学校校舎に俺の親父の実家があった。今は取り壊されているが、町道を挟んで実家の対面に級友の磯本の親戚が居り、その裏山は林で椎の大木があった。秋、級友と一緒の帰宅時、この裏山を通って帰り、椎の実を拾って食った。別に味があって美味い訳でもなく、単なる口の暇潰し程度だ。
あるとき、磯本と裏山で椎の高木に登った。25メートルはあっただろう。木登りに長けた磯本に釣られて、つい天辺まで登って初めて恐怖に襲われる。俺は高所恐怖症ではなかったが、今まで登った木で一番高かったから。恐怖に慄いた顔を磯本に見られまいと焦る。
下りるときが大変だった。竦んでしまって身体が思うように動かない。一挙手一投足に気を配って慎重に下りる。地に足が着いたとき、もはや椎の実を齧る気はなくなっていた。
今の軟弱な子供にこんな高い木に登るなんてことできるだろうか。まず親がさせないだろう。落ちたら間違いなく死ぬ。でも当時、木登りは俺らの普通の遊びだった。