その2(永田・ビンタ・一年の教室・山ももの木・コウタロウ・お袋の実家・ど田舎の糞生意気なガキ)
小学校三年生になって、太った女性教師の永田が俺の担任になった。俺は永田のビンタの痛さを噂で聞き及んでいたので恐懼した。猪町小学校は二年に一回、一年生・三年生・五年生のときクラス替えがある。クラス編成が終わって、早速友廣がイタズラをやらかし、犠牲者第一号となった。そのビンタの一発は教室中に鳴り響き、俺は噂通りだと縮み上がる。
俺は永田が怖くて堪らず、日曜日の夕方、長屋の横に親父が作った小屋に遊んだ自転車を取り込みながら、明日また学校に行かなくてはならないのかと思うと急に怖気付く。このままずっとここに隠れていたい気持ちになる。下校時の教室掃除、箒で塵を掃きながら突如悲しくなって涙を流したこともあった。
そんな意気地なしの俺でもイタズラはやった。永田に慣れてきた頃だ。教室からチョークを失敬して、通学路のコンクリートに片っ端から落書きして回った。事が発覚した翌日の朝、俺は永田に雑巾とバケツを持たされ、消しに行かされた。
授業態度も段々と悪くなり、永田に眼を付けられ始める。あるとき、咎められた俺は友廣と二人、教壇に立たされた。てっきりあの恐怖のビンタが飛ぶのかと覚悟したら、「もう一度一年生に戻って反省してきなさい」だった。
一年には二年下の弟が居る。親に告げ口しやしないかとビクビクものだった。一日くらい何ともないさと高を括っていたら、担任の前田が急にテストをやると言い出した。俺は不意を衝かれて焦る。もし悪い点でも取ろうものなら俺は三年の恥晒しで、学校中の物笑いの種。そこは何とか踏ん張って、体面だけは保った。
猪町のような日本の西の果てのド田舎のガキは井の中の蛙だ。自分が一番喧嘩が強いと過信しているものだから、双方道でバッタリ出会ったりすると、途端に眼を飛ばし、いがみ合う。
小学校低学年の頃の俺は兎に角気が弱かった。俺の一族の大部分は同じ猪町町に住んでいるので良く遊びに行った。猪町小学校校区の父方より歌ヶ浦小学校校区の母方が多かった。船の村のお袋の実家のいとこは女ばかりの四人姉妹だ。
ある袋ラーメンのCMに長閑な田舎の子供たちの情景が映る。夕暮れの田舎道を小さい子供が浴衣を着て仲良く手を繋いで帰宅している場面。あんな風に俺たちも一日を過ごした。
お袋の船ノ村の本家は次男の英一伯父貴が継いでいて、丘陵部の中腹に二・三件距離を置いて建っている農家だ。田んぼを縫う畦道をちょっと歩くと山間の棚田の土手に出る。その土手に大きな山桃の老木がある。もう実は付けない。俺たちはその下で良く遊んだ。子供だから、山桃の季節になると、もしかして実が生ってないか確かめに行っては徒労に終わる。
土手を上がり切ったところに数件の農家があって、その上には町道が走っている。あるとき、俺と従姉妹二人と弟の四人で山桃の木の下で日向ぼっこで寛いでいたら、上の方から誰かが呼び掛けてくる。
「おーい、わぁがどん(お前ら)、何ばしよっとか(しているのか)?」
「昼寝しとっとくさ(してるのさ)。見て分からんとか?」と俺が答えると、「のぼせた(生意気な)こと言うな。わぁがどん何年か?」
こう切り出されると俺はビクつく。どう考えても俺より年上なのは確かだ。ここで正直に三年とでも答えようものなら、ここまで駆け下りて来兼ねない勢いだ。そこで俺は従姉の次女の学年を拝借して答えることにした。
「五年くさ。わぁがどん何年か?」
「五年たぁ。おんなじやっか」と答えると、奴らはドンドン下りて来だした。これは想定外だ。
小心者の俺は怖くなって従姉妹の家にとんずらした。暫く奥の納戸に引き籠っていると、縁側から何やら話し声が聞こえる。まさかと思いながら覗くと、やっぱり奴らは家が分かったらしく、二年生の三女に俺のことを聞き出していた。
ここまでナメられては顔を出さない訳にはいかない。ヤケッパチ気分で縁側に飛び出すと、田舎特有の小便臭い顔が三つ並んでいた。顔は出したものの、どう対処したら良いのか分からない。気が弱くこういうシチュエーションに不慣れな俺は、情けなくも奴らに愛想笑いを振り撒いていた。
船ノ村にはもう一軒、中野に親父の姉の家があって、年下と年上のいとこが三人居り、時折行き来した。こちらのいとこたちとはあまり仲良くしてなかったので泊まったことはない。伯母は俺が訪ねると良く小遣いをくれたから、そのために行っていたようなものだ。
猪町小学校校区の大野の親父の実家の寄り合いでいとたちと遊ぶときは、皆年下だったので俺が大将だった。いつも仲良く遊んでいた俺たちだったが、あるときちょっとしたことで中野の伯母の次男と喧嘩になった。すると、中学生の兄貴が乗り込んで来て、俺にきつい一発をお見舞した。
小学校低学年の俺が中学生になんかに敵う訳がない。いとこたちの中で大将気分で良い気になっていた俺だったが、このとき初めて篤には兄貴が睨みを利かせていることを悟る。それからは中野の次男と遊ぶのは止めた。
船ノ村のお袋の本家からちょっとした用事で中野の伯母の家に行っての帰り道、トボトボと下を向いて歩いていた俺が、町道のちょうど久保田の家の真上辺りに差し掛かって顔を上げると、視界に自転車に凭れて屯する船の村の悪ガキ連中の姿が。奴らは俺の方を向いてニヤニヤ笑いながら何やらくっちゃべっている。
気の弱い俺は推察する。奴らがそのまま俺を素通りさせてくれる筈がないと。なら取るべき道は唯一つ、逃げだ。誠に情けない事この上ないが、路肩から田んぼに飛び降りた俺は、最短距離で本家に逃げ込んだ。