精神病院の病室から
私がこれを書き留めておきたいのは、日増しに強くなる薬の為に正気を保っていていられる時間が少なくなってきたからだ。
強度の不眠症に悩まされる私は、医師と相談の上で入院することになったのだ。
家族は日増しに憔悴していく自分の世話を看るのが辛いらしい。
無理もない。父親は会社勤めがあるし、母親はパートがある。
私の世話ばかりはしていられないのだ。貧しい我が家では働かなければ食べていけない。今までは、私の給料も家に入れていたから、それなりの暮らしが出来た。
しかし、私が働けなくなり給料を家に入れられず、ましてや治療費がかさむとなるとおちおちのんびりとはしていられないのだ。
私は医師と相談の上で入院せざるをえなくなった。夜な夜な夢と幻覚にうなされる為に熟睡できず、大きな叫び声をあげて夜の静寂を破る私は家族といえども、厄介者でしかない。投薬治療を続けてきたが医師も限界だと判断し、入院せざるをえなくなった。
私は両親とともに精神病院へと向かった。その建物の佇まいは近代的でありながら、どこか淀んだ空気を漂わせていた。病院の入り口には桜が植えてあり、まだ蕾の段階だった。
病院の入り口で母親が名前を告げると事務職の人間と看護師が私を出迎えてくれた。二人は私の荷物を受けとると、別室に案内した。しばらくすると担当の医師も加わり、入院中の注意事項や説明を受けた。いよいよ病室に案内されるとそこは入り口からすでに物々しい雰囲気を漂わせていた。入り口は恐らく強化ガラスと思われる材質で出来た、二重になった扉があった。恐らくは脱走防止の為だろう。一つの入り口の鍵を開けて狭いスペースに医師と看護師と私が入ると、入ってきた扉の鍵を閉めた。そして次の扉の鍵を開けて中に入った。中は明らかに目付きのおかしい者や歩き方のおかしい者。一人でぶつぶつと呟きながら歩いている者などがそこらじゅうをうろうろと当てもなくさ迷っていた。
誰も私の事には関心がない様子で、話しかけてくる者もなく絡んでくる者もいない。正直に言って私はほっとした。あまり人とは関わりたくなかったからだ。こう言ってはなんだが私は精神を病んでいるわけではない。ただ単に不眠症なだけだ。周りの人間とうまくやろうとか、仲良くしようなどという気は毛頭なかった。自分の症状が改善し状態が良くなる為の入院なのだ。なぜ私が人間が想像する事さえ出来ないはずの姿を夢にみるのか?その根本の原因さえ究明されればそれで構わないのだ。投薬治療はあくまでも補助的なもので私が願っているのは臨床心理士によるカウンセリングで悪夢の正体を探ることにある。
普通の悪夢は人間の想像の範疇を出ない。なぜなら、それまでの恐怖の記憶がフラッシュバック的に起きるだけだからだ。だからどんな悪夢もその人間の過去の記憶のなかに意識的にせよ潜在的にせよ潜んでいたものが出てくるだけだ。
しかし、私の今回、悩まされている悪夢はそれまでの悪夢とはまるで違うのだ。過去に見た恐怖映像や記憶の中にないものが次々と現れるのだから。私自身が恐怖を感じているその存在は幼少の頃から今までの経験の中に全く無いものばかりであった。
おかしな具合に曲がった建物や歪んだ石道、真っ暗で星も見えない暗黒の空、そして夢なのに鼻をつく生臭い臭いが私を悩ませるのだ。おかしな色をした粘液がそこらじゅうにこびりついており、異形の何かが残したものと思われた。そう!正しく自分を悩ませているものは異形の何かなのだ。決してこの世界のいかなる生き物でもあり得ない異形の何かが今、私の精神を蝕んでいるのだ。私は夢の中で見た。体に炭を塗ったかのように真っ黒な裸の民衆が言葉にならない叫び声をあげて火を中心に躍り狂っているのを。皆、一様にまるで決められた呪文でもあるかのように決まった言葉にならない叫び声をあげて躍り狂っていのだ。私は夢の中で呟いた。
「しまった!ここは人間がきては行けないところだ!」
と。そうだ私は夢の中で見てしまったのだ。決して人間が見てはいけない何かをだ。
元来、私はある意味でロマンチストだった。幼少の頃から神話や伝説が好きだった。理科の時間に星座早見表をもらってからはそれが加速した。私は不思議でならなかった。なぜ、時刻と方角を合わせると、その方角にちゃんと星座があるのかが。私はそれ以来、夜になると星座を楽しむようになった。そして、ローマ神話やギリシャ神話などの話を家族の前で持ち出しては語った。両親はただ黙って私の話を聞いてくれた。
それなりの年になり科学の本が読めるようになると、私は宇宙に夢中になった。星座は勿論のこと、宇宙の成り立ちや仕組み、或いはまだわかっていない事がたくさんある事に興味を覚え、いつか天文学者になって宇宙の秘密の一つを解明したいとまで思い始めた。やがて、その興味は宇宙の誕生にまで遡る事となった。しかしビッグバン説は私の興味を満たすものではなかった。なぜなら無からある日、突然に有が誕生したという説に疑問を感じたからだ。しかし、科学の本をいくら調べてもそれしか書いてなく、私はしばらく離れていた古代の神話や宗教などにその答えを見いだそうとあがいた。調べてみると古代の神話や宗教には似たような記述があるのがわかった。それは、最初に一人の神が生まれ、それから三人の神が誕生し、それから神々が生まれ、ようやく自分達の姿に似せた人間の男性が誕生し、その体の一部を使って女性を作ったという記述だ。なぜなのだろうか?インドや日本、中国、北欧神話にまでこの記述は共通している。それがゾロアスター教が普及してくると、途端に世界は光から始まり、暗黒神が邪魔をするようになり、やがて後の宗教になると完全に光と闇の対決の二元論になってしまうのだ。そして天国や地獄、輪廻転生などが書かれ、生きている間に徳を積まないと地獄に堕ちると教えるようになる。なぜなのだろうか?なぜ古代の人々は急にそれまでの教えを棄てて簡単な二元論の教えだけを信じるようになったのだろうか?では、それまで信じられてきた教えを最初に説いたのは誰なのだろうか?単なる誰かの想像なのだろうか?そうだとしても、それがこれほど広い範囲に広がったのは何故なのだろうか?誰が伝えたのだろうか?誰が見たというのか?そして何を根拠に昔の人々はそれを信じて、記録に残したのだろうか?
私はしばらく何も考えられない状態が続いた。共通項はたくさんあるのに根拠が無いのだ。しかし、ある時に閃いた。それは、消えたのではなく消されたのではないか、という事だった。
何か都合の悪いことがあり、消えたのではなく消されたのではないか?そして、それを知るものはごく一部なのではないか?
という事が頭から離れなくなった。
インド神話には原初の宇宙をあらわすこんな記録がある。
その時、無もなく、有も無かった。空界も、その上の天も無かった。何者が活動したのか。どこで、誰の庇護のもとに?
深くて計りしれぬ水(原水)は存在したのか?
その時、死もなく、不死もなかった。夜と昼との標識も無かった。かの唯一者は自力により風なく呼吸していた。これより他には何ものも存在しなかった。
太初において、暗黒は暗黒に覆われていた。
この一切は光明なき(混沌とした)水波であった。空虚におおわれて顕れつつあったかの唯一者は熱の力によって出生した。
誰が正しく知るものであるか。誰がここに宣言し得る者か。
この創造は何処から生じ、何処から来たのか。神々はこの創造より後である。ならば、創造が何処から起こったか知る者は誰か?
この創造は何処から起こったのか。誰が創造したのか、あるいはしなかったのか。
最高天にあってこの世界を監視する者のみがこれをよく知っている。あるいは彼もまたこれを知らない。
この文章を読んだときは、頭をおもいっきり殴られたような衝撃を受けた。神々でさえ、宇宙が出来てから作られたのだから、宇宙がどうやって始まったかを知るものは誰もいないかも知れない、という意味だがそれよりも遥か昔に古代人達はもうすでに、ここまでの宇宙観に達していたのかと驚くばかりだ。どこでこれを誰に習ったのか?単なる誰かの想像の産物なのだろうか?
それにしては、まるで見てきたかのようなリアルさだ。あの時代にどうやってこの境地にまで達したのか。まるでわからない。しかし、過去の古代人達はこれを記録に残している。貴兄諸君はいかが思われるだろうか?単なる誰かの想像の産物にしてはあまりに出来すぎていないだろうか?それよりも古代人達は今の現代の私たちと同じかそれ以上の文明を持っていたとでもいうのか。
そして、この話のかなり後に神々と悪魔、あるいは暗黒神が登場するのだ。しかし、ゾロアスター教以降、暗黒神は急に姿を見せなくなり、変わりに神の力に弱い悪魔が登場するのである。
私は違和感を感じぜずにはいられない。なぜ急に暗黒神は人間の記録から姿を消したのか?光があるところには闇がうまれ、神がいるなら闇に蠢く者がいるはずだ。しかし、ゾロアスター教を境に暗黒神は急に姿を消し、神が絶対的に強い世界へと生まれ変わってしまう。何故だ?失われたアトランティスやレムリア、ムー大陸などの記述もある時を境に急に記録から姿を消し、まるで無かったかのようだ。私はここに不自然さを感じるのだ。疑問を呈せざるを得ない。なにかが起こり、それまでの価値観や宇宙観を捨てなければならない理由があると思わざるを得ない。例えば、一部の人間だけがその知識を独占し、姿を消したのではないか?
この軍事衛生だらけの世の中に隠れた文明や遺跡を発見できないはずがないと私自身も思っていた。しかし、ある時に気がついた。
大陸だとわかっていながら、まだ、調査が充分でない大陸が一つだけある。それは、南極大陸だ。沈んだ古代文明の話しは古代の神話などにもでてくる。しかし、ポールポジションで氷づけにされた大陸の話しはない。一夜にしてなのだろうか。それともゆっくりとなのだろうか?
よく、地獄を表す言葉にコキュートスがでてくる。
氷で全てが覆われており、時間さえも止まったようだと表現される。ならば、南極大陸の下に眠っているのは聖書のサタンなのか、それとも失われた暗黒神なのか?
アルハザードはクトゥルーは死んではいない。ルルイエで寝たような状態になっていると記した。そんな巨大な怪物を閉じ込めておけるだけの大陸は南極大陸なのではないだろうか?そして、思念波をだし、人間同士が滅びるように仕向けているのではないか?色々な人種がいるのも本来は違う惑星から来たからではないのか。本当の地球人は誰なのだろうか?どの民族が本当の地球人なのだろうか?彼らが来る前は別の神がこの地球を支配していたのではないか?それが今の現代の時代に土着神として残っている暗黒神なのではないのか?
私は自分の症状がひどくなるにつれ、こんな考えが頭のなかを支配し、やがて眠れなくなり、夢にまで現れるようになった。
まるで、暗黒神が自分の理解者が現れたと喜び、私をみつけ、思念波を送っているようだ。
私は気が狂ったりはしていない。単なる不眠症の患者なだけだ。
なのに、なぜ精神病院に入院しなければならないのか?
暗黒神は存在するのだ。ただ、今は星辰の位置が悪いから、暗黒神が眠ったような状態になっているだけなのだ。彼等に死はない。誰が彼等を殺せるのか?出来るわけがないのだ。古代人でさえ殺せずに閉じ込めただけなのだから。
繰り返すが私は不眠症なだけで、精神は病んでない。しかし、医者は私の描いた絵や文字、そして火の周りを周りながら呪文を唱えていた古代の本当の地球人の呪文を唱えるとすこぶる不愉快な顔をするのだ。私は断じて正常なのだ。ただ、他の人間が気がつかない事に共通項を見いだし、結ぶことに成功しただけなのだ。
私は断じて正常なのだ。心を病んではいない。暗黒神は存在するのだ。この地球に別の神が降り立つ前から。本当の支配者は暗黒神なのだ。背中に翼がはえた光輝く者こそこの地球を奪い、支配した征服者に他ならない。今こそ地球を奪いとった者から地球を奪いかえす時なのだ。
フングルイ・ムグルナフ・クトゥルフ・ルルイエ・ウガ・ナグル・フタグン
さあ!皆でお迎えしようではないか!
この地球の本当の支配者を!
帰るのだ!
本当の地球人の姿に!
賢明な貴兄諸君はもうお分かりだろう。
何が真実なのか?
そうだ。悪魔が神を侵略しようとしているのではなく、神が暗黒神を支配しているのだ。
同族同士が争いあい、殺しあうのはなぜか?
それは古代のDNAと関係があったのだ。奴等は支配者なのだ。我々を蝕んでる害虫と同じなのだ。この地球環境を破壊し、支配者を氷に閉じ込め、まんまと自分がこの地球の支配者になったのだ。
奴等は毒だ。全身を蝕まれる前に取り除かなければならないのだ。今こそクトゥルーを復活させ、地球を取り戻す時なのだ。
さあ!立ち上がれ!同士諸君!
再びこの地球を我等の手に取り戻せ!
「はい、お薬の時間ですよ。あ!どうやって携帯を持ち込んだんですか?携帯は禁止ですよ。没収しますね。えぇ、はいはい。暗黒神ですね。何度も聞きましたよ。えぇわかってますよ。あなたは正常ですとも。だから、お薬を飲んで寝ましょうね。そうすれば幻覚も幻想も幻聴も無くなりますよ。わかってますよ。暗黒神ですね。何度も聞きましたよ。わかってますよ。はい、お薬。」
男は精神病院のベッドの上で深い眠りについた。
ここは精神病院の隔離室。重い症状の人が隔離されている。
参考文献
ラブクラフト全集/創元推理文庫
ネクロノミコン/ドナルド・タイスン/学研
インド神話/上村勝彦/ちくま学芸文庫