3・シークレット・サマー
夏休みが始まる少し前に、ハルは通っていた小学校でちょっとしたごたごたに巻き込まれた。
地元は居心地が悪いだろうと、母はハルを祖母の田舎に放り込んだ。余計なお世話だ、とハルは思ったのだけれど、すべては後の祭りだ。そもそも、母の耳に揉め事を吹き込んだ自分自身の責任である。
ハルは、母と二人暮しをしていた。
仕事の都合であちこちの勤務地を転々とする父は、娘を思い、いつも一人で遠くの地へ赴任している。
そんな父の心配で、母の胸中はいつも忙しない様子だった。おまけにハルまでもが心配事の種を持ち帰れば、神経の細い母では到底それを背負い切れないだろう。
ハルは、自分はそれを充分に解っていた――はずなのに。
物心ついて初めて訪れた祖母の田舎は、山に寄り添うようにして広がる小さな町だった。知らない場所で、ハルは一人、ときおり心細い日常をそれなりに送っている。
最初のうちは毎日泣きたい衝動を抱えながら、真昼の日差しとは対象的に暗い部屋の中でぼんやりと過ごしていた。机の上に広げられた宿題は持て余した時間をぶつけられるようにして次々と埋まっていく。
「お前、頭いいんだな」
涼を取るために開け放されていた縁側から声が掛けられたのは、そんな風に過ごしていたある日のことだった。
庭先に置かれた朝顔の植木鉢の向こうから、よく日焼けした少年がハルを見つめている。
「昨日もそうやって宿題してただろ。勉強、好きなのか」
「好きってわけじゃ、ないけど……」
ハルは戸惑いながらもそう答えた。見ず知らずの人間から遠慮なく声をかけられるなんて、初めての体験だ。どうしても警戒心が先に立つ。
「そうか。じゃあ、これから俺と一緒に遊びに行こうぜ」
けれど少年はハルの困惑など気付かぬ風で、に、と笑顔の端から白い歯を覗かせた。
「この辺には同じくらいのやつ住んでないし、退屈してたんだ。ところでお前、何年生」
「……六年、だけど」
「そっか。俺も同じ。なら今日から友達だな」
なんてことないかのように少年は言う。ハルには理解できない理屈だった。
けれど。
「男の友情は初めて会ったそのときから始まるもんだ。俺はリュウ。お前は」
「……ハル」
躊躇いを覚えつつも、ハルは自らの名前を口にする。リュウの勘違いを正さずに。
その日から、二人は友人となった。
――憂鬱な日常から抜け出したい。嫌なことを忘れ去りたい。
ハルがそのとき強く願っていたことに対して、リュウの存在は非常に都合が良いものだった。
リュウと過ごす毎日はいつも楽しかった。暑い日は川で涼み、快晴の日は虫取り網を片手に雑木林へと足を踏み入れる。
大きなカブトムシはデパートの売り場で目にしたことがあるが、親指の先ほど小さなものを間近で見るのはハルにとって初めてのことだった。もっとも、虫自体はあまり好きではないのだが。
女であることが露見しないよう、ハルはいつも慎重に慎重を重ねて服装を選んだ。
元からあまりスカートを好む方ではなかったので、家から持ってきたのは淡い色のジーンズや麻のように薄い素材でできたカーゴパンツばかりで、紫外線に弱い肌を守るための長袖も大いに役立った。性別以外、ハルはリュウに対して嘘をつかないと決めている。
引きこもりから一転、よく外に出るようになった孫を心配してのことか、祖母は古い麦藁帽子をハルに手渡した。広いつばに縫い付けられた布には、母の名前が記されている。恐らくは、同じくらいの年齢の母が使っていたものなのだろう。ぴったりとハルの頭に合った大きさだった。
リュウからは早朝のラジオ体操にも誘われたが、ハルはやんわりとそれを断った。
朝早くに起きることは特に苦しいとは思わない。けれど、リュウ以外の誰かと人間関係を構築する気が、どうしても起きなかったのだ。
すべては偽りだ。
嘘はひとつしかないけれど、この夏が終わればハルは何事もなかったかのように母と暮らす家に戻るだろう。繋がりは最低限まで少ない方がいい。
リュウと過ごす日々は楽しかった。けれど、だからこそ、ハルはそれを楽しいまま、美しい思い出のように記憶に留めておきたかったのだ。
男同士の友情。そんな言葉が、ハルの耳には心地よく響く。
リュウと過ごすそのひとときだけ、ハルは自分が女だという事実を忘れる。そこにいるのはハルという名前の少年であり、少し体の病弱な、ひと夏だけのリュウの友人だ。
きつい日差しの下なら、忘れていられる。
あのことを。
――……今日のことは、誰にも内緒でいよう
ささやくようなあの声は、今も耳から離れないでいる。
吐き気がした。